第二十三話 梓からの提案と彼女の生い立ち:絶望の淵からの叫び
俺は、梓のあまりにも突飛で、しかし切羽詰まった提案に、一瞬言葉を失った。
公爵令嬢が、自分と母親を**「買う」**ことを望む。
その言葉の重さは、想像を絶するものだった。
沈黙の中、喫茶店の奥まった空間に、緊張感が満ちていく。
「質問してもいいですか?」
俺は、努めて冷静に問いかけた。
この状況を正確に把握するためには、彼女の真意と背景を深く理解する必要がある。
「ええ、どうぞ」
梓は、覚悟を決めたように、まっすぐ俺の目を見つめ返した。
「まず、なぜ、今、急にその話を?」
俺の問いに、梓は深く息を吸い込んだ。
その表情は、恐怖と、しかし抗えない現実を受け入れたような、悲壮な美しさを湛えていた。
「はい、先ほど来申しておりますことで、この度の株価暴落で、上流階級に属する方々に余裕が少なくなってきております。皆様、表向きは平静を装っておりますが、裏では血眼になって、損失の穴埋めに奔走していらっしゃいます」
彼女の言葉は、まるで貴族社会の裏側を覗き見ているかのようだった。
まさに、俺が知る『日本潰し』の進行状況と一致する。
「そうなりますと、私たち貴族の子女が持つ価値も一緒に暴落します。かつては、財力と権力を持つ者たちが、喉から手が出るほど欲しがった『血』や『閨閥』といった価値が、今や、彼ら自身の足元が揺らいでいるために、良い条件まで出して苦しい時に貴族の子女を抱え込もうとする人は少なくなります。結果として、私たちの価値はそのまま暴落して、このままだと、どこかの見ず知らずの、それも条件の悪い男に叩き売られるか、あるいは、家にとって価値がないと判断されて、そのまま**『廃棄』**されるかの二択です。それは私たち母娘にとって、どちらも受け入れがたい話なのです」
梓は、俺の言葉に呼応するように、彼女自身の置かれている状況と、その危機感を切々と語った。
その瞳は、助けを求めるように揺れていた。
彼女の言葉からは、貴族という身分が、いかに血族と家名という鎖に縛られ、その価値が常に変動する市場のようなものであるかが伝わってくる。
彼女たちは、生身の人間でありながら、まるで『商品』のように扱われているのだ。
「特に、先ほど、村井様から聞かされた、あのバブル……でしたか、その状況を想像するに、事態は想像以上に深刻だと判断いたしました。一刻も早く行動しなければ、私たちには選択の余地さえ残されなくなるでしょう。だからこそ、今日、村井様にお願いする決断をした次第です」
彼女の切羽詰まった様子から、この提案がいかに彼女にとって重大で、悲壮な決断であるかが痛いほど伝わってくる。
彼女は、自らの意思で、そして未来を正確に読み解く俺に、最後の望みを託そうとしているのだ。
*****
梓の生い立ちと、絡み合う因縁
「次に、なぜ、お母様とご一緒なのですか?」
俺は、心の奥底で感じていた疑問を投げかけた。
その問いに、梓はわずかに顔を赤らめた。
「はい、そのことですが、どこかで聞き及んだ話ですが、男の方って……そういうのがお好きだと。私の母は生粋のロシア人で、娘の私が言うのもはばかられますが、今でも十分に美人ですよ」
梓さんから、あからさまな**『親子丼』**の提案を遠回しに聞かされ、俺は若干引いてしまった。
しかし、梓さんのその後の生い立ちを聞いたら、俺には十分に同情する余地があることを理解させられた。
まず、梓の父親だが、彼は桜華院侯爵の庶子だった。
彼の母親、つまり梓の祖母は、ロシア革命後の混乱で日本に逃げてきた男爵令嬢の一人だったという。
しかも、公爵に妾として囲われた存在であり、そこで生まれたのが梓の父親だ。
先代の公爵としては、梓の祖母に当たる男爵令嬢という**『血のつながり』を利用して、当時の白ロシア王国の建国に関わった有力貴族の閥とのパイプを作ろうとしていたらしい。
尤も、ロシア貴族の令嬢ということもあり、息を呑むほどの美人だったというので、公爵が色惚け**として囲っていた部分も少なからずあったようだ。
だが、悲しいかな、梓の祖母の血筋は、白ロシア王国の建国に関わった有力貴族の閥とはつながりが弱く、先代の公爵の思惑は見事に外れた。
そのため、彼女はただの美人を囲っているだけの存在となってしまった。
そこで生まれたのが、梓の父親だ。
彼は、かろうじて認知をしてもらった庶子で、公爵邸には暮らすことが許されず、かなり肩身の狭い思いをしながら育ったらしい。
そのため、成り上がることを自身の使命と思い、野心だけは人一倍強かったという。
そして、信じられないことに、俺の祖父、宗一郎も、この桜華院家の複雑な因縁に深く関わり合いがあったと梓は語った。
「まず、公爵と私の祖父、宗一郎様は、私の祖母を巡って争ったことがあるらしいのです。どちらも妾とするつもりだったようで、結果的に祖母が強い庇護を求めていた関係で、先代の公爵を頼った経緯があると聞いております」
俺は耳を疑った。
まさか、そんな昔から、桜華院家と村井家には因縁があったとは。
これだけでは梓の父親との直接的な関係はほとんどないが、次に祖父は梓の母親に目をつけたらしい……と言っても、時間軸で公爵と争ってから20年は経過した後だという。
なので、祖父宗一郎のことを、梓の母親は知っていたようで、今回の日本の相場の下落局面で、過去のロシア革命の時を思い出し、えらく恐怖を覚え、どこかに庇護を求めているという。
さらに、梓の父親と祖父宗一郎との関係は、先の戦争後の復興期に、裏表で梓の父親とやり合った経歴があるらしい。
その際、驚くべきことに、一緒に梓の母親を取り合った仲だというのだ。
俺は、その話を聞いて、思わず頭を抱えたくなった。
「いい加減どうにかしてほしい」と、心の中で呟かずにはいられなかった。
梓の母親も、ロシア革命でロシアから逃げてきた一団の娘で、日本で生まれたが、生粋のロシア人だという。
宗一郎と取り合ったときの年齢は15~16歳当時だとか。
梓は彼女が17歳の時に生まれたので、現在でも30代だという。
彼女の美貌は、その血筋と若さから来ているのだろう。
今回の場合も、この窮状において、きっかけは梓の母親から「宗一郎様のもとに愛人として庇護を求めましょう」と梓に言っていたらしい。
しかし、宗一郎が他界したことを聞いて、相当落ち込んでいたという。
その話を聞いて、梓は俺に興味を持った。
そして、執事の橘の協力を受けて、俺のことを探っていたと白状してきた。
俺が持つ「未来の知識」と、俺の才覚に賭けようと決意したのだ。
それで、この先の俺の見通しを聞いて、母娘ともども俺に保護を願い出た、というのだ。
ちなみに、梓の父親は、祖父と争っていたときに起業し、四国の地で食品会社を創業して、地元の第二地銀を傘下に入れ、更には中堅の造船会社まで持つ地方財閥にもう少しで手が届くと言った感じのところまで来ていたのだが、突然の事故に遭い、すでに亡くなっているという。
少なくない情報からは桜華院の宗家に殺されたらしいというのもある。
桜華院の宗家は、直接的な父親殺しには関与はしていなかったようだが、結果を受けて、梓の父親が築き上げてきたグループを嬉々として自身の財閥に取り込んだというらしい。
そのために、梓や、彼女の母親は、一応現公爵が庇護している形になり、皇道学館に公爵令嬢として通っているという話だ。
俺は、梓の語る壮絶な生い立ちに、ただただ圧倒されていた。
彼女の背景には、貴族社会の醜い側面、そして血縁と権力にまつわる根深い闇が渦巻いていた。
彼女の提案は、単なる肉体的な関係を求めるものではなく、桜華院家という巨大な権力から逃れ、生き残るための、命をかけた**『取引』**なのだ。
この情報が、俺の復讐計画にどう影響するのか。
そして、この公爵令嬢と、その母を、俺は本当に受け入れるべきなのか。
喫茶店の静かな空間で、俺の心は、激しく揺れ動いていた。