鬼録
・
この祝福は皆で受けなければならない。
皆が英雄になるのだ。
皆が英雄にならなければならないのだ。
恐ろしき鬼は滅びた。
我らは解放されたのだ。
・
8月某日。
僕はその村に来ていた。
小さな村だ。
数時間に一本しか来ていない電車を乗り継ぎバスもほとんど来ない。
陽光を受けて眩く光る田畑が続くのどかな田園風景。
畑の中に一本線を引いたような道は固い土や転がる石のせいで不安定で、僕が乗っていたバスはガタガタと揺れていた。
「なんでこんなところに来たんだい?」
しわがれた声で運転手が尋ねてきた。
最前列。それも運転席の真後ろに座っている座っているため、まるでタクシーに乗っているかのような感覚で話が出来る。
「学校の課題のためです」
「課題? 何の課題だい?」
都心を走るものと同じ広さを持つ車内には僕と彼しかいない。
故に客と運転手の距離はタクシーに乗っている時と大差ない。
まして、乗客が僕一人なのだからなおさらだ。
「えっと、この辺り歴史についてとでも言いますか」
地方という言葉を出すのが憚れた。
畑仕事をする人々に対しての遠慮か。
あるいは自分が都会から来たという一種の優越感からか。
「歴史ってなんじゃそりゃ。こんな僻地に歴史なんぞあるもんかい」
いずれにせよ、そんなしょうもない気持ちは一瞬の内に消え去った。
カ、カ、カ、と快活に笑いながら運転手は言う。
「この村にあるのは爺さん婆さんの愚痴や苦労話しかない。あと二十年もすればこの村ごと消えちまうだろうに」
席のシートが所々破れ、吊り革の塗装が剥がれ、何よりも車内に漂うカビの臭いと陰気な空気が彼の言葉をこれ以上ない程に肯定している気がした。
僕自身もまた運転手の自虐にすぐ打消しの言葉を返すことが出来なかった。
実際、僕がこの村を選んだ理由の一つにも『こんな場所に誰も来ないだろうから、レポート内容を多少大げさに書いてもバレないだろう』なんて失礼極まりないものもある。
「けれど、祭りがあります」
遅すぎたと思いながらも僕は運転手に言った。
「あぁ、鬼祭りか」
「はい。私、鬼退治について調べようと思ってて」
日本には桃太郎を始めとして各地に様々な鬼退治の物語がある。
当然、この村にも。
僕がここに来た目的は各地に伝わる鬼退治とでも銘打ったレポートの作成のためだ。
「馬鹿らしい。あんなもんどこにでもある祭りさ。出店を出して盆踊りをする。そんだけさ。昔は太鼓を叩いたりしていたが、今じゃそれさえもしない」
「しかし、鬼退治の劇があると聞きました」
「あぁ、あれな」
運転手はハンドルから一瞬手を放して煙草を口に咥える。
「あんなん近所の子供たちのやるお遊戯会みたいなもんだ。いや、もっと酷いかもな」
「もっと酷い?」
僕の心に一瞬焦りが沸く。
困った。それを目的にわざわざこんな場所に来たのに。
流石に全く中身のない内容を見せられてしまっては困る。
「劇と銘打っちゃいるが、実際にはほとんど神主さんの朗読だ。子供たちだって役目らしい役目なんてねえ。こうやってな。鬼だ! やっつけろ! ってな具合に叫びながら穴の中に行っておしまいだ」
「穴」
「あぁ、穴だとも。無論、本物じゃないけどな。鬼の姿なんて出やしねえ」
煙草の煙が目に染みて、僕は何度か瞬きをする。
これは想像以上に退屈な劇なのかもしれない。
適当に劇を見てそれっぽく仕上げれば良いかと思っていたが、もう少し真面目に調べなければならないかもしれない。
そんな僕の考えを見透かしたように運転手が言った。
「ま、空気と水は美味しいんだ。のんびりしていきな」
滞在することになった民宿は本当にただの民家の一室を貸してくれているような感じだった。
座布団と小さなちゃぶ台その上に置かれた古いラジオとボロボロの団扇、それに加えて首がガムテープで補強された扇風機だけだ。テレビさえもない。
「テレビならあっちの部屋にありますんで。晩御飯は七時に持ってきます」
女将さんはそう言うと運転手と同じような問いを投げかけてくる。
僕は先ほどしたものとほとんど変わらない答えを告げると女将さんはへぇと一つ返事をした。
「なら、神主さんのところへ行くのがいいでしょうね。きっと、今頃に準備をされているでしょうから」
「流石に邪魔にならないですか?」
「多分平気ですよ。いつも退屈そうにしていますから」
「退屈そうにって……」
「いや、悪口でも何でもないんですよ。この村はいっつもこんな感じ。何にもない」
畳のにおいが鼻をくすぐる。
直感した。
この村には長く滞在する必要はきっと一ミリたりとも存在しない。
鬼退治の伝承を求めて数ある地域からこの村を選んでやって来たが、ここで得られるものなんて本当に何もないのだろう。
下手すれば図書館でこの地方についてまとめてある本を探した方がまだ良いかもしれない。
わざわざここに来たメリットは実地研修に行ってきたと言い張ることが出来るくらいか。
そんな落胆を知ってか知らずか女将さんが言う。
「おんぼろですけど裏に自転車があります。それを使ってもいいですよ。壊さないでくださいね」
すたすたと去っていく女将さんを見送った後、僕はカバンの中から事前に調べてまとめて来たノートを取り出してちゃぶ台の上に広げた。
先日の夜中、走り書きをした序文を私はぼんやりと見つめる。
『この祝福は皆で受けなければならない』
『皆が英雄になるのだ』
『皆が英雄にならなければならないのだ』
『恐ろしき鬼は滅びた』
『我らは解放されたのだ』
この一連の文章はこの村で行われる鬼退治の劇の口上だ。
課題作成の上でこの村を選んだ理由は先述のように僻地過ぎてでっち上げしても簡単にはバレないだろうという目論見もあるが、決定的なものとなったのはこれだった。
この文章を素直に読み上げるならばこの場所で行われた鬼退治は村人全員で行われたことになる。
強大な鬼を弱い人間達が力を打ち滅ぼす。
そして、皆が力を合わせた故に特定の誰かではなく『皆が英雄になるのだ』と語られている。
しかし。
僕はその次に続く文言を口にしていた。
「皆が英雄にならなければならないのだ」
祝福であるはずの鬼退治の報酬である英雄としての名声。
それがどういうわけか、この一文からは強要とも取れる気味の悪い薄ら寒さを感じられる。
耳煩わしく聞こえるセミの鳴き声と扇風機程度では役に立たない夏の暑さに汗がたらりと頭から頬を伝い畳の上に落ちる。
『我らは解放されたのだ』
結びの一文から目を外し、僕は部屋を出ると女将さんの話していた自転車に乗って神社へ向かった。
女将さんの話していた通り神社では二十代前半ほどの若い女性の神主が暇そうに竹箒を使って境内を掃除していた。
彼女は僕に気づくと直前まで浮かべていた退屈そうな表情を引っ込めて笑顔を向ける。
「こんにちは! 観光ですね?」
「ええ。まぁ」
人懐っこい笑顔を浮かべて問う神主に僕は何となしに曖昧な反応を返す。
失礼且つ適切な表現をすれば心地良いほどに日に焼けた肌とそれと比例するように飾り気のない女性だった。
「聞きましたよ。鬼退治について知りたいとか」
「何故それを?」
「こんな田舎ですからね。すぐに伝わっちゃいますよ。何せ、話す話題なんてほとんど何もないんですから」
話が早くて助かる一方でどうしようもない居心地の悪さを感じる。
僕のことを伝えたのは運転手か、それとも女将さんか。
いずれにせよ、電話を使わないとこの速さでの共有は不可能だろう。
そして、そんなことをするくらいにはこの村には話題がないということだろうか。
「でも良かったです。何せ、この鬼退治は今年でおしまいにしようと思っていたのですから」
「そうなんですか?」
思わぬ言葉に驚く僕に神主は頷く。
「ええ。まだ誰にも伝えていないので内緒ですからね? 今回の祭りが終わったら私から村長さんに言うつもりなんです」
そう言って彼女は片手を口に当てて笑う。
「元々私の一族以外は誰も求めていない演目でしたからね。子供たちだって練習を面倒くさがって誰も来ないんです」
本当なら今日も昼頃から練習の予定だったのにと神主は寂しそうに言う。
運転手の言葉と雰囲気を思い出す。
村人全員がどう思っているかなんて流石に分からないが、もし皆があの程度の意識しか持っていないのであれば建前の反対意見こそ出たとしても最終的には無くなってしまうだろう。
「それじゃ、私は運が良かったんですかね」
「そうなりますね。私としても嬉しいです。最後にあなたのように外から来た方に祭りを見せることが出来るなんて。神社の中、見ていきます?」
神主は片手を口元から外すとそのまま本殿の方へ向ける。
「えっ、いいんですか?」
「ええ。本当はいけないのでしょうけど、最後ですからね」
想像もしていなかった展開だ。
神主に鬼退治の逸話を聞くことや祭りそのものを見ることが出来ればと思っていたが、まさか本殿の中に入ることさえ許されるなんて。
元々レポートの内容はある程度膨らませて書くつもりだったが、それはそれとして種があるに越したことはない。
神主が案内してくれた本殿は非常に小さく、木造りで床は靴下の上からでもひんやりと冷たさが伝わってくるくらいだった。
セミの鳴き声がしなければ外が夏である事なんて忘れてしまいそうだった。
とはいえ、見所らしい見所はなく、失礼極まりない言い方をすれば賽銭箱のある位置から覗くことが出来る範囲から想像できる程度の内容しかない。
「昔は鬼の骨が飾ってあったと父から聞いたことがあるのですけれど、今はもう処分されてしまったようです」
「鬼の骨?」
思わず問い返す。
「ええ。正確には鬼の骨と伝わっていた骨です」
「なんで処分なんか……」
僕の問いが終わらないうちに神主はまた片手を口に当てて笑った。
「鬼なんかいないからですよ」
何と元も子もない事を言うのだろうか。
呆れて言葉も返せないでいる僕をそのままに彼女は一人先に進みとある柱の陰へ向かう。
「気味が悪いじゃないですか。存在しない鬼の骨なんて」
存在しない鬼と存在していた鬼の骨。
矛盾する二つの事柄が単純な答えに辿り着こうとした刹那、彼女が不意にしゃがみ込む。
「こちらへどうぞ。本当は見せてはいけないのですけれど」
本当は見せてはいけない。
その言葉が持つ魔力は一瞬の内に答えへの道筋を掻き消し、僕の興味を全て奪ってしまった。
彼女の方へ足早に近づき同じように屈んでみるとそこには無造作に転がっている巻物があった。
褐色を通り越し焦げ茶色にも近い色合いをしており、開く前から分かるほどに所々が欠けている。
古い。きっと数百年は昔のものではないだろうか。
そんなものを彼女は無造作に拾い上げるとまるで紙でも渡すような自然さで僕へ突き出す。
「差し上げます。これも処分するつもりでしたので」
「何を……」
脳が状況に追いついていかない。
流石に不自然すぎる。
いや、それ以前に意味不明すぎだ。
「これは貴重なものでしょう?」
「ええ、とても」
「そんなものをいただくわけにはいきません」
至極当然なはずである僕の返しに彼女はさらに言う。
「これがあればより詳しくレポートを書けますよ」
「そりゃ、そうでしょうけれど……だけど、流石にいただくわけには」
「言ったでしょう? 今回で祭りを最後にするんです。だから、これも処分するつもりなんです」
いや、そもそも何故処分をするんだ?
鬼退治の劇をするのが最後だったとしてもこんな貴重なものを処分するのはおかしい。
先ほどの鬼の骨の件もそうだが彼女の語る言葉は奇妙で仕方ない。
かといって、興味がないはずもない。
「ですが、もし読ませていただけるなら、ぜひ読ませていただきたいです」
「そうですか。では、ぜひこちらに」
そう言うや否や彼女は屈みこむと巻物を床の上で乱暴に開く。
案の定紙片がぱらぱらと散らばる中、かさかさに乾き今にも崩れそうな巻物の上に赤黒い文字が書かれているのが見えた。
文字は死に絶えたミミズのようにぐにゃぐにゃと曲がっており、立ったままではとてもじゃないが読むことが出来ない。
僕もまた屈みこみ巻物を覗き込む。
ただでさえ現代の文字の形と違う上に、書き手の癖のせいか文字全体が震えるように歪んでいて読みづらいという言葉さえ不適切なほどに読み進めることに難儀する。
『この祝福は皆で受けなければならない』
書き出しは既に知っているものと同じだ。
『皆が英雄になるのだ』
故にここまでは比較的簡単に読むことが出来た。
『皆が英雄にならなければならないのだ』
しかし。
文章はまだ続いている。
「この。業……? ごう? は。皆で……」
自分に聞かせるようにして読み上げる文章。
『この業は皆で背負わなければならない』
これは一体?
「みな。皆? が、つみ。罪び……」
そう疑問を抱いた直後。
不意に強い衝撃が耳に走る。
「神主さーん! きたよぅ!」
完全に不意打ちを喰らってしまった体は自分でも情けないほどにびくりと震えていた。
それを見た神主が笑う。
「時間切れのようです」
言うと同時に先ほどは僕に渡すとまで言っていた巻物を取り上げてくるくると巻いてしまった。
「あっ」
思わず手を伸ばす僕に彼女は大きなえくぼを作っていった。
「劇の用意をしなくちゃいけません。これはまた今度」
そう言われては何も返せない。
やはり先ほどもらっておけば良かったなどと考えてももう後の祭りだ。
「鬼退治の劇は明日の18時からここで行います。もしよろしければお越しください」
そう言われては引き下がるしかない。
すごすごと本殿を出ると十人ほどの小学生と思わしき子供たちが私服のまま神主を待っていた。
彼らは僕を見るなりに「あっ」と声をあげて近づいてくる。
「お兄さんが劇を見に来た人?」
「絶対見てもつまんないよ」
「うん。だって、だーれも来ないんだもん」
好き勝手喋る子供たちへ適当に返事をしながら僕は神社を出る。
田舎の情報伝達の速さと恐ろしさに呆れかえりながら僕は自転車を漕いで民宿へと戻った。
部屋に戻った僕はノートをちゃぶ台の上に広げて序文を読み返す。
この地方の鬼退治の伝承を調べればすぐに出てくるようなもの。
『この祝福は皆で受けなければならない』
『皆が英雄になるのだ』
『皆が英雄にならなければならないのだ』
『恐ろしき鬼は滅びた』
『我らは解放されたのだ』
これは全て自分で書いた文字。
それはつまり、内情すら知らずに書き写しただけの文章でもある。
扇風機が汗ばんだ皮膚に生ぬるい風を送る。
本殿で見た巻物を思い出す。
読めたのは本当に最初の部分だけだったがそれでも収穫はあった。
『皆が英雄にならなければならないのだ』と書かれた分の間にボールペンを使って文字を書き足す。
『この業は皆で背負わなければならない』
そう書いた後、僕は読み切れなかった内容を想像しながらもう一文付け加える。
『皆が罪人になるのだ』
直後、その文字を二重線を引いて掻き消した。
先入観はいつだって客観的な視点を持つことを邪魔してしまう。
きっと頼めば神主はまたあの巻物を見せてくれるだろう。
いっそ、本当に貰ってしまっても良いかもしれないと思った。
鬼の骨とやらを捨ててしまったほどなのだ。
彼女はあの巻物もあっさりと処分するに違いない。
いや、そもそも処分してしまいたいものなのかもしれない。
そんなことを考えながら窓を開けて外を見る。
田園風景が広がる中に点在する家々は明日が祭りだと言うのにも関わらず、平時と変わらない営みをしているように見えた。
きっと、そうなのだろうと僕には思えて仕方なかった。
だからこそ、この祭りを取りやめにしようと神主も考えたに違いない。
先ほど掻き消した文字が再び頭の中に浮かんだが僕は一先ず考えるのを止めた。
翌日の祭りは想像よりもずっと細やかなものだった。
歩いている内に背負っていたカバンがぶつかるのではないかと思っていたが、そんな心配もいらないほどに人数も少ない。
出店の数もほとんどなく、おまけに客と店主が話をしていて商品を売る気もなさそうなくらいだ。
夜の闇がずっと遠く感じる夕日に照らされた道を私は歩く。
「兄ちゃん、劇を見に来たんだって?」
一度となく声をかけられた。
もうすっかり僕の存在は村で共有されているらしい。
「退屈だよ。あんなもん。こっちに居た方がずっと楽しいぞ」
「ガキ達の親御さんくらいしか見に行かねえんだ」
「神主様も大変だよ。あんなもんずっと続けていかにゃいけないなんてな」
来客が珍しいのだろう。
道行くだけで色んな人に声をかけられて辟易した僕はまだ劇の時間には早いというのに神社へと向かった。
境内には既に幾人かの中年の男女が集まっており、カメラを手に持って我が子の劇をしっかり記録に残そうと準備をしているところだった。
下手に近づけばまた話しかけられると判断して人通りが少なさそうな本殿の影に身を置いて時間が過ぎるのを待っていた。
「ここで待つつもりですか?」
そう声を掛けられて振り向くと袴に身を包んだ神主がいた。
「ええ。あまり人に話しかけられたくなくて」
「随分と苦労したみたいですね」
神主はくすくすと笑い、僕の隣から集まった人々の顔を眺めていた。
どうやら子供たちの親が集まっているかどうかの確認をしているらしい。
「全員集まったら始めることにしているんです」
僕の考えを読んだようにして神主が言った。
「どうせ、この劇を見に来るのは子供の親だけなので」
彼女はそう言うと「よし」と小声で呟いてから僕に微笑んだ。
「これから始めます」
始まった劇は想像の遥か下を行く退屈なものだった。
劇に使う機械など一つもなく、薄暗くなっていく夜の中を至る所に吊るされていた祭りの提灯だけがどうにか照らしていた。
観客は僕を含めても二十人にも満たない。
これじゃ、学校どころか幼稚園のお遊戯会のようだ。
本殿の前を舞台としているらしいが、小道具の類は一切なく本当に本殿の前で劇をするだけらしい。
唯一向かって左側には木々に白色の長布を垂れ下げて観客から見えないようにしており、その背後には設置型ライトが置かれていて既に光が照らされていた。
そして、皮肉なことに本殿の影に居た僕の位置はまさに舞台の裏側となっており、本来ならば見えるはずもない白布の裏が丸見えとなっていた。
かと言って今更位置を変える気にもなれず、僕はそこから劇を観ることにした。
まず神主がすたすたと舞台の真ん中に立つと一礼をし、そして快活な声を張り上げて劇を進行させていく。
「かつて、この村には鬼が住んでおりました」
その言葉と共に本殿に居た子供の一人が白布の陰に入っていく。
こちらから見れば丸見えだが観客たちからはライトを通して影だけが見えるという形だ。
あの子供が鬼の役だとでも言うのだろうか。
しかし、子供は衣装一つ身に纏っておらず普段着のままだ。
衣装を用意しろ等と言える立場ではないが、せめて頭にボール紙で角でも造るべきではないだろうか。
これではまるでリハーサルをしているようにしか見えない。
「鬼は山の洞に棲み付いていました。それを人々は知っていました」
運転手の言葉が甦る。
『鬼だ! やっつけろ! ってな具合に叫びながら穴の中に行っておしまいだ』
まさか、あの白布を穴だと言い張るつもりなのだろうか。
夏の重い空気が口の中に広がり何とも言えない不快感を伴う。
それはきっと、集まった人達も同じなのだろう。
皆、団扇を扇いだり、手ぬぐいで汗を拭っていたりする。
しかし、いくら我が子が出ると言っても、暑さを我慢しながら見るのがこんな劇などとは……。
今回で最後にすると神主が話してくれたが、むしろ正しい判断だったと思えてしまった。
「鬼は人を喰う、あまりにも恐ろしい存在でした」
彼女の声を受けてまた一人、本殿から子供が出てきて白布の陰に入り、そして。
「ぎゃあああああ!!!」
と悲鳴をあげる演技をした。
子供らしい大声でがなり立てる微笑ましい演技に観客たちが笑い、それを見て神主もまた「ちょっと、やりすぎだよ!」と苦笑しながら注意をしていた。
しかし、そんな注意を受ければ子供たちからすれば調子に乗ってと言っているようなものだ。
「助けてえええ!!! 食べられるう!!!!」
そう言ってひとしきり騒ぐと子供の一人がバタンと地面に伏して、鬼役の子供が布の陰で両腕をあげてこれまた叫んだ。
「おいしい! 人間がおいしい!!」
まるで誰かに訴えるような声で鬼役の子は執拗に人間の美味さを叫んでいた。
その隙に食べられた役の子供は入った時と反対側から出てきてまた本殿に隠れた。
「村人たちはこの恐ろしい鬼に怯えて暮らしていたのです」
神主の言葉と共に子供たち全員が一人目と同じやり取りを行う。
どうやら、全ての子供が主役となるための配慮らしいがこれじゃあまりにも退屈で滑稽だ。
そうして全員が鬼に食べられて、本殿へ戻って来ると神主がまた声を張り上げる。
「しかし、鬼にいつまでも屈してはいけない。村の人々はそう考えたのです」
その言葉に応えるようにして白布に隠れた子供以外の全員が集まった。
各々が古くから使われていたであろう小道具と思わしき木の棒を持っている。
「鬼をやっつけよう」
「僕たちの時代でこんなことを終わりにするんだ」
「そうだ。皆で挑めば怖くなんかない」
自分達を見に来た親を見つめながら子供たちが大声でセリフを言う。
「さぁ、皆で勇気を出そう!」
最後の一人がそう言った直後、神主があの言葉を口にする。
「この祝福は皆で受けなければなりません」
心の奥底が震える。
いつの間にやら夕日の齎す世界が眩いものから暗い薄青に変わっていたのだ。
「皆が英雄にならなければなりません」
その声に導かれるようにして子供たちが叫びながら白布の中に駆け込んでいく。
「ぎゃあああああ!!!」
鬼役の子供が大声で叫ぶ。
「やっつけろ!!!」
子供達が口々に言って棒を振って鬼を叩く。
僕の位置からでは鬼役の子の背中を叩いているのが丸分かりだが、もし反対に立っていたならきっと本当に叩いているようにしか見えないだろう。
「やっつけろ! やっつけろ!!」
「鬼だ! 鬼を殺すんだ!」
見るに堪えない様に僕は気づけば視線を外していた。
劇の程度の低さもそうだが仮にも子供が行う劇なのに『殺す』なんて単語を使うなんて、あまりにも程度が低いと言うか不適切ではないだろうか?
いや、そもそも鬼の役を子供に押し付けるというのも……。
そんなことを考えている内に神主の結びの言葉が聞こえてきた。
「恐ろしき鬼は遂に打ち倒されました。人々は恐怖から解放されたのです」
「僕たちは!」
男の子が叫ぶ。
「私たちは!」
続けざまに女の子が叫ぶ。
「鬼を打ち負かしたんだ! 皆で鬼を殺したんだ!」
合唱のように重ねられて響く声に僕の肌はぴりぴりと震えていた。
「皆で鬼を殺したんだ! 皆で英雄になったんだ!」
ぱらぱらと小雨が降るような遠慮がちな拍手が響く。
反射的に視線を戻すと布の影に居た子供達は既に全員出てきており、神主の周りに集まって皆が丁寧に僅かばかりの観客に向かって頭を下げていた。
そんな中、神主の一瞬こちらを向いて僕に向けて目くばせをする。
どのような意図があったのか分からないまま僕は半笑いを浮かべることで反応を返したが、その頃には既に彼女はもうこちらを向いていなかった。
簡易的な挨拶を神主が行い、それを持って劇は閉幕となった。
時刻はもうすぐで19時になる。
それを知っているのか子供達は祭りの方へと駆け出していき、それを追うようにして集まった親御さんたちもまた我が子を追って歩き出す。
残されたのは本殿の陰に居た僕と進行役を務めていた神主だけだ。
「これで終わりです」
独り言のように呟かれた言葉は祭り囃子が微かに聞こえるこの場所ではあまりにも侘しく感じられた。
「退屈だったでしょう?」
彼女は木にひっかけていた薄布をするすると手を動かして器用に取り上げる。
「手伝いますよ」
そう言って踏み出した足音がやけに耳に響く気がした。
「こんな劇。無くなって当然だと思います。退屈で、滑稽で。そのくせ歴史だけはある」
呆気なく地面に落ちた白布の反対側を私は掴むと彼女は小さな声で礼を言う。
「皆、止めたくて仕方なかったんですよ。もちろん私も含めてね」
二人で協力して布を畳み終わると彼女は布を抱えて本殿へ向かい歩き出す。
その背に僕は躊躇いながら声をかけた。
「あの巻物。やっぱりいただいてもよろしいですか?」
彼女は振り返り微笑んだ。
「もちろんです」
巻物はやはり床に転がっていた。
彼女はそれを拾い上げると昼間と同じように差し出した。
受け取った巻物は強く握れば変形してしまいそうなほどに頼りない。
僕はそれを持ってきたカバンの中に注意深くしまった。
すると同時に。
「この祝福は皆で受けなければならない」
神主が淡々とあの口上を口にしていた。
セミの鳴き声も風の音も遠くから聞こえる人々の営みも。
全てがこの時代に存在していると思えばある種の統一性が感じられた。
「皆が英雄になるのだ」
そんな中で。
「皆が英雄にならなければならないのだ」
彼女の声だけが過去を語っている。
「この業は皆で背負わなければならない」
その異質さが。
「皆が罪人にならなければならないのだ」
その恐ろしさが。
「我らは鬼から解放されたのだ」
形として完成する直前に彼女が笑みを浮かべて全て打ち消してしまった。
「さっきの劇で鬼が棲んでいた穴がありましたよね」
「穴。あの布ですか」
胸中に漂う不可解な想いを吐き出すためにあえて茶化す。
「えぇ、あの穴です。それってここなんですよ」
「え?」
予想外の言葉に僕が問い返す。
「劇の中で鬼が棲んでいた穴。それはここなんです」
「それじゃ、鬼を打ち倒した後に神社を建てたんですか?」
「いいえ。鬼を殺した時から変わりません。経年劣化で何度か建て直しはしましたけれど」
神主は何かを伝えようとしている。
赤々と日に焼けた彼女の肌が奇妙なほど艶やかに僕の目に映った。
「何度も何度も建て直して、その度に少しずつ様々なものを捨てていきました」
外の景色を夜が少しずつ覆っていく。
「鬼の役から名前を消し去りました。くだらない虐めが流行ったから」
音が重い。耳で受け取るのを難儀するほどに。
「鬼の衣装を捨てました。過去を思い出すから」
こんな場所にまでも届く祭り囃子が煩わしい。
「人々は一人一人鬼を忘れていきました。罪の重みなど子供達へ渡していくものではないのだから」
そして。
場違いなほどに明るい笑みを浮かべて彼女は言った。
「そして私は劇を終わりにしちゃうんです。清々します。本当に。その巻物は好きに使ってください。捨てちゃってもいいです」
彼女の大笑いは虚ろな本殿の中で気味悪く響いていた。
翌朝、僕はその村を後にした。
元々鬼祭りを見るためだけに来たのだから当然と言えば当然なのだが、もう一日残っていた滞在期間を切り上げてでも、一刻も早くこの場所を離れたくて仕方なかったのだ。
「何もなくて呆れちゃったんでしょう?」
見送る女将さんに僕は曖昧な返事をした。
「まぁ、こんな何もないところですがまたいらしてください」
来た時と同じ運転手が「何もなくて飽きちまったんだろう?」なんて女将さんと同じように僕をからかったが、それに対してもまた私は適当に流した。
バスを降りて電車に乗り、田園風景が少しずつ消えていき、やがて家々が立ち並ぶようになった頃、僕はようやく人心地がついた気分だった。
両腕でしっかり抱えているカバンの中には神主から貰った巻物が入っている。
初めて見た時はミミズが這ったようにうねり、時代の変化故に今と多少なりとも違う文字の形に戸惑って読みづらかったが、あの後、民宿に戻ってから広げて読めば思いの他、すらすらと内容が頭の中に入っていった。
そして、だからこそ、僕はすぐにでも村を離れることを決めたのだ。
神主は言っていた。
『皆、止めたくて仕方なかったんですよ。もちろん私も含めて』
その真意は誰もが面倒に思っている形骸化した劇だからではない。
彼女の言葉はもっと恐ろしく忌々しいものに連なるものなのだから。
無意識に唾を飲み込む。
これは本当に『恐ろしく忌々しいもの』なのだろうか?
むしろ真実としては『ありふれていて平凡なもの』なのではないだろうか?
結局。
僕はレポートの内容を全く別のものに変えてしまった。
そうして。
神主から受け取った巻物は幾重にもビニール袋で包んで燃えるゴミの日に出した。
だからもう、僕はあの巻物がどこにいったか知らない。
あとはただ自分の記憶から巻物の内容が消え去るのを待つばかりだ。
あの学生が予定より一日早くこの村を発ったと民宿の女将さんが教えてくれた。
きっと、彼は渡された記録を。
この村が隠匿し続けていた鬼の記録を読破したのだろう。
本殿の中で私はだらりと床に寝そべって天井を見上げていた。
罰当たりだなんて思わなかった。
だって、この場所に神様なんていないから。
呪われるなんて思わなかった。
もし、呪う力があったならばこの村は当の昔に滅びているはずだから。
巻物が失われることに何の恐れもなかった。
何せ、もうあんなものが存在していたことを知っている人なんて私以外に居ないから。
天井を見つめたまま、私は巻物の序文を口にしていた。
・
この祝福は皆で受けなければならない。
皆が英雄になるのだ。
皆が英雄にならなければならないのだ。
この業は皆で背負わなければならない。
皆が罪人になるのだ。
皆が罪人にならなければならないのだ。
恐ろしき鬼は滅びた。
おぞましき風習は滅びた。
我らは解放されたのだ。
口にするのも憚られるあの歴史から。
・
私は乾いた笑いを一つ漏らす。
今、こうして何事もなく生きていることを思えば忘れ去られた過去には毛ほどの価値もないのだと実感する。
「鬼は人を喰らう」
巻物に書かれていた一文を声に出す。
「だから人の肉をくれてやる。鬼を生かすために」
人々の記憶から消えた鬼の記録。
それを私の一族はずっと大切に保管していた。
捨て去る勇気がなかったから。
「鬼は人の言葉を解する。しかし、人が鬼の言葉を解することを理解させてはならぬ」
もう何度、この遊びを繰り返しただろうか。
天井に向けて言葉を放ち、受け取り手もいないまま落ちてくる言の葉を雨のように浴びる。
そうしていると。
まるで過去に起きたことを今、この瞬間にも体験しているような感覚になるのだ。
目を閉じて呼吸を整え、そして。
私は鬼の記録。
即ち、鬼録を自分自身に語って聞かせた。
・
この村には鬼が居た。
人を喰らう恐ろしい鬼だ。
鬼は幸吉の家に居た。
幸吉の家は村で一番大きいから鬼を簡単に隠せた。
童は六つになると必ず鬼を見せられに幸吉の家へ向かわされた。
「鬼はぁ人間の言葉を話すが反応すんじゃねえぞ」
そう凄む大人に歯向かえる童など居るはずもない。
何故、わざわざ鬼を見に行かなければならないのか。
そんな問いさえも口に出来ない雰囲気の中、皆がぞろぞろと鬼を見に行く。
先頭に立つ引率の大人は何かを大布に包んで抱えていたが、それが何なのか聞く者は誰一人いなかった。
幸吉の家の一室は牢になっており、中には土と垢でまみれ女人よりもずっと長い髪の毛を振り乱した男が一人膝を抱えて座っていた。
鬼などどこにもいなかった。
少なくとも童たちは皆、始めはそう思う。
しかし。
「あれが鬼だ」
大人はそう言った。
その言葉に反応して牢の中に居た男が奇声をあげながらこちらへ近づいてくる。
「だしてくれだしてくれだしてくれ」
男は大人を見ていたが大人はそれを無視する。
童たちが不安げに男と大人を何度か見合わせたが、そんな様子を気にもせず大人は包んでいたものを取り出す。
「鬼は人を喰らう」
それは先日、馬吉の嫁が流産した赤子の遺体だった。
「だから、人の肉をくれてやる。鬼を生かすためにな」
そう言うが早く壁に立て掛けられていた鉈を取りそれを解体していく。
「扉は開けんなよ。逃げちまう。だから、こうして小さくして隙間から投げてやるんだ」
悲鳴と共に吐しゃ物をまき散らす童たちに大人は無感情に言った。
「いくら吐いてもいいが、あとで掃除すんのはてめえらだかんな」
やがて作業が終わり、血塗れの肉片を大人は牢の中に投げ入れた。
「くいたくない。もういやなんだ」
男はそう泣いていたが、大人は無視して肉片を全て投げ入れた。
「安心しろ。二日もすりゃ喰いだす。喰わなきゃ死ぬのをまってりゃいい」
言うと同時に大人は踵を返して童たちに言った。
「そら、もう戻るぞ。今回だけは掃除するのも明日でいい」
すたすたと出ていく大人の背を童たちは我先にと追いかける。
僅かな時間もこんな場所に居たくなかった。
「まってくれ。だしてくれ。たのむから」
部屋を出ても声はまだ聞こえていた。
そのあまりの叫び声に泣き出している童も居たが、それを無視するようにして大人は言った。
「今度からはおめえらがやるんだ。三日に一度は餌をやれ」
「餌」
震える声で言葉を繰り返した童に大人は頷く。
「死人が手に入らなきゃ鹿や猪の肉でもいい。ただ、その時は毛皮をしっかり取り除け。でなきゃ、人の肉を絶対喰わない鬼が出来ちまう」
全てが恐ろしい程に淡々と進んでいた。
有無を言わさぬ大人の態度に童たちは何も問いかけることは出来なかった。
幸吉の家に居た鬼は明らかに人間であったのに、大人は終始鬼として扱っていた。
「鬼が」
童が恐る恐る問いかける。
「鬼がもし死んでしまったらどうするの」
「そら、お前。めでてえ事じゃねえか。鬼が居ないなんてよ」
それ以上の答えはなかった。
いや、存在しなかったのかもしれない。
・
過去の凄惨な光景を想像し、天井へ向けて語りかけながら考える。
長い村の歴史の中で罪人が鬼として扱われるようになったのはいつ頃なのだろうか。
それは分からない。
罪人でなくとも疎まれた者が鬼として扱われるようになったのはいつ頃なのだろうか。
それも分からない。
しかし、この悪しき風習から逃れようとした者達が現れた頃だけは分かる。
つまり、それこそがあの学生に渡した巻物が記された時なのだ。
・
決行は満月の夜と決まった。
各々の家から一人ずつ男が代表として参加することになった。
皆、一様に農具を持ち鬼の居る牢の前で呼吸を整えている。
総勢二十人以上にもなる男達のほとんどが顔を青くしており、今にも逃げだしそうなほどに震えている者もいた。
「なぁ、やっぱり今の鬼が死んでからでもいいんじゃねえか」
恐る恐る一人の男が言う。
「今の鬼が死んだらもうこれっきり。鬼なんてつくらねえ。それでいいんじゃねえか」
それは何度も繰り返し話された平和的な解決案にして、遂に選ばれなかった選択肢。
「馬鹿が。それじゃ、今までと変わんねえだろ」
村長が怒鳴る。
「そんな怠けた考えでいるから、俺らの親父もそのまた親父もこんな悪習を残しちまったんだ」
「しかし……」
「黙れ!」
このような馬鹿げた風習が残ってしまったのは皆が共犯者であるためだ。
今の鬼が死んでそれっきりにしようとも、何か起これば必ず人間を鬼にしようとする者が現れる。
流れていく日常に罪を覚える者などいない。
物心つく頃には常識として刷り込まれたものに対して恐れを抱くものなどいない。
「親父たちは皆、臆病者だ。皆、屑で救いようのねえ奴らだ。だから俺らがこんな思いをする羽目になる」
肩で大きく息をしながら村長はそう言うと息を一つ吸い込んで言った。
「いいか、てめえら。俺ら全員が罪を背負うんだ。俺ら全員で受け止めるんだ」
その言葉に遂に皆が覚悟を決めた。
彼らを見まわし、村長は自分自身に言い聞かせるようにして言った。
「よし。いくぞ」
鬼を殺して村に蔓延る悪習を断ち切った者の数は二十二人。
その内、二十一人が鬼の体に何らかの形で傷を与えた。
その時、鬼が生きていたか死んでいたかは分からない。
なにせ、二十人以上に暴行されて死んだのだ。
素直に考えるならば途中で死んでいた可能性が高い。
滅多打ちにされた体は全身が血でまみれており、まさに鬼の様相を呈していた。
「おい。てめぇ、いつまで逃げてんだ」
ぴくりとも動かなくなった鬼の前で村長が壁の隅で震えていた男へ言った。
彼はこの凄惨な光景に腰を抜かしていたのだ。
「全員で殺さなきゃ意味ねえんだよ」
そう凄まれて、彼はようやく意を決して愛用の鎌を持って一歩近づく。
そして、その次の瞬間。
「おい、まて。もう死んでんぞ、こいつ」
「あぁ?」
村長は振り返り持っていた鍬の先で鬼の体をつつき、それでも反応がないのでしゃがみ込んで鬼の口元へ耳を近づけた。
「くそ」
舌打ちをして村長は言った。
「死んじまってんじゃねえか」
その声を聞いて鎌を持っていた男は内心でほっと息を吐いていた。
自分は人を殺さずに済んだ。
自分は罪を犯していない。
愚かにもそう考えていたのだ。
「おい」
村長は男の一人に何事か指示をすると彼は頷き駆けていってすぐに紙と筆を持ってきた。
それを村長は奪い取ると遺体の血に筆をつけて言った。
「お前、記録を残せ」
「はい?」
鎌を握りながら問い返すと村長は筆を押し付けて言った。
「言っただろう。全員が罪を背負わなきゃいけねえんだよ。だからお前は」
村長は息を止めて歯ぎしりをした後、怒鳴りつけるように言った。
「俺らの罪を書き残せって言ってんだよ! この卑怯もんが!!」
・
これが私があの学生に渡した巻物に記された全てだった。
あの巻物にはこの村に住む全ての人間の先祖が犯した罪が克明に記されている。
けれど、人々はもうそんなこと覚えていない。
何せずっと昔のことなのだから。
何せ早く忘れたくて仕方のない事だったのだから。
覚えていたのは巻物を保管し続けていた者……即ち、最後まで自分の手を汚さないようにしていた卑怯者の血を引いた私の一族だけ。
けれど、もうそれも終わり。
私は立ち上がる。
あの巻物がどうなろうと知ったことではない。
誰かの目に触れるかもしれないし、触れないかもしれない。
けれど、あの学生の様子からすればきっと、まともなレポートなんぞ書きやしないだろう。
だから本当に丁度良かった。
自分の手で破棄するのはさすがに抵抗があったから。
なんと卑しい考えか。
なんと卑怯な発想だろうか。
そんなことを考えながら私は笑っていた。
遥か昔の出来事は信じられないことばかりだ。
それこそ、あの巻物に記された出来事さえも。
しかし。
しかしだ。
私とあの巻物を記した者は間違いなく血は繋がっているのだろう。
何せ、私はこんなにも卑怯な人間なのだから。
本殿の外には暑い夏の日差しが降り注ぎ、清々しい程に青い空が広がっていた。
それを見上げながら私は言いようのない解放感に身を包まれていた。
今、全てが終わったのだ……なんて、一言で終えてしまうのは。
やはり卑怯だろうか、なんて思いながら。
浮かべた過去が風で運ばれていく心地良い感覚に身を任せた。