第二十二話 桜華院梓との再会:公爵令嬢の切迫した「取引」
世の中が狂乱からパニックへと様相を変えていく中、学校生活は辛うじてその秩序を保っていた。
しかし、生徒たちの顔には、親たちの焦燥や、周囲で起こる不穏な噂が、少しずつ影を落とし始めていた。
そんなある日、俺が首から提げたポケベルが、静かに振動した。
液晶画面には、表示された数字を変換すると、**「サクラ」**の文字。桜華院梓からだ。
「村井様、直接お話ししたいことがあるのですが」
公衆電話からかけ直すと、彼女の声は、普段の涼やかな響きとは異なり、どこか切羽詰まったように震えていた。その声を聞いた瞬間、俺は、彼女の身に何かが起こっていることを直感した。
俺は久しぶりに街に出た。
学園の外で、同級生と二人で会うなんて、俺のこれまでの人生、平田嶺としての記憶を含めても、こんな「青春」めいた経験はなかった。
あの忌まわしい結果につながった澪先輩としか、プライベートな会合を持ったことがなかっただけに、正直、少しだけ嬉しかった。
しかし、それ以上に、彼女が何を話すのか、何が彼女をそこまで追い詰めているのか、という好奇心が俺の心を占めていた。
駅前で梓さんと待ち合わせ、すぐ近くの落ち着いた感じの喫茶店に入った。
予約でもしていたのか、店員に促されて奥の仕切りのある静かなスペースに通された。
外界の喧騒が遮断されたその空間で、彼女の真剣な瞳が、まっすぐに俺を見つめていた。
「村井様、この先、この国はどうなると思いますか?」
梓からいきなりの質問だ。
その瞳は、不安と期待がない交ぜになって俺を見つめている。
彼女の真剣な眼差しは、単なる好奇心ではない。
何か、彼女自身が直面している危機感を反映しているようだった。
「どうなるって、ひょっとして株価のことですか?」
俺は努めて平静を装い、尋ね返した。
この場所で、迂闊な発言はできない。
「株価もそうですが、この日本という国全体がどうなるかとお聞きしております」
彼女の真剣な眼差しに、俺は嘘をつくことをためらった。
この公爵令嬢が、ここまで切羽詰まっているということは、相当な事情があるに違いない。
俺が持つ「未来の知識」が、彼女を救う鍵になるかもしれない。
俺は聞かれるままに、先の狂騒について、ごく簡単に説明してみた。
俺の言葉を選びながら、核心に触れる部分を丁寧に伝える。
「あのバブルは、終焉を迎える時に、ものすごい被害を出します」
「バブル? なんのことですか?」
彼女は、聞き慣れない言葉に、首を傾げた。この時期では、まだ「バブル」という言葉が一般化していなかったことを思い出す。
俺は、歴史上の大衆的な熱狂と崩壊の例を挙げることにした。
「例えば、18世紀初頭のイギリスで起こった南海泡沫事件や、17世紀のオランダで起こったチューリップバブルをご存知ですか? どちらも、実態のない投機熱が過熱し、最終的に大衆が破滅的な結果を迎えた事件です。今の日本の状況は、それに酷似しています」
俺は、南海泡沫事件やオランダチューリップバブルについて簡単に説明した。
そして、この国に蔓延る**『土地神話』**についても言及した。
「人々は、土地の値段は決して下がらないと信じ込んでいますが、それは幻想です。まだ、土地の値段は下がっていませんが、遅くとも来年あたりから下げ相場に転じるでしょう」
俺の言葉に、梓の表情がさらに険しくなる。
彼女の脳裏には、おそらく、桜華院家が所有する莫大な土地が思い浮かんでいるのだろう。
「株のような暴落ですか?」
梓の声が、かすかに震える。
その声には、恐怖と、そしてわずかな希望が入り混じっていた。
「いえ、今の株価のような急激な暴落はないとは思いますが、数年。いや、十数年にわたって土地の価格が下がり続けるでしょう」
俺は平田嶺としての記憶から**『失われた10年』**について簡単に触れ、正直に危機感をあらわにした。
公爵令嬢である梓は、庶子とはいえ、未来の国の舵取りを担う可能性のある人物だ。
彼女には、この現実を直視してほしかった。
「そして、これも借金して土地が買われていることで、銀行が莫大な不良債権を抱え、日本の経済全体がボロボロになると考えております。それは、単なる景気後退では済みません。この国の経済の根幹を揺るがす事態です」
俺の説明を聞き終えた梓は、しばらく沈黙した後、覚悟を決めたように、俺の予想をはるかに超えるとんでもない提案をしてきた。
その瞳は、わずかな絶望と、しかし確固たる決意を宿していた。
「村井様。……私を買いませんか?」
彼女の言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
「は?」
俺は思わず聞き返した。
公爵令嬢が、一体何を言い出すのか。
まさか、体を売るようなことなどと。
だが、その直後の彼女の言葉で、俺の浅はかな想像は打ち砕かれた。
「母と私を、村井様のもとで保護してもらえないでしょうか。……決してただとは申しませんが、お支払いはお金以外で、と申し上げましても、今の私には、体しかありませんが……」
彼女の頬が、かすかに紅潮する。その言葉には、極限まで追い詰められた者の、悲痛な叫びが込められているようだった。
俺は一瞬、公爵令嬢が売春でも考えるのか、と冷酷な思考がよぎったが、彼女の説明からはそれは違った。
彼女が提示したのは、貴族社会の暗部であり、その残酷な現実だった。
「貴族の令嬢の価値を、村井様はご存知ですか? 私たち貴族の令嬢は、家のために、知らない殿方のもとに嫁ぎ、関係を作るのですよ。血を残すという理由もありますが、ほとんどが閨閥を作るためにあるのです。小さい頃から、そういう教育をされており、誰もが家の言いなりに結婚を決めさせられます」
梓の言葉は、貴族社会の華やかな表舞台の裏に潜む、冷酷で残酷な現実を突きつけるようだった。
彼女たちは、家という巨大な組織を維持するための**『道具』であり、その存在価値は、家同士を結びつける『血』や『権力』**にあるのだ。
「私と結婚するというのですか」
俺は、混乱した頭で尋ねた。
「できればそれが一番良いのですが……中学生では無理でしょう。先の話ではないのですが、貴族の子女は、存在そのものが娼婦と変わりません。違うのは、不特定多数を相手にするのではなく、家の決めた相手に結婚という形で囲われるか、あるいは、条件の悪い場合では妾として囲われるか、それだけの違いです」
梓は、悲痛なほど冷静な口調で語った。
彼女が提案してきたのは、自分自身と母親を、俺のもとに保護してほしいというのだ。
当然、その対価として、愛人や妾として扱うことを前提として。
彼女の言葉は、俺の心を大きく揺さぶった。
これは、まさに俺が望んでいた「貴族社会の崩壊」であり、同時に、そこから生まれる新たな権力構造の萌芽でもある。
だが、この公爵令嬢の悲壮な覚悟は、俺の予想を遥かに超えていた。
この提案は、俺の復讐計画に、新たな、そして決定的な一歩を踏み出す機会をもたらすだろう。
しかし、同時に、それは俺の倫理観を試す、大きな選択でもあった。
この狂乱の時代の中で、俺は、いったいどこまで冷徹になれるのか。
そして、この公爵令嬢の願いを、俺は叶えるべきなのか。
喫茶店の奥の静かな空間で、俺は、沈黙の中で、その答えを模索していた。




