第十九話 学園祭準備と高まる期待:熱狂の舞台裏
9月に入ると、皇道学館の空気は一変した。
10月に控える学園祭の準備で、校内は活気と喧騒に包まれる。
生徒たちは皆、それぞれの出し物や企画に熱中し、廊下には笑い声と資材を運ぶ足音が絶えなかった。
しかし、そんな華やかな日常の裏で、俺の心は常に、迫り来る経済の嵐、**『Xデー』**の足音を捉えていた。
「世界情勢研究フォーラム」の集まりでは、箱根での合宿の成果をまとめる作業が中心だった。
学園祭での発表に向けて、それぞれのグループが資料を整理し、議論を深めていく。
俺も梓と一緒に、最も重要なテーマである経済情勢に関する部分のまとめを担当した。
膨大なデータと予測、そして海外の動向を分析し、一枚のパネルに落とし込む作業は、まさに未来への布石だった。
「村井様のおっしゃる通り、現在の株価は異常な水準にありますわね。このままでは、どこかで必ず反動が来るでしょう」
梓は、俺が示した資料のグラフを指でなぞりながら、真剣な表情で言った。
彼女の理解力と洞察力は、この年齢にしては驚くほどだ。
貴族として生まれながらにして、この国の未来を担う教育を受けてきた彼女は、俺が持つ「未来の知識」を、驚くほどスムーズに吸収していく。
彼女の瞳には、数字の羅列の先に潜む危機感が、確かに映し出されていた。
「重要なのは、その反動がいつ、どのような規模で起こるかだ。そして、それにどう備えるか」
俺は、あえて深掘りするように梓に語りかけた。
彼女は、俺の言葉に頷き、さらに思考を巡らせる。
彼女の聡明さは、この狂乱の時代を生き抜く上で、きっと大きな力になるだろう。
学園内では、それ以外にこれと言って特別なことはなく、平穏な時間が過ぎていく。
部活動やサークル活動に勤しむ生徒たち、将来の夢を語り合う友人たち。
彼らは、目の前の輝かしい日常に没頭し、その先に潜む暗闇には気づいていない。
しかし、俺の心には、迫りつつあるXデーの足音が、規則的なリズムで響いていた。
それは、焦燥と、同時に、高揚感を伴う音だ。
日経平均株価は、連日のように最高値を更新し、ついに3万7千円の大台にまで達していた。
昭和の狂騒が最高値である3万9千円弱をつけた大納会の水準に、もう手が届くところまで来ている。
当時の市場関係者は誰一人として、翌年の大発会で株価が下がり始めるとは疑っていなかったはずだ。
あの時の熱狂を、俺は知っている。
そして、その熱狂が、いかに脆く、いかに悲惨な結末を迎えるかも。
その時が、もうすぐそこまで来ている。
俺は、その時に向けた最終準備を始める。
次に何が起こるか、俺は知っている。そして、その知識が、俺を突き動かす。
この世界の誰もが予想しないような、激しい下落の波が訪れることを。そして、その波に、俺がどう乗るべきかを。
*****
シンガポールでの最終準備:嵐の前の静かなる決断
10月に入ると、皇道学館では学園祭が始まった。
まず中等部から始まり、続いて高等部の学園祭、さらに11月には大学の学祭と続く。
生徒たちは、それぞれの学園祭を自由に見学することができ、校内は連日、祭り特有の高揚感に包まれていた。
しかし、俺にとって、この学園祭は、来るべき「大相場」に向けて、最終準備を進めるための絶好の隠れ蓑だった。
学園祭の期間中、俺は数日間学校を休むことにした。
そして、シンガポールへ向かう。同行するのは、婆さん(典子)と爺さんだ。
この三人で、来るべき大相場に向けた仕込みの最終調整を行うためだ。
シンガポールの空港に降り立つと、日本の蒸し暑さとは異なる、南国の乾いた熱気が俺たちを包み込んだ。
高層ビルが林立する近代的な都市の風景は、金融の中心地としての顔を如実に示している。
シンガポールのオフィスビルの一室。
窓からは、煌びやかな夜景が広がる。
俺たちは、そこで最終的な打ち合わせに入った。俺の指示は明確だ。
日経平均が3万8千円を超えた段階で、先物の売りを開始する。
今まで持っていた現物空売りなどのポジションも、今回の訪問で完全に整理し、来るべき暴落に備えた「売り」に特化した態勢を整える。
それは、まさに逆張り。
世界中が日本のバブルに酔いしれる中、俺たちはその崩壊に賭けるのだ。
俺の相場観に合わせて、爺さんも手仕舞いを始めていた。
彼は、長年の裏稼業で培った勘と、俺がもたらす未来の知識を組み合わせ、着実に資産を動かしている。
「宝塔、お前さんの言う通り、そろそろ潮時かもしれんな。わしも長年の勘で、きな臭い空気を感じておったよ」
爺さんは、窓から見えるシンガポールの高層ビル群を眺めながら、どこか寂しげに呟いた。
彼の言葉には、この狂乱の時代が終わりを告げることへの、一抹の寂寥感が滲み出ていた。
しかし、その顔には、俺への確かな信頼が宿っていた。
彼の人生は、常に裏社会の荒波を渡ってきた。
だからこそ、彼は俺の異質な知識を、誰よりも早く受け入れ、信じてくれたのだろう。
「宝塔、あなたの判断に任せるわ。ただし、無理は禁物よ」
婆さんもまた、俺の決断を尊重してくれた。
彼女の眼差しには、慈愛と信頼が込められていた。
彼女は、弁護士としての冷静さと、俺の未来を案じる気持ちの間で、常にバランスを取ってくれている。
俺は、二人との協力なくして、ここまで来ることはできなかっただろう。
彼らの存在が、俺の復讐計画を支える、揺るぎない基盤となっていた。
シンガポールのオフィスで、俺たちは最終的な打ち合わせを済ませ、来るべき暴落に備える態勢を整えた。
まるで、嵐の前の静けさのように、オフィスには緊張感と、しかし確固たる決意が満ちている。
俺は、モニターに映し出される日経平均の数字をじっと見つめた。
3万7千円……。その数字は、破滅へのカウントダウンの、確かな一歩を示していた。
俺は、これから起こるであろう大相場に、平田嶺としての過去の記憶と、村井宝塔としての復讐心を賭ける。
このシンガポールの地で、俺は静かに、しかし確実に、歴史の転換点に立ち会うことになる。
そして、その転換点こそが、俺がこの国の未来を掴み、復讐を完遂するための、最大の機会となるだろう。