第三十一話 フォーラムの新年度と新たな研究課題:迫りくる危機と、目覚める若き知性
4月、新学期が始まり、俺たちが参加する皇道学館のフォーラムも新年度を迎えた。
いつもの図書館の奥にある会議室は、例年とは異なり、新入生で溢れかえっていた。
中学生の一般入試枠がない皇道学館において、フォーラムの参加者は通常、経済界や貴族の子弟に限られる。
しかし、今年は経済界の子弟から10人ばかりが新たに加わっている。
今まで3学年合わせても10人いるかどうかのフォーラムも、新入生だけであっという間にその数を凌駕しそうだ。
会議室の中央では、萬斎先輩が、年初からの株価暴落の影を宿した暗い顔をしながら、このフォーラムを牽引している。
しかし、彼の議題は相変わらず、どこか楽観的で、具体的な解決策に乏しい。
当然だ。
中学生にバブル処理や経済危機からの脱却など期待できるはずもない。
だが、それでも、最悪の想定ができていない彼の甘さには、正直、危機感を覚えた。
俺は、このままでは意味がないと判断し、今回の研究課題として、南海泡沫事件とオランダチューリップ相場の破綻という、過去の有名なバブル崩壊事例を推薦した。
「皆、年初からの株価の動きを見て、何か思うことはないか? 歴史は繰り返すというが、過去のバブル崩壊の事例から、我々が学ぶべきことは多いはずだ。このフォーラムで、過去の事例を徹底的に研究し、現状を正確に認識する必要があると思う」
俺がそう提案すると、萬斎先輩は渋い顔をしていた。
おそらく、自身の立てた研究課題が覆されることに不満があったのだろう。
しかし、他の生徒たちは、俺の提案に興味を示したようだった。
彼らの顔には、漠然とした不安の中に、知的好奇心の光が宿っている。
「村井の言う通りだと思います。過去の事例を検証することは、現在の状況を理解する上で不可欠。目の前の現象に囚われるのではなく、歴史的視点から本質を見抜くべきだと私も考えます」
梓が、流れるような美しい声で俺を援護してくれた。
彼女の言葉は、説得力を持って生徒たちに響いた。
そのおかげもあり、俺の提案はあっさりと採択された。
ここに集まる連中は、素質だけでは相当なものを持っている。
彼らが、できるだけ早くバブルの正体に気づき、この国の未来を担う人材として、その力を発揮してくれることを願った。
どこまで萬斎先輩が俺の提案を真剣に受け止めてくれるか不明だが、新年度は、俺の意図せぬ方向へと進み始めていた。
*****
中学二年生、新たな始まりと深まる関係:秘めたる誘い
4月に入り、俺も梓も、ともに進級して中学二年生になった。
新しい教科書を抱え、年度初めに始業式に出てみると、校内の雰囲気は、年始から始まった株価の下落の影響を色濃く受けていた。
新学年の始まりを祝うような浮かれた空気は微塵もなく、多くの生徒たちの顔には、不安や戸惑いの色が浮かんでいる。
まるで、未来への希望が見えないかのように、皆が俯きがちだった。
その日は始業式だけなので、そのまま午前中で学校は終わり、俺は梓と一緒に、彼女とリリーナさんが新しく移り住んだマンションへと向かった。
橘執事と、新たに雇われたメイドの美咲さんもここで生活をしているらしいが、今はふたりとも、リリーナさんのための基金設立に関する最終手続きや、松濤の屋敷の売却後の後始末に奔走しているらしく、住まいにはいない。
広々としたリビングには、まだ最低限の家具しか置かれておらず、引っ越しの段ボール箱がいくつも積まれていた。
しかし、窓から差し込む春の光は、この部屋に、そして彼女たち母娘の未来に、希望の光を投げかけているかのようだった。
梓が、淹れてくれた紅茶を俺の前に置いた。その手つきは、まだ少しぎこちない。
「村井様、本当にありがとうございます……。まさか、私たちがこんな風に、新しい生活を始められるなんて」
梓の声は、安堵と感謝で満ちていた。彼女の表情は、数週間前までの絶望の色は完全に消え去り、澄み渡る青空のように晴れやかだ。
リリーナさんは、そんな梓の頭を優しく撫でながら、俺を見つめた。
その瞳には、深い安堵と、そして今まで見たことのない、熱を帯びた輝きが宿っていた。
「村井様……」
リリーナさんが、静かに俺の隣に座った。梓が、何かを感じ取ったかのように、そっとリビングを出ていく。
部屋には、俺とリリーナさんの二人だけが残された。
窓から見える東京の街並みが、夕焼けに染まり始めている。
その光が、リリーナさんのプラチナブロンドの髪を、燃えるような金色に染め上げていた。
彼女は、ゆっくりと、しかし確実に俺に顔を近づけてきた。
その吐息が、俺の頬を熱くくすぐる。甘く、そして官能的な香りが、俺の理性を揺さぶる。
「私……そして梓は、村井様のおかげで、すべてを失う寸前で救われました。私たちに残されたものは、この身体だけ。そして、この身体は、村井様にお仕えするためにあるのです」
リリーナさんの声は、先ほどまでとは打って変わって、低く、そして誘うような響きを帯びていた。
彼女の瞳は、吸い込まれるような青い光を放ち、俺を見つめている。その視線には、覚悟と、そして秘めた情熱が宿っていた。
プラチナブロンドの髪が、肩から滑り落ち、白い肌が、かすかに露わになる。
その完璧な造形美は、まるで神が創造した芸術品のようだった。
彼女の指先が、俺の服の裾にそっと触れる。
それは、まるで氷のような冷たさでありながら、同時に、燃えるような熱を帯びているかのようだった。
俺は、リリーナさんの覚悟を受け止め、その手をそっと握った。
彼女の瞳は、深く、そして真剣に俺を見つめ返している。
この瞬間、言葉は必要なかった。互いの間に流れる、確かな理解と、未来への誓いが、すべてを物語っていた。
このマンションの一室で、俺とリリーナさんの間に、新たな、そして決定的な関係が築かれようとしていた。それは、単なる庇護関係を超えた、もっと深く、そして甘美なものになるだろう。俺の復讐の序章は、確実に、そして予測不能な方向へと進み始めていた。
*****
資産の拡大と新たな戦略:秘された過去と、動き出す復讐の歯車
自宅マンションに戻ると、法子さんがリビングで、相場の結果をまとめた資料を熱心に調べていた。
2月に入る前に仕込んだ先物ポジションは、既にすべて決済済みだ。
年度替わりを控え、結果が出揃う時期だった。
法子さんの瞳は、驚きと尊敬の念で輝いている。
その眼差しは、俺に対する揺るぎない信頼に満ちていた。
彼女の言葉は、俺の孤独な復讐を支える、何よりの力となる。
「まだまだこれからだ、法子さん。この相場は、俺の記憶ではさらに深く、長く下がる。だが、今、俺が真に狙うべきは、市場だけではない。そろそろ他のことにも目を向けないと」
俺はそう言って、法子さんの手を握った。
その指が、俺の指に優しく絡みつく。
この莫大な資金があれば、様々な手を打つことができる。
20億円でリリーナさんの屋敷を買い取り、その売却益で基金を作らせているが、基金が本格稼働すれば、俺の方から更に追加で資金を入れる予定だ。
当面は100億円でもあれば、彼女たちの生活は盤石になるだろう。
しかし、俺の真の目的は、単なる庇護ではない。
「そういえば、以前リリーナさんの個人資産を確認した時に見つけた**『丸亀造船』**の株券があっただろう? あれ、爺さんに調べてもらえないか?」
俺は、ふと頭に浮かんだ疑問を口にした。
あの時見つけた、わずかながら残されていた株券。
桜華院の宗家が、なぜあれを見落としたのか、あるいは、なぜ敢えて残したのか。
その理由が気になっていた。
翌日、爺さんに連絡を取ると、すぐに調べてくれることになった。
数日後、爺さんから連絡が入った。その声は、普段の飄々としたものとは異なり、どこか怒りを孕んでいるようだった。
「おい、宝塔。あの『丸亀造船』の株だが、調べたぞ。あれは、桜華院の宗家が強奪できなかった代物だ」
爺さんの言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
強奪できなかった? 一体どういうことだ。
「どういうことですか、爺さん?」
「リリーナの旦那は、確かにあの造船会社を創業し、地方財閥にまで育て上げようとしていた。だが、桜華院宗家が邪魔をした。奴らは、あの会社を丸ごと手に入れようとしたが、できなかったんだ。なぜなら、その背後に、海軍の目があったからだ」
爺さんの声が、低く響く。
海軍。
この時代、軍部は、国内経済にも大きな影響力を持っている。
「丸亀造船は、四国で唯一、海軍指定工場として、軍艦の修理や部品製造を請け負っていたらしい。だから、桜華院宗家が、公然と株を買い占めたり、強引な手段で乗っ取ろうとすれば、海軍の逆鱗に触れることになっただろう。奴らも、そこまではできなかったようだ」
「では、支配権を奪ったというのは?」
「委任状の偽造だ。桜華院の倅は、株式の過半数を握っていたが、その株券を物理的に奪うことはできなかった。しかし、偽造した委任状で、彼の保有する株式の議決権を掌握し、役員を送り込み、事実上の支配権を奪ったんだ。表向きは彼の急死による経営権委譲という形を取ったが、実態は違った。だから、あのわずかな株券が、リリーナさんの手元に残っていたのだろう。株券そのものを奪えば、海軍が黙っていないからな」
爺さんの説明に、俺の胸に熱いものがこみ上げた。
桜華院宗家の狡猾さ、そしてその背後にちらつく軍部の影。
だが今回の場合は、正直海軍さんに助けられたというべきか。
この国の闇の深部へと、俺が踏み込むきっかけとなるかもしれない。
丸亀造船の株券。
それは、ただの紙切れではない。
梓の父親が命を懸けて守ろうとした、最後の抵抗の証なのだ。
「なるほど……ありがとう、爺さん。これで、やるべきことが明確になった」
俺は、受話器を置いた。
法子さんが、心配そうに俺を見つめている。
「宝塔様……何か、大変なことが?」
「ああ。とんでもない置き土産を見つけたようだ。だが、これで、俺の復讐の歯車は、さらに複雑な動きを見せることになる」
俺の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
丸亀造船。
その名が、俺の脳裏に深く刻み込まれた。
この株券は、桜華院宗家への、そしてこの国の闇への、新たな宣戦布告となるだろう。
*****
フォーラムの躍進と萬斎先輩の覚醒:静かなる変革の胎動
俺の提案を受けて、萬斎先輩は驚くべき行動力を見せた。
これまで、どこかお飾りのように感じていたフォーラムの活動に、突如として火がついたかのように、彼は動き出したのだ。
自身の所属する萬斎財閥のコネを最大限に活用し、南海泡沫事件とオランダチューリップバブルに関する膨大な資料を収集。
それらは、ただの歴史的事実を羅列したものではなく、当時の社会情勢、人々の心理、そして経済的影響までを深く掘り下げた、質の高い内容だった。
さらに驚くべきことに、4月中旬にもかかわらず、萬斎先輩は、その資料を元に、萬斎財閥のベテランエコノミストを招き、フォーラムで講演会をしてもらう手はずを整えた。
これには、俺自身も度肝を抜かれた。
あまりやる気を感じていなかった萬斎先輩が、やると決まったら、本当に全力を持ってこのフォーラムを率いている。
彼の内に秘められたポテンシャルの高さに、俺は感嘆した。
講演会当日、会議室は立ち見が出るほどの盛況ぶりだった。
財閥のエコノミストは、具体的な数字と、当時の社会状況を紐解きながら、いかにして投機熱が過熱し、そして崩壊に至ったかを、克明に解説した。
生徒たちは皆、真剣な眼差しで彼の話に耳を傾けている。
特に、新入生たちは、目を輝かせ、熱心にメモを取っていた。
彼らは、この混乱の時代に、何かを掴もうとしている。
今年の1年生は、間違いなく儲けものかもしれない。
講演会が終わり、生徒たちが次々と質問を投げかける中、萬斎先輩が俺の元へと歩み寄ってきた。
彼の表情は、これまで見たこともないほど真剣で、その瞳には、未来を見据える強い光が宿っていた。
「村井、君の言う通りだ。これは、喫緊の課題だ。我々が、この国の未来を担うならば、過去の過ちから目を背けるわけにはいかない」
萬斎先輩の声には、これまでになかった強い決意が感じられた。
彼の言葉は、単なる社交辞令ではない。
彼自身が、この経済の嵐の中で、何かを見出し、そして覚醒しようとしているのだ。
「我が萬斎財閥としても、この国の経済の行く末を案じている。君たちの研究が、何かの助けになれば幸いだ」
萬斎先輩は、そう言って、俺の肩を力強く叩いた。
その手には、確かな信頼と、そして共闘の意思が込められているかのようだった。
彼の言葉は、フォーラムの活動が、単なる学園内のサークル活動に留まらない、もっと大きな意味を持つことを示唆していた。
この日、俺は確信した。萬斎先輩は、この混乱の中で、真のリーダーへと成長していく。
そして、このフォーラムは、やがて来るべき日本の変革において、重要な役割を果たすことになるだろう。
俺の復讐の歯車は、着実に、しかし確実に、社会全体を巻き込みながら、動き出しているのだ。




