第十四話 夏休みと箱根合宿:貴族社会の深淵
蒸し暑い日本の夏が本格化し、皇道学館もようやく夏休みを迎えた。
生徒たちの顔には、開放感と、それぞれの「夏休み」に対する期待が入り混じっていた。
俺もまた、この長い休みに、今後の戦略を練る時間を確保できることに安堵していた。
夏休みの後半、俺が参加を申し込んでいた『世界情勢研究フォーラム』の合宿が開催されることになった。
梓さんからも連絡があったように、このサークルの副代表である萬斎先輩、あの全国規模の萬斎財閥の御曹司が、本家の持つ箱根の豪華な別荘を確保してくれたという。
上流階級の人間が、こうして当たり前のように広大な別荘やゲストハウスを所有している現実に、俺は改めてこの世界の格差と、それを覆すことの困難さを実感した。
俺が合宿に参加を決めたのは、上流階級の実際の生活様式や、彼らが休暇中にどのような交流を深めるのかといった「生の情報」に触れたいという思いがあったからだ。
しかし、それ以上に、実質的にサークルを牛耳っている萬斎先輩に、より深く接近したいという思惑があった。
彼の持つ財閥の情報網と影響力は、俺の復讐計画にとって無視できない要素だ。
皇道学館では、一般的な中学校とは異なり、夏休みの宿題といった無粋なものは一切ない。
この学校に通う生徒たちは、皆、良家の子息や令嬢ばかり。
無理に勉強をさせる必要もなく、彼らの「教育」は、学校のカリキュラムだけに限定されない。
むしろ、それぞれの家庭が持つ独自の教育方針と、将来を見据えた英才教育が、彼らの夏休みを占める大きな部分を占めていた。
俺にとってはありがたい話だった。
宿題に煩わされることなく、自分のペースで情報収集や分析に集中できる。
しかし、他の生徒たちは、それぞれ「家の事情」という、一見すると曖昧だが、その実非常に重い理由で忙しくしていた。
中学校から入学してくる生徒の中には、単に経済界だけでなく、政治界隈の子弟も多い。
彼らにとって、夏休みや長期の連休は、単なる休息の期間ではない。
それは、将来の「勉強」に充てられるだけでなく、親の仕事に付き合わされ、大人の社交の場に顔を出す機会でもあった。
一流の政治家や財界人が集まるパーティー、海外からの要人との会食、はたまた地方の有力者との会合。
子供たちは、そこで自然と、この国の政治や経済の仕組み、そして人間関係の複雑さを肌で感じ取っていくのだ。
早い者ならば、この夏休み中に、すでにお見合いをさせられる者までいるという。
俺がかつて生きていた世界では、中学生に「お見合い」など、冗談でしかありえない話だ。
しかし、ここではそれが現実だった。
上流階級の生活を知らなかった俺からすれば、子供とは言え、彼らは穏当に忙しいものだと感心するしかなかった。
彼らは、生まれた時から「貴族」という名の役割を与えられ、そのレールの上を歩むことを運命づけられている。
自由などという言葉は、彼らの辞書には存在しないのかもしれない。
しかし、その不自由さの中にこそ、彼らが持つ「力」の源があるのだろう。
*****
梓の夏休みと貴族社会の「裏」
放課後、サークルの帰り道、校門へ向かう涼やかな木陰の道を、俺と梓は並んで歩いていた。
彼女の涼やかな声が、夏の気だるい空気に心地よく響く。
「村井様は、夏休みは何かご予定がおありですか?」
梓は、その白い指先で前髪をそっと払いのけながら尋ねてきた。
その仕草一つにも、公爵家の令嬢としての気品が漂っている。
「ああ、後半に箱根の合宿に参加する予定だよ。それ以外は、まあ、家でゆっくりするかな」
俺は彼女に正直に答えた。俺の「家でゆっくりする」という言葉には、金融市場の動向を監視し、新たな戦略を練るという、深い意味が込められている。
だが、それを彼女に伝える必要はない。
「そうですか。では、合宿でまたお会いできますわね。わたくしも、華道部の合宿がありますから、それの都合を考えて参加しますわ」
梓はにこやかに微笑んだ。その笑顔は、夏の陽射しのように眩しかった。
彼女もまた、多忙な夏休みを送るようだ。
華道部の合宿の他にも、公爵家としての様々な行事が彼女を待っているのだろう。
「華道部の合宿ですか。梓さんも大変ですね」
俺はねぎらいの言葉をかけた。
「ええ。ですが、これもわたくしたち貴族の役目ですもの。それに、合宿では様々な方がいらっしゃるので、普段お会いできない方々との交流も楽しみですわ」
彼女の言葉は、社交の場としての合宿の重要性を示していた。
単なる部活動の練習だけでなく、そこには確かな「ビジネス」や「政治」の側面が隠されているのだろう。
俺は改めて、この世界の貴族社会の特殊性を実感した。
彼らは、子供の頃から、すでにこの国の根幹を支える存在として、様々な経験を積まされていく。
「それに、今回の華道部の合宿には、普段あまりお顔を見せないような方々もいらっしゃるとか。何やら、近々大きな動きがあるのかもしれませんわね」
梓は、ふと何かを思い出したように、意味深な言葉を付け加えた。
その言葉に、俺の胸に微かな予感がよぎる。
彼女の言う「大きな動き」とは、一体何を指すのだろうか。
経済的な変動か、それとも政治的な駆け引きか。
どちらにせよ、それは俺の復讐計画に少なからず影響を与えるはずだ。
「大きな動き、ですか」
俺は、問いかけるように呟いた。
梓は、俺の視線を受け止めると、にこやかに頷いた。
「ええ。詳しいことはまだ分かりませんけれど……。貴族社会の裏では、常に様々な情報が飛び交っていますもの。村井様も、そのうちご存知になるでしょう」
彼女の言葉は、まるで謎かけのようだった。
しかし、その言葉の裏には、彼女自身もその「裏」に深く関わっているような、確かな手応えがあった。
俺は、梓の言葉の真意を探ろうと、彼女の顔をじっと見つめた。
彼女の表情は、どこか遠い未来を見据えているかのようだった。
この夏、箱根の合宿で、俺は萬斎先輩との距離を縮め、さらに多くの情報を得る必要がある。
そして、梓が示唆した「大きな動き」の正体を探る。
皇道学館での生活は、単なる学生生活では終わらない。
それは、この国の未来を賭けた、壮大なゲームの始まりなのだ。
そして、そのゲームの裏では、俺の知らない「裏」の世界が、複雑に絡み合っている。
俺は、その「裏」に潜む真実を暴き出し、自らの手で、この国の未来を切り開く決意を新たにした。
夏の陽射しが、俺の決意を一層強く照らし出しているようだった。