第二話 平田嶺の記憶
夢の中の俺は、平田嶺という名前だった。
昭和の終わり、この国全体が熱病に浮かされる少し前の仙台。
俺は地元の小さな証券会社に就職した。
右も左もわからない俺を指導してくれたのは、ひとつ年上の白麗澪先輩。
彼女は文字通り「白麗」という言葉が似合う、完璧な美しさを持っていた。
いつも明るく、俺のどんな愚痴にも笑顔で耳を傾けてくれた。
「嶺君、大丈夫?顔色悪いわよ。昨日は徹夜したんでしょ?」
入社して半年が過ぎた頃、ようやく初めての契約を掴んだ。
額は微々たるものだったが、俺にとっては大きな一歩だった。
その日の夜、澪先輩は「お祝いよ!」と言って、俺を連れて近所の小料理屋へ行った。
「嶺君、おめでとう!よくやったわね!」
先輩の笑顔は、いつも以上に輝いて見えた。俺は照れ臭くて、うまく言葉が出なかった。
「あ、ありがとうございます……でも、先輩のおかげです」
「あら、謙遜しちゃって。でも、本当に頑張ったわね。私、嶺君ならもっともっと上に行けるって信じてるから」
その日から、何か成果を出すたびに、澪先輩は俺を誘ってくれた。
時には洒落たバーでグラスを傾け、時には仕事帰りの駅ビルで立ち飲みをすることもあった。俺は先輩を尊敬し、憧れ、そしていつしか、淡い恋心を抱くようになっていた。
しかし、ある時を境に澪先輩は変わってしまった。
あれほど明るかった彼女の笑顔は消え、日ごとに憔悴していくように見えた。目の下のクマは消えず、話しかけても心ここにあらずといった様子。
「先輩、どうかしたんですか?最近、元気がないように見えますが……」
俺は、その理由を知らないまま、ただ傍で見守ることしかできなかった。
先輩は何も語らず、俺も踏み込むことはできなかった。
もどかしくて、苦しかった。
「……何でもないわ。ちょっと疲れてるだけよ。心配かけちゃってごめんね、嶺君」
そう言って、先輩は力なく笑った。その笑顔は、いつもの輝きを失っていた。
そんなある日、俺は仕事で起死回生とも言えるような大型案件をまとめた。
地方の老舗企業の株式公開案件。数ヶ月にわたる交渉の末、ついに会社全体が沸き立つような大金星を挙げた。俺は営業部のヒーローとなった。
その夜、以前のように澪先輩が祝いの席を設けてくれた。
場所は、仙台市街を見下ろす高層ホテルの最上階にあるバーだった。
窓の外にはきらめく夜景が広がり、ジャズの生演奏が心地よく響いている。
「嶺君、本当に、よくやったわね」
澪先輩は、少し潤んだ瞳で俺を見つめた。
いつもの軽快な笑顔ではなく、しっとりとした、まるで夜景に溶け込むような表情だった。
酒が進むにつれて、先輩は少しだけ本音を漏らした。
「嶺君、ごめんね。最近、私、ずっと変だったでしょう?色々、あってね……」
先輩の口から語られたのは、想像以上に重い話だった。
会社の大きなプロジェクトでの失敗、それによる責任の重圧、そして、信頼していた人物からの裏切り。俺はただ、黙って先輩の言葉に耳を傾けた。
「そんな……先輩、大丈夫ですか?」
俺は震える声で尋ねた。
「大丈夫じゃないわよ、馬鹿ね。でもね、嶺君の頑張りを見ていたら、私、もう少しだけ、頑張ってみようかなって思えたの。ありがとう」
その言葉と、先輩の少し酔った、頬を赤らめた顔が、俺の心臓を強く掴んだ。俺は、気づけば先輩の手を握っていた。先輩の指は細く、そして少しだけ震えていた。その震えが、俺の心をさらに揺さぶる。
「先輩……俺は、ずっと先輩のことを見てました」
「嶺君……」
そして、そのまま俺たちはバーを後にし、ホテルの部屋へ向かった。
初めての女性、初めての経験。舞い上がるような気持ちで、俺は童貞を卒業した。
先輩の温かい体温、肌の柔らかさ、そして甘い香りが、俺の五感を支配した。
その夜、俺は生まれて初めて、真の幸福を知った。
しかし、その幸福な時間は一夜にして崩れ去った。
翌朝、会社からの連絡があり、澪先輩が、海で遺体となって発見されたという。
警察は自殺として処理を終えた。
信じられなかった。
あんなに明るく、俺を導いてくれた先輩が、昨晩、俺と共にあんなに幸せそうに笑っていた先輩が、なぜ。
俺は呆然自失となり、会社をしばらく休んだ。
会社は俺を責めることなく、静かに見守ってくれた。
二週間後、上司の勧めで俺は会社に戻った。
「平田、ゆっくりでいいからな。無理はするな」
そう言われても、俺は人が変わったかのように仕事に没頭した。
澪先輩の死の真相を探ることもなく、ただひたすら金を稼ぐことだけを考えた。
まるで、何かに憑かれたように。
そう、あのときの俺は、先輩との素晴らしいひとときを忘れたいのではなく、その後の先輩の死を受け入れられずに、先輩そのものを忘れるように、何も考えずに仕事にのめり込んでいった。