第二十七話 宗一郎の過去とリリーナさんの再出発:秘められたロマンスと、未来への誓い
桜華院母娘を庇護する決断を下した翌日の午後、俺たちは再び婆さんの事務所に集まっていた。
重厚な木製のテーブルの上には、松濤の屋敷の売買契約書と、リリーナさんのための基金設立に関する書類が並べられている。
爺さんも同席し、厳粛な手続きが始まる。
売買契約書にサインをするリリーナさんの手は、わずかに震えていた。
しかし、その瞳には、恐怖ではなく、未来への希望が宿っている。
それは、長年の苦しみから解放され、新たな人生を踏み出す覚悟の表れだった。
手続きの合間、爺さんがリリーナさんに語りかけた。
その声には、懐かしさと、そしてどこか茶目っ気のようなものが混じっていた。
「あのジジイも、まさかこんな形で縁が繋がるとは思わなかっただろうな。リリーナさん、宗一郎はお前さんと、桜華院の倅と、取り合った仲だったが、結局、愛人にはできなかったらしいな」
爺さんの言葉に、リリーナさんは頬を赤らめ、はにかんだように微笑んだ。
その表情は、まるで初恋の少女が、昔の淡い恋を思い出しているかのようだった。
宗一郎とリリーナさんの間には、肉体関係はなかったにせよ、何か深い精神的な絆があったのかもしれない。
それは、単なる情欲を超えた、互いを認め合う魂の繋がりだったのだろう。
「私は、宗一郎様のことを心から尊敬しておりました。彼の、あの……強引なまでの情熱に、何度も救われたような気がいたします」
リリーナさんの声は、静かだが、その言葉からは、宗一郎への深い敬愛が感じられた。
彼女は、日本で生まれたものの、両親がロシア革命の混乱で日本に逃れてきた経験から、常にこの不安定な世界で「庇護」を求めていたのだろう。
そんな中で、宗一郎の存在が、彼女にとって大きな心の支えだったのだ。
彼は、どんな困難にも臆することなく、真っ直ぐに彼女の心にぶつかってきたのだろう。
俺は、祖父である宗一郎の破天荒な人生に、改めて思いを馳せた。
彼は確かに問題も多かったが、人を惹きつけるカリスマ性と、そして何よりも、困っている人間を見捨てることのできない、海のように深い優しさを持っていたのかもしれない。
契約書に署名が終わり、基金設立の書類に判が押された。
リリーナさんは、再び深々と頭を下げた。その瞳は、俺への感謝で満ちていた。この瞬間、彼女の人生は、宗一郎の庇護から、俺の庇護へと、静かに、しかし確実に受け継がれたのだ。
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新しい生活と新たな関係:家族という名の絆、そして秘められた財産
数日後、松濤の広大な屋敷の売却手続きは無事に完了した。
リリーナさんと梓は、桜華院家から正式に独立し、俺の庇護のもとで新たな生活を始めることになった。
当面は、婆さんが手配してくれた、俺が住むマンションの近くにある別のマンションで暮らすことになった。
利便性を考慮し、かつ、彼女たちのプライバシーを尊重した、婆さんらしい配慮だった。
引っ越しの手伝いに訪れた俺の前に、リリーナさんはひざまずいた。
彼女の姿は、まるで絵画から抜け出してきたような、神々しい美しさだった。
プラチナブロンドの髪が床に触れるほど深々と頭を下げ、その瞳は、忠誠と、そして秘めた情熱を宿しているかのようだった。
「宝塔様……これからは、私ども親子は、宝塔様にお仕えいたします。この命、宝塔様のために尽くします」
彼女の声は、かつての悲壮感とは異なり、清々しいほどの決意に満ちていた。
その横で、梓もまた、まっすぐに俺を見つめ、静かに頷いている。
そのまなざしは、幼いながらも、母と同じ覚悟を示しているようだった。
「そんな、畏まらないでください、リリーナさん。梓も」
俺はそう言って、彼女たちに手を差し伸べ、立たせた。リリーナさんの手を取り、そっと引き上げる。その指先から伝わる柔らかな感触が、俺の心を揺さぶる。
それは、これまで感じたことのない、温かく、そして確かな繋がりだった。
「これからは、家族です。血の繋がりはなくとも、私たちはお互いを支え、助け合いながら生きていく。あなたたちの過去は、私がすべて引き受けます。そして、これからの未来は、私が切り開いていく」
俺の言葉は、偽りない本心だった。
家族。この言葉が、俺の心に温かい感情を呼び起こす。平田嶺としての孤独で冷徹な人生を歩んできた俺にとって、血の繋がりはなくとも、こうして新たな家族を得ることは、何よりも大切なことだった。
それは、俺の復讐の目的が、単なる社会の破壊だけでなく、新たな絆を築き上げることにもあるのだと、改めて教えてくれるようだった。
梓が、俺の腕にそっと触れてきた。
その小さな手は、俺に温かい安心感を与えてくれる。彼女の瞳は、未来への期待に輝いていた。
「村井様……ありがとうございます」
梓の声は、小さく震えていたが、その表情は晴れやかだった。
彼女もまた、この新たな関係に、確かな安堵と希望を見出しているのだろう。
この日から、俺の人生は、大きく変わった。
リリーナさんの妖艶な美しさと、梓の清純な魅力が、俺の日常に新たな彩りを加えた。
彼女たちは、俺の庇護のもと、新たな人生を歩み始めたのだ。
新しい生活の準備と並行して、俺はリリーナさんの個人財産の確認も行った。
松濤の屋敷の売却益に加え、彼女名義の銀行口座や、僅かながら残された有価証券の類を精査していく。
その中で、俺は意外なものを見つけた。それは、梓の父親が創業した**「丸亀造船」の未公開株券**だ。
桜華院の宗家が、父親の財産を吸い上げた際に、何らかの理由で見落としたのか、あるいは重要視しなかったのか。
わずかながら残されていたその株券は、この混乱期において、後に大きな価値を持つ可能性を秘めていた。
俺は、その株券をそっと手帳に挟み込んだ。
これは、桜華院家への、ささやかな、しかし確かな復讐の種となるだろう。
そして、俺の復讐の歯車は、家族という名の新たな力を得て、さらに激しく回り始める。
この混乱の時代の中で、俺たちは、互いを支え合い、そして、それぞれの未来を切り開いていく。