幕間 ヒュドラ事件
春から夏にかけては、人類の歴史の転換点だった。
三十年前。
一人の老婆が戦場にいた。
燃え尽きた戦車、飛行機。なにより人間。軍民合わせて犠牲者は五万人を超え、日本を含めた各国の一線級異能者も屍となった。
その中には桔梗家の人間なども含まれており、各国は切り札こそ出せなかったが、決して手を抜いていたわけではなかった。
それでもなお敗れた。
「この恨み、晴らさでおくべきか……」
本来は持ち場を離れていい立場ではない老婆が、天に聳える塔を睨みつける。
片腕はつい数時間前の戦いで捥がれ、本来はこの場にいていい老婆ではなかったが、今だからこそ出来る御業がある。
後年、一族にモイライ三姉妹の力を宿した女達が生まれ、極東のとある名家に生まれた男がチャラチャラするまで、間違いなく人類最高の権能使いだった老婆をして手に余った怪物。
『ジャアアアアアアアアアアアアアアアア!』
七つの首が吠えた。
堂々たる世界の敵。現代において唯一認定されている世鬼。
秘匿されていた異能史を根本からひっくり返した歴史の転換点。
最盛期の竹崎重吾クラスでも、七人を揃えなければ話にならない別格。
ヨーロッパにおける悪夢にして最大の怨敵。
ヒュドラの仔。
「ネメシスよおおおおおおおおおおお!」
髪は白く、目もまた同じように濁っている老婆が幽鬼の如き姿で叫ぶ。
乞い願うはただ一つ。五万人が犠牲になったからこそ可能になる、復讐の女神ネメシスの完全顕現だ。
そうなれば流石のヒュドラの仔と言えども無事では済まず、運が良ければ極限まで削ることが出来る……筈だ。
というのも衰えに衰えた現代の神格が、一切の縛りが無いヒュドラの仔を倒す保証はなく、一種の賭けに近い。
「おおおおおおおおおおお!」
後は老婆が魂を完全に燃焼して、それを呼び水にネメシスを顕現するだけ。
老婆は全ての血液が足に落ちる錯覚を受けた。
なんならヒュドラの仔もだ。
まだ老婆は最後の一線を越えていない。ネメシスは現れていない。
それなのにナニカがいた。
「あ、あ? おお?」
思わず声を漏らした老婆が目を凝らす。
確かにいる。間違いなくいるのに、いない。老婆には見えない。
炎が揺らぎ、月夜はなにも隠していないのに、ナニカが月そのものを遮っている。
最高峰の権能使いでも認識出来ない深淵を、ヒュドラの仔は認識できてしまった。
爬虫類に相応しい裂けた瞳孔が恐怖に震え、蛇のくせに、蛇に睨まれた蛙のような無様を晒してしまう。
楽団の尽力で永久に眠っているモノと似て非なるナニカが、大気圏すらぶち破り月を覆い隠してちっぽけな全てを見下ろしている。
黒い。ドロドロとして煮詰まった泥のような呪いではなく、どこまでも透き通った純粋な黒。
手足は異常に細長く、口も目もないのっぺらぼうが、復讐の女神ネメシスであるはずがない。
『死あれ。呪いあれ。災いあれ。禍つあれ』
老婆には聞こえなかった声が星々を揺らす。
五万人の怨念どころではない。遺族を合わせた世界中の憤怒と恨みすら結合した暗黒が、両手を合わせた巨人の掌に集まった。
巨人は基本的に星の内にはあまり干渉するつもりがないため、権能そのものをぶつけるのではなく、あくまで自らが勝手に定義した、神話が生み出した恨みの代行者として振舞っているだけだ。
故にこそ仕事中の声は落ち着ききって、溢れる威厳が闇の後光すら発生させている。
そして恨みが圧縮。
常人の掌に包めるほどのガラス玉と化し、ヒュドラの仔に落ちる。
『ギギャアアアアアアアアアアアアア⁉』
一瞬で着弾した途端にヒュドラの仔は爛れた。腐った。燃えた。
鱗は蒸発するように腐敗し、内臓はぐずぐずに溶ける。
あらゆる現代兵器が通用せず、核攻撃すら検討されていたヒュドラの仔がだ。
殆どが骨となり体が支えられなくなったヒュドラの仔が、地響きを立てて地に倒れ伏しても浸食は止まらず、ついには骨すら分解してしまう。
同時に巨人は消え去る。
これ以上の行いは復讐神の領分ではなく、後は人の話になる。
ただ後年、息子が死者と取引して地球の最終防衛兵器を作り上げるのは流石に予想外だったが。
そして一人残された老婆は思った。
ギリシャは、世界は、星は思ったよりも崖の際にいるのではと……。
しかしこれを喋ることは出来ない。喋ったが最後、それこそ世界が終わる予感がしていたから。




