第十六話 箱根への道中:深まる貴族の闇と優雅な誘い
うだるような日本の夏が、東京を覆い尽くしていた。
皇道学館も夏休みに入り、俺の心は常に、シンガポールでの投資状況と、これから巻き起こるであろう経済の嵐に集中していた。
そんな中、いよいよ**『世界情勢研究フォーラム』**の夏季合宿が近づいてきた。
現地集合・現地解散という、いかにも上流階級らしい自由な形式の合宿だったが、当然ながら付き添いありだ。
俺は当初、法子さんと相談し、新幹線とタクシーを乗り継いで箱根へ向かうつもりでいた。
それは、俺にとって最も効率的で、余計な注目を浴びない手段だと思っていたからだ。
しかし、その計画は、優雅な一本の電話によって覆されることになった。
「村井様、もしよろしければ、わたくしどもの車でご一緒しませんこと?」
電話口から聞こえるのは、桜華院梓の涼やかな声だった。
公爵家の令嬢からのまさかの誘いに、俺は一瞬戸惑いを覚えた。
だが、すぐにこれは好機だと悟った。
上流階級の深部に踏み込むには、彼らと同じ「型」に乗ることが最も効果的だ。
「それは光栄です、桜華院様。お言葉に甘えさせていただきます」
俺は即座に承諾した。
当日、法子さんのマンションのエントランスに横付けされたのは、黒く輝く漆塗りのロールス・ロイス・ファントムだった。
その威容は、まるで動く宮殿だ。
ドアを開けると、冷房の効いた快適な空間が俺たちを迎え入れた。
車内には、俺と法子さん、そして桜華院梓と、彼女の付き添いの執事が一人、静かに座っていた。
「村井様、道中お疲れ様でございます」
執事が丁寧な口調で、冷やされたミネラルウォーターを差し出してきた。
その完璧なまでの所作、細やかな気遣いは、まさにプロフェッショナルだった。
俺は法子さんと顔を見合わせ、その過剰なまでのサービスに少しだけ気恥ずかしさを感じた。
法子さんも、普段は気丈な彼女だが、この空間に少しだけ気圧されているようだった。
「ありがとうございます。桜華院様も、わざわざお気遣いいただき恐縮です」
俺は梓に礼を言うと、彼女は優雅に微笑んだ。その微笑みは、箱根の自然の美しさに劣らないほど魅力的で、どこか神秘的ですらあった。
「いいえ、これも何かのご縁ですから。それに、村井様とこうしてゆっくりお話しできる機会もなかなかございませんもの」
彼女の言葉には、社交辞令以上の、何か深い意味が込められているように感じられた。
俺は、彼女が単なる世間話ではなく、この機会に俺の人間性や思考を探ろうとしていることを察した。
道中、梓は穏やかな口調で語り始めた。
「**『世界情勢研究フォーラム』**は、学園内では決してメジャーなサークルではありませんけれど、こうして皆様と自由に意見を交わせる場があるというのは、わたくしにとって貴重な経験ですわ」
彼女の言葉は、まるで建前のように聞こえたが、その瞳の奥には、学園内の力関係や、貴族社会の閉塞感に対する、微かな諦めのようなものが見え隠れしていた。
俺は、彼女の言葉に耳を傾けながら、この世界の貴族社会の複雑さを改めて感じていた。
そして、話題は皇道学館での生活、そして彼女自身の生い立ちへと移っていく。
公爵家の庶子として、彼女が経験してきた苦労や、それでも前向きに生きようとする姿勢には、感銘を受けた。
彼女は、決して自分の境遇を嘆くことなく、与えられた役割を全うしようと努力している。
しかし、その根底には、嫡流ではないがゆえの孤独や、常に周囲の評価に晒されるプレッシャーがあることも感じ取れた。
「わたくしども貴族は、生まれた時から、この国の未来を背負うことを運命づけられています。けれど、その道は決して平坦ではありません。特に、公爵家の庶子であるわたくしは、常に自らを律し、嫡流に劣らぬ才覚を示すことを求められております」
彼女の言葉は、貴族という存在の「光」と「影」を同時に示していた。
華やかな社交の裏には、想像を絶する重圧と、終わりのない競争がある。
俺は、彼女の話から、貴族社会の深部にある人間模様、そして彼らが抱える矛盾を少しずつ理解していった。
その中で、俺は意図的に、彼女の核心に触れるような質問を投げかけた。
「梓さんは、この国の未来を、どのような形にしたいと願っていますか? 貴族と平民が、真に手を取り合えるような社会は、この国に実現可能だと思いますか?」
俺の問いに、梓は一瞬言葉を詰まらせた。そして、静かに、しかし力強く答えた。
「はい。わたくしは、誰もがその才能を発揮できる、公平な社会を望んでおります。それが、わたくしたち貴族に与えられた使命だと信じております。ですが……道のりは、決して容易ではないでしょう」
彼女の瞳は、未来を見据えるかのように輝いていた。
しかし、その輝きの奥には、貴族社会の閉塞感と、それを打破することの困難さを知る者の、深い憂いが見て取れた。
俺は、彼女が単なる理想論を語っているのではないことを確信した。
彼女は、この国の未来を真剣に憂い、そのために自ら行動しようとしているのだ。
窓の外を流れる箱根の雄大な自然。
その景色とは対照的に、車内では、この国の未来を左右するかもしれない、静かで、しかし熱のこもった会話が交わされていた。
俺は、梓との会話を通じて、彼女が持つ力と、彼女が抱える影の両方を感じ取っていた。
この合宿は、単なるサークル活動に留まらない。それは、俺の復讐計画の、新たな局面を切り開くための、重要な舞台となるだろう。
*****
合宿会場に到着:キャリア官僚の影とサークルの真の力
ロールス・ロイス・ファントムは、箱根の山道を滑るように進み、やがて広大な敷地を持つ別荘の入り口にたどり着いた。
敷地の奥には、まるで中世の城を思わせるような、重厚な石造りの建物が姿を現した。
そこが、萬斎財閥が所有するゲストハウス、今回の合宿の会場だ。
別荘の車寄せには、すでに何台ものリムジンが停まっていた。
黒塗りの車体がずらりと並ぶ光景は、まるで国際サミットの会場にでも来たかのような錯覚を覚えるほどだ。
俺の所属する**『世界情勢研究フォーラム』は、皇道学館ではっきり言ってマイナーなサークル**だ。
学内では、スポーツ系のサークルや、華やかな文化系のサークルの方が圧倒的に人気がある。
そのため、カースト上位に属するような生徒は、このサークルにはほとんどいないだろうと思っていた。
尤も、あの学校に「カースト」というものが厳密に存在すればの話だが。
なにせ、このサークルの会長を務めるのは、地方の財閥の傍系に当たる白麗澪先輩だ。
彼女自身は非常に穏やかで、表立ってリーダーシップを取るタイプではない。
その代わりに、実質的な運営を担っているのは、副代表の萬斎先輩だ。
彼は全国規模の萬斎財閥の系列に当たる人物であり、この豪華な別荘を使わせてもらえるのも、彼の影響力があってこそだ。
しかし、彼自身が変わり者という評判もあり、そのカリスマ性とは裏腹に、サークル自体はいまいち学内でもメジャーになりきれていないらしい。
それでも、本家筋の施設が借りられるくらいには嫡流に近いそうで、それなりの大物であることは間違いない。
学年が澪先輩の一つ下ということもあり、現在は副代表という立場に甘んじているが、経済に明るい大手財閥の、それも嫡流に近い子弟というのだから、このサークルの実質的な運営は彼が担っているというのも納得だ。
しかし、今回の合宿は、ただのマイナーサークルの合宿とは一線を画している。
なんと、外務省と大蔵省から、皇道学館の卒業生にあたるキャリア官僚が講演してくれるというのだから、ただ事ではない。
このような機会は、通常のサークル活動ではまずありえないことだ。
俺たちの乗ったリムジンが車寄せに停まると、すぐに執事がドアを開けてくれた。
スムーズに車から降り、広間へ向かう。広間ではすでに多くの生徒たちが集まっており、皆、期待に満ちた表情を浮かべていた。
その中心に立っていたのは、別荘を手配した副代表の萬斎先輩だ。
彼は、数人のメイドを従え、自信に満ちた笑みで俺たちを出迎えてくれた。
「やあ、後輩の諸君。待っていたよ。今回は先輩であるキャリア官僚の方が講演してくださるので、楽しみにしていていいよ」
萬斎先輩の言葉には、どこか悪戯っぽい響きがあった。
その表情からは、この合宿を成功させ、サークルの存在感を高めようとする強い意欲が感じられた。
確かにそうだ。
ホテルでの経済や政治情勢の講演など、キャリア官僚を招いての講演など、下手をすると10万円くらいの参加費を取られても不思議はない。
もちろん、金を取るような講演の場合は局長クラスや最低でも課長クラスが講演されるのが相場だ。
新人キャリアが講演しても、組織の公式見解しか言えないため、内容自体は大きく変わらないのが一般的だ。
しかし、その講演の「行間」からちらほら漏らす本音の部分にこそ、多大な価値が生まれる。それは、新人キャリアであっても同じだ。
役所内の空気感、彼らが肌で感じている危機感や思惑。
そうしたものがわかるだけでも、この国の未来を読み解く上で、大きなヒントとなるだろう。
そんなことを考えていると、車寄せに一台のタクシーが滑り込んできた。
そして、その中から、講演する予定の官僚が降りてきた。
その人物が、婆さんから紹介された大蔵省のキャリア官僚、榊原由美であることに、俺はすぐに気づいた。
彼女は、先日会った時と同じように、知的な美しさを湛え、自信に満ちた表情で周囲を見回していた。
いよいよ、この合宿の「本番」が始まる。
俺は、静かに、しかし確かな期待を胸に、榊原由美を見つめた。
彼女が、この合宿にどのような「情報」をもたらしてくれるのか、そして、この箱根の別荘で、俺の復讐計画にどのような新たな展開が生まれるのか。
俺の心は、静かな興奮に包まれていた。