第二十四話 決断の猶予:渦巻く思惑と家族の絆
俺は、梓のあまりにも大胆で、しかし悲壮な提案に、即答することを避けた。
俺には即答ができなかった。
彼女たちの境遇には同情する。
公爵家の暗部に囚われ、自らの意思では未来を選べない令嬢。
その現実を突きつけられ、俺の心は激しく揺さぶられた。
だが同時に、これは俺の人生と、社会への壮大な復讐計画に、あまりにも大きな影響を与える決断だ。
軽々しく頷けるはずがない。
「母娘ともども助けるのはやぶさかではないが、結論は少し待ってほしい。考える時間が必要だ」
俺の声は、自分でも驚くほど冷静だった。
その裏では、様々な思惑が複雑に絡み合っていた。
彼女たちの持つ情報や人脈は、俺にとって計り知れない武器となる可能性がある。
貴族社会の深部への足がかりを得られるかもしれない。
しかし、同時に、それは計り知れない責任とリスクを伴うことでもある。
一度受け入れれば、彼女たちの人生を背負うことになる。俺は、その重さを理解していた。
「当然ですわ。ですが、私が、私たち母娘が、どこかに叩き売られるような事態になるまでには、どうかお返事をください」
梓はそう言って、今回の「デート」は終わった。
あれがデートと言えればの話だが。
喫茶店を出て、一人になった俺は、秋の夕暮れが迫る街の喧騒の中、梓の提案について深く考え込んだ。
彼女の瞳に宿っていた絶望と、それでもわずかに見えた希望の光が、俺の脳裏に焼き付いている。
俺は、再び法子さんのマンションに戻ると、今日の出来事をすべて話した。
法子さんは、俺の話を真剣な表情で聞き、時折、深く頷いた。彼女の表情は、俺の抱える重荷を、まるで自分自身のもののように受け止めているかのようだった。
「宝塔様……難しい決断ですわね。彼女たちの境遇は、お察しいたしますが、宝塔様にとっても、これはただ事ではありませんもの」
法子さんの声が、俺の心に染み渡る。
彼女の言葉は、俺の感情に寄り添いながらも、冷静に状況を分析していた。
「ああ。だが、無視できる話でもない。この混乱の中で、彼女たちの情報は、俺にとって大きな意味を持つ可能性がある」
俺は、法子さんの手を握りしめた。
彼女の柔らかな手が、俺の心を温める。
俺の周りには、俺を信じ、支えてくれる人たちがいる。
法子さん、婆さん、爺さん。
彼らの協力なくして、俺の復讐は不可能だ。
そのことに感謝しながら、俺は次の手を考えていた。
先の狂騒の終焉はまだ始まったばかり。
この混乱の中で、俺はどこまで上り詰めることができるのか。
そして、梓たちの未来を、俺はどのように紡いでいくのだろうか。
「宝塔様、この件は、一度お所長と、近藤様にも相談してみませんか? お二人の知見があれば、きっとより良い結論が出せるはずですわ」
法子さんの提案は、俺の考えと一致していた。
この件は、あまりにも個人的な感情が絡む。
冷静な第三者の意見が必要だ。
婆さんと爺さんなら、この貴族社会の裏側にも精通しているだろう。
二人はすぐに予定を開けてくれ、翌日には婆さんの事務所で法子さんも交えて、話し合うことになった。
*****
桜華院母娘の背景を探る:開示される村井家の因縁
婆さんの事務所には、緊張感が漂っていた。
俺が切り出す内容が、ただ事ではないと察しているのだろう。
「えらく急な話のようだが、何があったんだ? お前さんがこんな真剣な顔をするなんて、珍しい」
爺さんが訝しげに尋ねる。
婆さんも心配そうな顔で、「相場で失敗でもしたのかい……」と口にした。
「いや、相場の方は順調すぎて怖いぐらいだ。今回は別件。祖父のことも絡むから、知っていたら教えてほしい」
俺はそう言って、桜華院のロシア美人、つまり梓の祖母と母親について切り出した。
俺の言葉に、爺さんの眉がピクリと動く。
「ああ、あのえらく美しい人か。公爵に取られて宗一郎はえらく凹んでいたな。よほど気に入っていたと見えて、しばらくは酒浸りだったと聞くぞ」
爺さんが懐かしそうに言うと、婆さんがすかさず口を挟んだ。
「いい気味よ。あの時私にも粉をかけてからね、あいつは。色男ぶりたいのはいいけれど、筋は通してほしいものだわ」
相変わらずの祖父母の関係性に、俺は内心苦笑した。
この二人の間に流れる、どこかコミカルで、しかし深い絆を感じる。
「その息子で、四国で商売をしていた桜華院のことなんだけど……」
俺が話を続けると、爺さんがそれまでの懐かしげな表情を引き締めた。
彼の瞳に、鋭い光が宿る。
「警察では事故扱いになっているが、あれは殺されたね。俺の筋の情報では、そう聞いている」
爺さんの声には、一切の迷いなく、確信の色が宿っていた。
その言葉に、俺は背筋が凍るような思いがした。
「そうなの、婆さん?」
俺は驚いて婆さんを見た。婆さんもまた、静かに頷いた。
「ああ。地元ではちょっとした騒ぎになったが、彼の奥さんと子どもをすぐに公爵家が引き取り庇護したことで、表向きはすぐに落ち着いたとか聞いたな。だが、それも、公爵家が彼が築いた財産を速やかに吸い上げるためだったのだろう」
婆さんは冷静に答える。
やはり、この世界の裏には、俺の知らない暗部が深く潜んでいる。
富と権力のためならば、人の命など、いとも簡単に奪われるのだ。
「そのあたり詳しく知りたいのだけど、その殺された人の奥さん、つまり梓の母親のことなんだけど」
俺がそう言いかけた途端、爺さんと婆さんは顔を見合わせて、まるで示し合わせたように深くため息をついた。
「あー!」
爺さんが頭を抱える。その様子は、まるで宗一郎の悪癖が再び蘇ったかのようだった。
「あんたも宗一郎の孫だね。血の濃さだけでは宗一郎の上を行くよ、全く」
婆さんは呆れたように呟いた。
その言葉は、俺のことをディスっているようにも聞こえたが、俺の内心では、どこか誇らしいような気持ちが込み上げてきた。
まさか、俺の祖父が、そんなにも女好きだったとは。
「そのリリーナさんが、今の株価の暴落で危機感を持ったらしくて、祖父に庇護を求めようと娘に話したらしい」
俺がそう言うと、爺さんが驚いたように訊ねた。
「なんでそこまで詳しく知っているんだ?」
「その娘が俺の同級で、昨日俺に直接庇護を求めてきた。祖父の庇護と同じ条件で……いや違うか、娘もついてくるから、さらに条件は良いのかな」
俺がそう告げると、爺さんと婆さんは、文字通り目を丸くした。
爺さんは、間の抜けた声を出す。
「なんだ〜。そういうことか」
「あんたも宗一郎の孫だね。血の濃さだけでは宗一郎の上を行くよ」
婆さんは再び俺を呆れたように見つめながらも、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
俺は、この二人の前では、変に繕う必要がないことを改めて感じた。
「で、何が知りたい?」
爺さんが、ようやく話を本題に戻す。
その表情は、先ほどまでの呆れ顔から一転、鋭い探偵のような眼差しに変わっていた。
「裏がないかを知りたいかな。今聞いた話だけでも問題はなさそうなのだが、殺して財産を喜々として取り上げるような連中だろ、桜華院宗家は。俺は殺されたくないしね。それに、彼女たちを受け入れるとなれば、相応のリスクも負うことになる。そのリスクに見合うだけの価値があるのか、そして、何か隠された意図がないかを知りたい」
俺の言葉に、爺さんは深く頷いた。
彼の目は、俺の言葉の裏にある警戒心と、しかし同時に感じ取れる梓への複雑な感情を見抜いているかのようだった。
「そういう事か……。確かに、桜華院の宗家は、表向きは穏やかだが、裏ではかなりえげつないことを平気でやる連中だ。そういえば、あいつのところには橘とか言ったけか、俺と同業の執事がいたな。そいつなら連絡がつくかもしれない。直接そいつから話を聞くのが一番良いだろう」
爺さんの言葉に、俺は希望を見出した。
彼の言う「同業」とは、裏社会の情報屋のような存在だろう。
そこから得られる情報は、桜華院の宗家の真の姿を暴き出すかもしれない。
*****
橘執事の突然の来訪:繋がる裏社会の糸
そんな時、事務所の事務員が、所長である婆さんに伝言を持ってきた。
「参議院の高峰先生から伝言をお預かりしております、所長」
「なんだい、あの先生とはあまり面識がないが……そういえば前に紹介されたっけか。たしか大蔵省の局長あたりだったかな」
婆さんが首を傾げていると、事務員が続けた。
「はい、何でも桜華院家の使いとして橘さんという方が、所長にぜひお会いしたいそうです。それもできるだけ早急に。連絡は直接橘さんにしてほしいと申しておりました」
婆さんの顔に、不審の色が浮かんだ。
「なんだいなんだい、あの先生は。子供の使いか。言うことだけ言ってそのままかね」
婆さんは呆れたように言ったが、爺さんがニヤリと笑う。
その目には、何かを企むような光が宿っていた。
「ほう。ちょうどよかったじゃないかな。すぐに呼びつけろよ。面白いことになりそうだ」
爺さんの言葉に、婆さんは渋々といった様子で応じた。
「はいはい、わかりました。すぐにそちらに連絡して、来れるならばすぐにでもお会いしたいと伝えてくれないか」
婆さんはそう言って事務員を下がらせた。
事務員が去ると、爺さんは婆さんに問いかける。
「向こうはどんな感じなのかな。そこまで急ぐとは、一体何が彼らを突き動かしている?」
「まあ、尻に火がついたようにも思えるが、誰が慌てているのかな。高峰先生というよりは、桜華院家の方が、何か焦っているといったところかしらね」
婆さんは、冷静に状況を分析する。
「先の宝塔の話じゃないが、あの嬢ちゃん……嬢ちゃんという年でもないか。その女性が、かなり焦っているのかもしれないな」
爺さんが、俺の言葉を思い出して頷く。
梓の焦燥が、桜華院家を動かしている可能性は十分にあった。
「取引では、まずいやり方だな。足元を見られるぞ」
婆さんの言葉は、ビジネスの鉄則を説くようだった。
交渉において、相手の焦りを見せることは、最大の弱点となる。
その後は相場の話などしながら、しばらく待っていると、事務所の扉が開き、いかつい感じの男性が一人でやってきた。
その顔には、隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。
「すみません、急な訪問で。桜華院家執事、橘と申します。高峰先生のご紹介により、ご挨拶に伺いました」
彼は礼儀正しく深々と頭を下げた。
その立ち居振る舞いは、確かに一流の執事のものだ。
彼が、橘執事なのだろう。
「ああ、先程そちらのことは、そこの宝塔から少し聞いていてな。ちょうどあんたに話がしたかったんだ」
爺さんがそう言うと、橘執事は驚いたような顔をした。
彼の瞳に、微かな動揺が走る。
「え? あ、あなたは……」
橘執事の視線が、爺さんの顔に釘付けになる。
その表情は、まるで幽霊でも見たかのようだ。
「久しぶりだな、近藤だ」
爺さんは、ニヤリと笑った。
近藤。
それが、爺さんの本名なのか。
俺は、その瞬間まで、爺さんの本名を知らなかった。
この男は、一体何者なのだ。
そして、橘執事と、どのような関係にあるのか。
事務所の空気は、一瞬にして、張り詰めたものへと変わった。
これから、この喫茶店での会話以上の、桜華院家の深い闇が、明らかにされようとしていた。




