第二十五話 桜華院家の現状と俺の決断:過去のロマンス、そして救済の取引
婆さんの事務所で、爺さんと橘執事の間に、過去の因縁が複雑に絡み合った会話が始まった。
俺が梓から聞いた話と寸分違わぬ内容が、彼らの口から語られる。
「ええ、リリーナ奥様が、村井様に庇護してほしいと望んでおりましたが、その……」
橘執事が言葉を濁すと、爺さんが呆れたように言った。その声には、宗一郎への諦めと、どこか自嘲にも似た響きがあった。
「ああ、宗一郎はこの間くたばったよ。まったく、女と金にはだらしなかったが、最後まですごい男だったな。問題ばかり残してくれたが」
爺さんの言葉は、宗一郎の破天荒な人生を端的に物語っていた。しかし、その中には、長年の付き合いで培われた、複雑な感情が滲み出ている。
「ですが、お嬢様が諦めておりませんので、その辺の調査をと、村井様を知る弁護士先生に伝手を頼りにご無理を願った次第です」
橘執事がそう説明すると、婆さんが俺を指差して、意地の悪い笑みを浮かべた。
「宗一郎は亡くなったが、彼の孫がいてね。そいつはそこのやつだが、こいつがとんでもないやつだ。血の濃さだけなら宗一郎を抜くね。私や近藤と比べても、その奔放さと、女を惑わす天性の才能は、宗一郎以上かもしれないわね」
婆さんのディスりに、俺は内心苦笑いした。
しかし、その言葉の裏には、俺への信頼と、どこか期待のようなものが感じられた。
「それで、桜華院の内部はどうなっているんだ? リリーナと梓嬢ちゃんの状況は?」
爺さんはお構いなしに、桜華院の内部のことを聞いている。
橘執事の表情は、一瞬にして曇った。
「……現状は、かなり厳しいかと。金のある宗家はまだ良いのですが、その連枝にあたる分家筋の者たちが、今回の株の暴落で、本当に余裕のない者が出始めております。彼らは、リリーナ奥様の美貌と、お嬢様の『貴族の血』という価値に目をつけ、あの母娘を無理やり手籠めにした挙句、海外の富豪に売り飛ばそうと画策している者までおります」
橘執事の言葉に、俺は思わず眉をひそめた。
人間の欲望と、それに伴う残酷さは、いつの時代も変わらない。
「特に、リリーナ奥様名義の、今お住まいの松濤の広大な屋敷を狙っているようです。あの屋敷は、桜華院家の中でも一等地の広大な土地であり、喉から手が出るほど欲しいのでしょう」
「桜華院内部で敵対しているというわけか。しかも、身内に対して、そこまで非道なことをするとは……」
爺さんが確認するように尋ねる。
その声には、かすかな怒りが宿っていた。
「まだ敵対までは、というか、敵対するだけの力が奥様にもお嬢様にもありませんし、それを公にすることもできない。なので、庇護がほしいと、切実に願っているのです」
橘執事の声は、絶望の色を帯びていた。
彼の忠誠心と、主を守りたいという強い思いが伝わってくる。
「本当に、あのクソジジイのときと条件は同じでいいのか? かりにも貴族様なのに、愛人として囲われることを望むとは……」
爺さんの言葉に、橘執事は深く頷いた。
「ええ、奥様は、ご自身の過去を顧み、覚悟を決めておりました。宗一郎様の庇護を得られれば、この状況を乗り切れると……。しかし、宗一郎様が他界されたと聞いて、かなり落ち込んでいらっしゃいましたが、それでも、お嬢様のために、と」
そこで言葉が途切れると、婆さんが続いた。
その声には、深い洞察と、そして俺への期待が込められていた。
「娘はそれ以上か……。宝塔、問題ないぞ。好きにしなさい。お前には、それができるだけの力と、そして何より、宗一郎以上の胆力がある。私と近藤も、お前を全面的にバックアップする」
婆さんの言葉は、俺の背中を力強く押すようだった。
彼女の瞳は、俺の未来を見通しているかのようだった。
俺は驚いて、橘執事を見た。
彼は、俺の年齢に戸惑っているのが見て取れた。
公爵令嬢が、まだ中学生の俺に身を委ねようとしているという現実が、彼には信じられないのだろう。
「え? 彼が、その……宗一郎様の、お孫様でいらっしゃるとは伺っておりましたが、まさか、その、ご当主が、このようにまだお若いとは……」
橘執事が言葉をどもらせる。
「ああ、爺さんの代わりだ。宗一郎の血を色濃く受け継いでいるから、覚悟を決めた方がいいぞ。そちらの娘さんもそのつもりのようで、すでに宝塔に話を持ってきた。まだ返事はしてないがな。それでどうするね、宝塔? お前が彼女たちを庇護すれば、桜華院家は、この村井の支配下に入ると言っても過言ではない。この混乱期において、それは大きな力となる」
婆さんが俺に決断を促す。
俺は、これまでの情報を整理し、今後の展開を頭の中でシミュレーションした。
桜華院の母娘を庇護することは、俺の復讐計画に新たな要素をもたらす。
彼女たちの持つ情報や人脈は、混乱期において大きな力となるだろう。
そして、何よりも、彼女たちの切迫した状況は、俺の行動を加速させる動機となる。
俺は、貴族社会の暗部を暴き、そこから新たな富と権力を手に入れる。
梓とリリーナを保護することは、そのための重要な布石となるだろう。
「わかりました。橘執事、リリーナ奥様にお伝え下さい。私が保護します」
俺は、決意を込めて告げた。
俺の言葉に、橘執事の顔に安堵の表情が広がり、深く頭を下げた。
「まずはそうですね、狙われている松濤のお屋敷ですが、**適正価格**で買い取ります。ただし、急いでください。今後、いつ土地の値段が急落を始めるか分かりませんので。そして、売却した資金で、基金を設立しましょう。その基金が、貴方がた母娘の生活と、将来を、この先何があっても守りますから」
俺の言葉は、彼らの絶望に差し込む光となっただろう。
橘執事は、安堵の表情を浮かべ、深く頭を下げた。
彼の目には、感謝の涙が浮かんでいるかのようだった。
この瞬間、俺は、桜華院の母娘を、そしてその背後にある貴族社会の闇を、俺の掌中に収める最初の一歩を踏み出したのだ。