第二十六話 桜華院母娘の覚悟:差し伸べられた手
俺たちが婆さんの事務所で橘執事に会ってから翌日に梓は、自身の母親であるリリーナを伴い、橘執事と共に、再び婆さんの事務所を訪ねてきた。
その足取りには、昨日までとは異なる、揺るぎない決意が感じられた。
部屋の扉が開くと、そこに立っていたのは、俺がこれまでの人生で見たどんな女性よりも、現実離れした美しさを持つ人物だった。
彼女、リリーナさんは、まさに絵画から抜け出してきたかのような、白系ロシア人の非常に美しい容姿だった。
透き通るような白い肌は、日本の女性にはない、陶器のような滑らかさ。
吸い込まれるような青い瞳は、遥か彼方の凍てつく大地を映しているかのようだ。
そして、惜しみなく背中に流れるプラチナブロンドの髪は、光を受けて輝き、見る者を釘付けにする。
彼女からは、歳を重ねた女性特有の色香と、少女のような純粋さが同居しているような、まさに息を呑むような美しさが漂っていた。
その見た目は、とても30代には見えない。
時が彼女に与えたのは、年齢という重荷ではなく、一層の深みと艶だった。
これまで、法子さんや澪先輩といった純粋な日本人の美女を何人も見てきたが、リリーナさんは紛れもない白人であり、その美しさは異質で、強烈なインパクトがあった。
ただ、その完璧な美しさの中には、どこか儚げな雰囲気が漂っており、それがまた、男の庇護欲を掻き立てる。
彼女は、俺の顔を見るなり、迷うことなく深々と頭を下げた。
プラチナブロンドの髪がサラリと流れ、その仕草さえも絵になる。
その姿は、まるで長い旅路の果てに、ようやく安息の地を見つけたかのような、切実な願いを込めたものだった。
「村井様、この度は、娘の無礼をお許しください。そして、私どもの願いをお聞き届けいただき、心より感謝申し上げます」
リリーナさんの声は、まるで鈴の音のように澄んでいて、俺の耳に心地よく響いた。
その声には、彼女が背負ってきたであろう苦悩と、そして俺への一縷の望みが、切々と込められているようだった。
彼女の視線と、梓の期待に満ちた視線が、俺に突き刺さる。その瞳の奥には、「あなただけが頼りです」という、無言の訴えが込められていた。
「頭をお上げください、リリーナさん。まずは、詳しいお話をお聞かせ願えますか」
俺は、彼女たちの覚悟の重さを感じながら、冷静に対応した。
いよいよあちらは覚悟を決め、俺に人生を懸けるようだ。この決断が、俺の、そして彼女たちの人生を大きく変えることになるだろう。俺の復讐の歯車は、さらに加速していく。
*****
桜華院母娘との面談:交錯する過去と未来
婆さんの事務所での面談は、重く、そして厳粛な空気の中で進んだ。
リリーナさんの口から語られる桜華院家の現状は、橘執事から聞いた話とほぼ同じだった。
しかし、彼女自身の言葉で語られると、その悲痛さがより一層、俺の心に響いた。
彼女は、ロシア革命で祖国を追われ、日本に流れ着いた貴族の娘として、この国で生れた。
その美貌ゆえに、若い頃から幾度となく権力者たちの妾として狙われてきたという。
そして、若き日の俺の祖父、宗一郎も、彼女の美しさに魅せられ、猛烈な求婚を試みた一人だったらしい。
しかし、結局は梓の父親、つまり桜華院侯爵の庶子に先を越され、宗一郎は失意のうちに身を引いたという過去があった。
彼女の人生は、常に美貌と血筋に翻弄され、自らの意思とは関係なく、権力者たちの思惑に巻き込まれてきた歴史だったのだ。
「……私の人生は、常に『商品』として扱われてきました。父を亡くし、母と二人で異国の地で生きるために、私にはそれしかなかったのです。しかし、私の心は、常に私を慈しんでくれた、ただ一人の男性、梓の父の元にありました。そして今、私の娘までが、私と同じように、その身を捧げさせられようとしている。それは、私にとって耐え難いことです」
リリーナさんの声は、静かだが、その奥には深い悲しみと、そして娘を守ろうとする母親の強い意志が感じられた。彼女は、自らの過去を恥じることなく語り、その瞳は、未来への希望を求めて、俺を見つめていた。そのまなざしは、かつて宗一郎に向けられたものと同じ、純粋な光を宿しているかのようだった。
「もうかなり昔のことになりますが、宗一郎様には大変よくして頂きました。
ですが、その時にはあざ差の父親とお付き合いさせていただいておりましたので、すぐにお断りをしましたが、宗一郎様はそれはそれは積極的に……」
リリーナさんが祖父とのことを語りだしたと同時に顔を赤らめた。
「ですが、私が本当に梓の父親を愛していることが分かると、それはとても紳士的に……ですが、あの時もし、梓の父親との出会いがもう一月遅かったら、私の気持ちはどうなっていたか……」
そこまで言うと、さらに顔を赤らめて「今でも宗一郎様を尊敬しております」と、言っている。
しばらくの間を開けてから、俺の受け入れに関して感謝を言い始めた。
「村井様が、私たちを受け入れてくださると仰ってくださった時、私は、ようやくこの長い悪夢が終わるのだと思いました。宗一郎様がご存命でしたら、きっと同じように私達を救ってくださったでしょう。どうか、私たち母娘を、あなたの庇護のもとに置いてください。私たちは、村井様のためならば、どんなことでも致します。この身が朽ち果てるまで、村井様にお仕えいたします」
リリーナさんは、再び深々と頭を下げた。
その横で、梓もまた、俺に視線を向け、母親と同様の覚悟を示している。
俺は、二人の覚悟を受け止めた。
この場にいるのは、もはや「公爵令嬢」や「ロシア貴族の娘」ではない。
ただ、生き残るために、自らのすべてを差し出そうとする、二人の女性だ。
「わかりました。リリーナさん、梓さん。あなたたちを、私の庇護のもとに置きます」
俺の言葉に、二人の顔に安堵の表情が広がる。
特に、リリーナさんの目からは、一筋の涙が流れ落ちた。
それは、長年の苦しみから解放された喜びと、未来への希望の涙だった。
梓の父親が死んでからは、それまで以上に苦しかったのだろう。
桜華院宗家の庇護があったとはいえ、あのような噂がある以上、安心などできようもない。
「橘執事、松濤のお屋敷の売却については、できるだけ早く手続きを進めてください。そして、売却益は、リリーナさんの基金として、私が管理します。彼女たちの生活と、将来を、私が全面的に保証します」
俺の指示に、橘執事は深く頭を下げた。
彼の忠誠心は、もはや桜華院宗家ではなく、この俺に向けられていることを確信した。
そして、その日の夜。
俺は、リリーナさんと梓を、俺が住むマンションの最上階へと招き入れた。
法子さんも同席し、今後の生活の準備を始めた。
リリーナさんは、今までの言いようもない緊張を強いられる生活、そして貴族としての立場から解放されたことに、まだ戸惑いを隠せないようだったが、その瞳には、確かな安堵と、俺への信頼が宿っていた。
その晩、俺はリリーナさんと、そして梓と、それぞれ深く話し合った。
彼女たちは、自らのすべてを俺に委ねる覚悟を示した。
リリーナさんは、その美貌と、長年の貴族社会で培った知識と人脈を、梓は、その若さと知性、そして未来の貴族社会のキーパーソンとしての可能性を。
夜が更け、法子さんも席を外した。
部屋には、俺とリリーナさんの二人だけが残された。
窓の外には、東京の夜景が広がり、遠くでパトカーのサイレンが鳴る。その音は、まるでこの街の、そして日本の狂騒を象徴しているかのようだった。
リリーナさんは、静かに俺の隣に座った。
その吐息が、俺の肌をくすぐる。彼女の瞳は、吸い込まれるような青い光を放ち、俺を見つめている。
その視線には、覚悟と、そして何かを求めるような、熱い響きがあった。
「村井様……」
彼女の声は、先ほどよりも、一層甘く、そして誘うような響きを帯びていた。
プラチナブロンドの髪が、肩から滑り落ち、その白い肌が、かすかに露わになる。
彼女の体からは、甘く、そして官能的な香りが漂い、俺の理性を揺さぶる。
俺は、彼女の覚悟を受け止める。
その手を取り、彼女の顔をそっと引き寄せた。
リリーナさんの吐息が、さらに熱く、俺の頬にかかる。
彼女の青い瞳が、迷いなく俺を見つめ返した。
その瞳の奥には、長年抱えてきたであろう悲しみと、それでも抗えなかった運命、そして今、俺にすべてを委ねようとする、一人の女性の純粋な願いが宿っていた。
この夜、俺は、ただの庇護者ではなく、彼女たちのすべてを受け入れる存在となる。
桜華院の母娘が、俺の復讐の歯車の一部として、そして俺の新たな力の源として、その身を捧げる覚悟を決めたのだ。