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壁人

作者: 杜若表六

壁人


後漢・霊帝の憙平二年六月、空にはまだらに雲かかり、なにか鬱鬱とした、しかし、ともすればなにか鬱勃とどこからか気炎が上がりそうな、淀んだ不満と、いやに活気づいた日常とが、湿った大気のなかで淫蕩に混淆したふうの洛陽の梅雨は、虎賁寺の軒先で雨が止むのを待つ、この一人の或る乞食には、少々つらい。


転寝をしては、ふいにがばと跳ね起き、曖昧な憤りの中で悪夢を反芻している。人通りの少ない通りに面した、この寺の東の長く続く壁には、ほんの申し訳ていどの軒が設けてあって、ときたま陰湿な風が、乞食の横っ面に雨滴を嘲るようによこす。横たえる土の上にも、寄せかかる壁のおもてにも、爛れたように歳月が苔むしていた。

天女の舞う様を見た。極楽鳥の棲む山々を見た。どこからか飛んできた蝶の羽の模様が笑っていた。

それが全て夢だったと気づくたび、彼の生命力は萎びて、反ってどうにもならぬ怒りがこみあげて来る。

今度ばかりは、跳ね起きざまに、壁の前に仁王立ち、キッとその薄汚いおもてを睨んだ。

「お前は笑っているな。だが、俺も望んでこのような境涯に沈んでいるわけではない。俺は、少しばかり前までは、一人の官吏であった。だが、己の野心と自尊のために、つまらぬ事で、不名誉を被ったのだ。俺は野に下り、雌伏の時をすごした。いや、考えてみれば、それもただの自惚れに過ぎなかった。少しばかり前までの俺は、まだ世間知らずで、さっそく身を寄せた裏街の下種下郎に騙され、一挙に乞食に転落した。そして死ぬよりも惨めだと自ら思いながら、死ぬことすら不名誉と思って生きさらばえている。こんな俺をお前までもが笑うというのか」

壁が問いに答えると信じるほど、乞食は狂っていたわけではなかった。だが、おそらくただの壁に文句をつけるほどに、彼の意識は正常ではなかった。もっとも、外野の野暮な批評など、この、自らの境遇というよりは自らの絶望に苦しむ男の為になる訳もない。


何か思案した様子を見せた後、ふんと鼻をひとつ鳴らすと、男はいきなり壁を両手でぎゅうと押し込め始めた。無論それは、単なる憂さ晴らしに過ぎなかった。

そして、その手触りにぎょっとした。この壁は、間違いなく、人の肉で出来ている。おお、これは死骸だ。まるで大歳のような、肉でできた壁なのだ。

その時すでに、男の腕はもう半分も壁にめり込んでいた。やけに柔らかい壁は、男が藻掻くたびにその身体を呑み込んでいった。

俺は、きっと食われてしまう。いや、俺も、食われてしまうということか。おそらくは、いままでこうして食われたのは、俺一人ではないのだ。……


それからしばらくして、寺のその壁の前には洛陽の人々が押しかけた。東壁へ行く道々は人であふれた。

壁のおもてに、男の姿をした染みがあらわれたという。まるで生きているかのように迫真な。

凶兆の前触れかと口々に叫ぶ人々は、しかし、どこか愉悦に浸っているようで、えらく楽しげである。

対して、雨に濡れた壁の中の男の顔は、苦悶に歪んでいる――。

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