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※2023.3.18に加筆修正しております。
まさかの結果にバッと身を起こした俺は、衝動的に自身に嵌まった魔封じの首輪を鷲掴む。そして奴隷として我が身を縛り付ける重たい枷を壊すべく呪文を紡ごうと口を開いた瞬間、伸びてきた白く荒れた手に腕を掴まれて首輪から引きはがされた。
何故、俺の邪魔をするのか。
苛立つ心のまま俺の腕を掴んで妨害した青年を睨みつければ、彼は真剣な表情で静かに首を振る。
「それは止めた方がいい。貴方が使う魔法に魔封じの首輪が反応していないのは確かだが、外部からの衝撃にも無反応でいてくれるのかどうかはわからない」
淡々と告げられたその言葉に、俺はハッとする。
そうだ。魔法が使えるという事実に興奮してすっかり忘れていたが、この魔封じの首輪は装着者が魔法を使用した際に制裁を加えるだけでなく、正規の手順以外の方法で無理やり外そうとすると着用者の首を折る機能が付いている。でないと、奴隷の身内や縁者が魔法を使って勝手に解放してしまうからな。
彼の言う通り、魔法を使用できたとしても外部からの攻撃に対しても無反応であるとは言い切れない。浮かれて首輪の破壊を試みた結果、死んでしまっては元も子もないし、ここは慎重を期すべきだ。
ここから逃げ出して、首輪の外し方を知っている人を探した方がいい――。
魔封じの首輪はアネセル国以外でも使用されているので、金を積めば外してくれる人間がいるはずだ。そう結論付けると共に、俺は自身の過ちを認め、止めてくれたお礼を言うべく再び青年と視線を合わせる。
彼は、焦りと緊張が滲む強張った顔で俺の一挙一動を注意深く観察していた。
どうやら、俺の軽率な行動で随分と肝を冷やさせてしまったらしい。それに魔法が封じられたままの彼と、使用できる俺では戦力がまったく違うからな。感情に任せて魔法を振るわれたら、という恐怖もあるのだろう。俺の魔法が目当てだから、一時の衝動に駆られて死なれてしまったら困るにしても、かなり勇気がある行動だ。
有益な情報を教えてくれたのに、申し訳ないことをしてしまったな……。
俺が脱出する際に自分も一緒に連れて行ってほしいという下心があったとしても、彼の一連の行動によって俺が助けられたのは間違いなく。首輪の破壊を止めてくれた件に関しては、命の恩人といっても過言ではない。
そんな相手を無駄に怖がらせてしまったことを反省しつつ、俺は警戒態勢をとっている青年を刺激しないようそっと口を開いた。
「止めてくれて助かった。ありがとう」
「……いや。この状況下で魔法が使えるとわかったら、俺も冷静ではいられないだろう。もう少し、伝え方に配慮すべきだったな」
感謝の言葉を述べる表情を見てもう大丈夫だと判断したのか、彼はそう言って制止するために掴んでいた俺の腕を解放する。次いで、浮かせていた腰を静かに降ろすと小さく微笑んだ。衝動に任せて行動しようとした俺に、軽率だと咎めることも冷静になれと注意するでもなく、共感を示して許すとはなんともまぁ、よくできた人間である。俺の行動を予想していたかのように止めた点や、我が身の危険を顧みずに現状を諭してきたところなども合わせると、上に立つべき人間というか、采配を振るう側の人間になるべく教育を受けてきたような印象を受ける。奴隷生活をしていたにしては体格よく成長できているし、彼は良い家柄の生まれだったのかもしれない。
寛大な態度を見せた青年にそんな感想を抱きつつもう一度お礼の言葉を告げれば、「助けられたのはお互い様だ」という言葉が返ってきた。
そして会話が止み、部屋の中には静寂が訪れる。
外から聞こえる音に変化はなく、奴隷達を急かすように地を叩く鞭の音と重労働に喘ぐ仲間達の声が風に乗って運ばれて来る。体の不調はすっかり解消されたが、俺の首には相変わらず重く冷たい魔封じの首輪が付いたままだ。
しかし、少しだけ。
先ほどよりも、差し込む月明かりを美しく思えた。
ここから出られるかもしれないだなんて、想像したこともなかったな……。
重いツルハシやスコップを握り続けた所為で幾度となく豆がつぶれ、皮が厚くなった自身の手をぼんやりと眺める。
ここ数年は、魔法が使えるかどうか試すことすらしてこなかった。そのような甘い希望は奴隷になったばかりの頃に粉々に打ち砕かれて、散ってしまったから。だから、魔法が使えるようになっていることに、まったく気が付かなかった。俺は、一体いつから魔法が使えるようになっていたのだろうか。
普通に考えれば、そんな奇跡が起こる可能性が最も高いのは前世の記憶を思い出した瞬間である。しかし崩落の事故の時点で使えたというのならば、火事場の馬鹿力などと言われるように死に瀕したからだと思うべきだろうか。
それとも、もっと前からか。
わからない。
しかし、喜ばしいことだ。
理由はわからずとも、これで俺は無意味な奴隷生活を続けなくて済むのだから。
――これで、彼らの元へ行ける。
これからの未来を思い描き緩む口角を隠すように口元に手を当てて、視線を床に落としながら思案する。
鉱山から脱出したら、首輪を外せる人間を探しに行こう。
自由の身になったら、もう一度ラーシュさんと出会ったあの海を見に行くんだ。
そうして心満たされたなら会いに行こう。
愛する家族を殺した、彼奴らに。
探し出して、目に物見せてやる――。
胸いっぱいに仄暗い希望が広がる。
奴隷の首輪を着けられこの地に押し込められるまで、俺にはどうしてもやりたいことがあった。奴隷として働き始めた当初も、しばらくの間はその夢が忘れられず何度か脱走を企てたが、魔法が使えない状態ではどの案も実現が難しく。一か八か脱走を試みた者達がレヴァナントになって帰って来るのを何度も見せつけられているうちに、どれほど無謀な挑戦であるか思い知った。
突き付けられた現実と全身を染め上げる復讐心。
迷いに迷った末、『皆に守ってもらったこの命を無駄にするのは嫌だ』と結論付けた俺は報復を諦めて奴隷として過ごす道を選び、今日まで生きてきた。
しかし魔法が使えるならば、話は別だ。
ここから逃げすことなど容易く。
皆の仇を探し出して復讐することだってできる。
――ああ。これほど気分が高揚するのはいつぶりだろうか!
震える指先を握りしめ、叫び出したいほどの衝動を噛み締める。
すると、急に大人しくなった俺の変化を訝しく思ったのだろう。静かに見守っていた青年が、心配そうに声を掛けてきた。
「どうした? まだどこか具合が悪いのか?」
そう言って、真っ先に俺の体調を気にかけてくれる青年に『良いやつだな』と素直に思う。
自分自身に心底失望したことも、残酷な現実に打ちのめされたこともまだないからなのか、それとも目の前を黒一色で塗りつぶされるような深い絶望を味わってもなお、悲しみを乗り越えて立ち上れる強い心の持ち主なのか知らないが、この状況下で他者を案じることができる青年を俺は素直に尊敬する。彼のこの優しさは、いつかかならず誰かの心を照らす光となるだろう。
――俺ではない“誰か”の希望に。
高潔さすら感じる青年の姿に目を細めながら、俺ははやる胸を鎮めるようにフッと息を吐く。我が身を満たす復讐心を捨てさせることができる人間がいるとしたら、なによりも愛していたあの一家だけだ。彼ら以外から与えられる言葉や優しさなど焼け石に水、俺が踏み留まる理由にはなりえない。
とはいえ、青年は俺の事情など知らないわけで。
目の前の彼や現在奴隷として強制労働させられているアネセルの民からしたら、魔封じの首輪を装着しているのに魔法が使えるという状況はまさに奇跡。自身の身にそのような幸運が舞い降りたら、その時は間違いなく一生忘れられない記念すべき日になることだろう。故に普通であれば、魔法が使える存在に彼が“希望”を見出しており、教えてあげたお礼に自分も助けてほしいといった下心が透けて見えていたとしても、その奇跡を喜び勇んで伝えてくれたことを感謝し、事実を教えてくれた青年を命の恩人として崇めたとしてもおかしくはない状況だ。
実際、俺も心から“感謝”はしている。
――そうだ。教えてくれた礼を言わないと。
俺にはなにかえても成すべきことがあるので青年を信望する気はないが、丁重に介抱して、貴重な情報を教えてくれた対価はしっかり払わなければ。精神年齢的には青年より長く生きている大人なのだし、人としての礼節を守ることは大切だからな。
――そこまで人でなしになってしまっては、皆に合わせる顔がない。
そう結論付けた俺は、焦る心を押さえて青年と向かい合うように姿勢を正す。
すると、ゆるく弧を描く深緑の瞳と目が合った。
どうやら彼は、俺の気分が落ち着くのを待っていてくれたらしい。俺の体調を心配して遠慮しているとしても、余裕たっぷりだ。交渉中に邪魔が入らないようわざわざ場を整えるほど俺の力を欲しているくせに、この鷹揚な態度。虚勢を張っている可能性もあるが、気を抜いたら上手いこと手の平で転がされてしまいそうだし、目の前に極上の餌をぶら下げられていようとも急かしてこない心根が、彼の育ちの良さを物語っている気がして嫌になる。
ああ、なんだかすごく嫌な予感がする。
「……少し、思うところがあっただけだ。体調は問題ない」
「そうか! それはよかった。俺が魔法の件を伝えた所為で貴方になにかあったら、どうしようかと思った」
弾むような声で俺へ答えた青年は、あからさまにホッとした顔をしていて。安堵すると同時に、青年の瞳が期待で輝きを増していく。
その姿は魔法が使える俺に頼みたいことがあるのだと物語っており、なんとも言えない気分になるが、仕方ない。このまま会話を続ければ青年からなんらかの“お願い”をされるのは確実だが、魔法が使える事実を教えてくれたばかりか、軽率な俺の行動を止めて助言してくれた恩がある。魔法が使える俺と使えない彼では戦力差は歴然としているので、許容できないお願いであるなら逃げてしまえばいいだろう。
そんな薄汚い思考を悟られないよう笑みを浮かべながら、俺は感謝の言葉を口にする。
「水を飲ませてくれたのと魔法の件、それから軽率な行動をしようとしていた俺を止めてくれたことに関して改めて、礼を言わせてくれ。ありがとう。お蔭で助かった」
「ああ。しかし、もうわかっているだろうが、俺の行動は下心ありきの親切だから、あまり気にしないでくれ」
青年が付けている首輪が正常に作動していることを魔法で“鑑定”しながら感謝を告げれば、思ったとおりの言葉が青年の口から出てきた。
――まぁ、そりゃそうだよな。
彼が俺の魔法目当てであることはこれまでの言動からわかりきっていたことなので、魂胆があると告白されたところで動揺することもなく。視線でこれまで受けた優しさの対価を尋ねれば、彼は少しだけ申し訳なさそうな顔を見せた。しかし次の瞬間には覚悟を決めたように表情を引き締めて、襟元に手を差し込む。そして、
――チャリッ。
高価そうな金属音と共に彼の胸元から引き出されたのは、遠目でも繊細な作りであるとわかる純金の首飾りで。よくぞ、取り上げられることなく隠し持っていられたなと感心していると、青年はペンダントトップ部分が見えるように鎖を持った腕を突き出してきた。
クルクル回り、揺れる黄金色の板。
キラキラと月明かりを反射していた板がゆっくりと動くのをやめ、一級品の職人技で仕上げられた細工が視界に飛び込んでくる。金をベースに銀や宝石で彩られた、値段をつけるなど烏滸がましいほど美しいペンダントトップを飾るのは、アネセルの国章。そしてもう片面には、王家の紋章が刻まれていた。
「俺の名はルシアン。亡き父――先王アルノルドの無念を晴らし、この国をベルンハルトと山の神の手から開放すべく密かに活動してきた。奴隷の身で出来ることは限られていたが、努力の甲斐あって今では多くの協力者が国中におり、準備も大方は整っている。勿論、この“魔封じの首輪”を外す術も確保してある。あとは俺と部下がここから奴らに気取られぬように脱出して、反撃の鍵となる伝説の力を手に入れるだけだ」
父の仇を打つ、と語る熱い声と正面からまっすぐ俺を見据える眼差しの強さに圧倒される。そしてそれ以上に、俺は今しがた聞かされた話に内包された事の重大さに恐れ戦いた。
いやいやいや、待ってくれ。今、青年――じゃなくて、この方はなんと言った⁉
痛いくらい目を見開いて正面に座る青年と王族の証である金の首飾りを交互に凝視しながら、俺は心の中で悲鳴を上げる。
俺の聞き間違いでなければ、彼は今ルシアンと名乗った。そして王族の証たる首飾り。父親が先王陛下ということは、俺の目の前にいるこの青年は、五年前に起こった謀反の際に行方不明となった第二王子のルシアン様で間違いない。噂通り、金髪で瞳は森林を思わす深緑だしな。間違いないだろう。
そんでもって、現在逆襲を計画中で?
ここから脱出するこが出来れば、あと少しで反撃の準備が整うだって?
じわじわと脳に染み込んでくる内容に、背筋にツーと冷たいものが走る。
周囲に悟られることなくここを脱出し、ベルンハルト王と山の神を討ちたいルシアン様と、奇跡的に魔法が使えるようになった俺。そして、今しがた語られた話。
そこから導かれる答えは一つ。
…………う、嘘だろう?
誰か嘘だと言ってくれ。これはもしや――いや、もしかしなくてもルシアン様とその部下が逃げ出す手伝いを頼まれる流れじゃないか。ここを脱出する際に一緒に連れて行ってほしいのだろうとは思っていたが、これでは俺が想定していたものとわけが違う。
しかも反逆の準備が大方整っているということは、だ。俺が快諾しさえすれば、そう遠くない日にこの国の解放を賭けた戦いが起きるということで。自分の逃亡ついでに奴隷仲間を一人、二人解放してやるのとは比べ物にならないほどの大役だ。なにしろこの逃亡劇にはアネセル国民全員の命運がかかっているといっても過言ではないのだから。
暗に「国の命運がかかわっているのだから断るなよ?」と言われている気分である。
いや、実際そう言われているのだろう。
とても軽やかに、俺の退路が絶たれている。
――神よ。俺が一体何をしたというのですか?
あんまりな状況に、手で目を覆って天を仰ぐ。
断りたい。
心の底からお断りしたい。
先ほどの口ぶりから言って、一緒に行けば首輪を外してもらえるようだが、それにしたって、である。道中でルシアン様の身になにかあっても責任取れないし、わざわざベルンハルト王の勢力に目をつけられるような危険を冒したくない。脱走した奴隷など、捕まったら見せしめのごとく残酷な方法で処刑されるに決まっているからな。俺にはやりたいことがあるのだ。皆を殺した連中を探して復讐する前に死にたくなどない。
本当に、勘弁してくれ……。
冷や水を浴びせられた気分だ。これだけ悲惨な人生なのだから恩人の仇討ちくらい快くやらしてくれよと心の中で悪態をつきつつ、目の前の青年改めルシアン様を見やる。
彼はまさしく、アネセルとその民の“希望”だ。
脱出に失敗しました、追っ手に負けて道半ば捕まりました、なんてことになったら一大事。ルシアン様の脱出計画に“失敗”など許されない。なにがなんでも、いかなる犠牲を払ってでも、絶対に成功させなければいけない。
そして俺は、そんな重責を背負ってまでここから彼と共に脱出したいかと言われると否である。控えめに言っても、冗談じゃない、ふざけんな、としか思えない。俺にはラーシュさん一家を死に追いやっておきながら今ものうのうと生きている奴らに目に物見せてやるという命に代えても成すべき大事な用事があるのだ。
だが、しかし。
ここでルシアン様からの協力要請を断るということは、国の解放を妨害するのと同意義である。すなわち未来の俺は、俺の助力なしに反逆を成功させたルシアン様達に非国民な大罪人として裁かれるか、アネセルの民が解放される可能性を潰した罪悪感を胸に生きて行くことになるというわけだ。その上、前者の未来となった場合、下手したらラーシュさん一家にも言われなき汚名を着せることになるかもしれない。それだけはなにがなんでも避けなければならない。
――あの人達の誇りは、俺が守る。
彼らの肉体も、魂も、矜持も、これ以上傷つけることはなんびとたりとも許さない。となると、選択肢は実質一択なわけで。逃れるすべのない運命に頭を抱える。
意図せず魔法が使えるようになっただけなのに、あんまりではなかろうか。奴隷生活から解放される力を得た代償が、命を懸けて国の未来を勝ち取る逆襲劇への強制参加だなんて、系統が違うだけでどちらにしてもハードモード。運命的と言えば運命的だが、こんな悲惨な運命など全力でお断りしたいところである。
もし、今生の人生の台本を手にすることができたなら、俺は間違いなく地面に叩きつけてグリグリ踏みつけたあと火をつけて燃やしている。奪われた国を取り戻さんとする王子様に協力するなんてすごく異世界転生っぽい展開ではあるが、そんなもの俺は一ミクロンたりとも望んでいない。ラーシュさん一家と死別した時点で俺のライフはゼロに近く、今だって発狂するかしないかの瀬戸際なんだよ。精神状態がすでに一杯一杯な人間に、人命や国の命運なんて大事なものの行く末を託すんじゃねぇよ。鬼畜か。
地球の神か今生の神かは知らんが、俺はよっぽど嫌われているらしいな……。
希望が持てるように魔法が使える特典をくれたのかと思いきや、国の命運を賭けた戦場への片道切符だったなんてなんと非情な世界なのだろうか。復讐くらい好きなだけさせてくれてもいいだろうに。
――もし、今生の俺の運命を決めた奴がいるなら、探し出して一発殴ってやる。
ことごとく思い通りにならない今生を思い出しながらそう心に深く刻んだ俺は、顔を覆っていた手を外してゆっくりと頭を元の位置に戻す。
と同時に、ルシアン様と目が合った。
彼は俺がどのような答えを出すか、わかっていたのだろう。深緑の瞳が期待に輝き、穏やかな笑みを浮かべていた口元を緩めて嬉しそうに話し出した。
「手伝ってくれるようだな」
「……ええ」
断ったあとのことを思って渋々頷けば、満足そうに笑みを深め「助かる」などと口にするルシアン様。断らせる気など微塵もなかったくせに、白々しい。
そう思うものの、彼がこの国の正当な王子だと知った今となっては異議を唱えることも、見捨てて一人だけ逃げるわけにもいかず。俺が魔法を使えると気が付いたのがどうしてよりにもよってこの方だったのか、なぜ俺であったのかなど、不平不満を喚き散らしたい気持ちをグッと呑み込んで無言を貫く。
どうしてこうなってしまったのか。
まったくもって不運極まりない今生に、生きていることが嫌になる。
しかし、現実とはかくも無情なもので。
まったくもって納得いっていない俺を他所に物語は着々と進んでいく。
「英断に感謝する。貴方には俺と部下、ひいてはこの国の命運を預けることになるから改めて自己紹介をさせてもらおう。今は亡きアルノルド王の子、ルシアンだ。元は第二王子の身分をいただいており、現在は生き残った忠臣らと共にこの国を取り戻す計画を実行中だ」
そう言って差し出された手に、そろそろと腕を伸ばして己の手を重ねる。
「レイ、と申します」
思わず漏れそうになったため息を呑み込み、俺も名乗る。元王子様の自己紹介を無視するわけにはいかないからな。
「仲間と合流出来たら貴方の首輪も外そう。勿論、報酬も弾むから期待していてくれ」
「……ありがとうございます」
朗らかに笑うルシアン様に脳内で『報酬の言葉の前には「国を取り戻せたら」が付くくせに』と悪態を吐きつつ、形だけは感謝の言葉を述べる。
ああ、今すぐ帰りたい。
帰る場所などすでにないのだが。
心の中でそう自嘲しつつ、握手したままだったルシアン様の手を放すため力を抜く。すると半ば自暴自棄になっている俺の胸中を知ってか知らずか、まるで引き留めるかのように先ほどよりも強く握られて思わず顔を上げる。
そうして再び見据えたルシアン様の顔は、これまでの日々を噛み締めているかのようで。彼の瞳が確かな意思を宿し、森林を思わす深緑がさらに深みを増していく。
「守るべき民である貴方を巻き込み、危険に晒すことになり済まない。だが、この地からの脱出を実行しようとしていたこの時に、貴方と出会えたことを俺は心から感謝している」
言い訳するでも、大義名分を掲げて己の正当性を主張するでもなく。ただ、ただ真摯に告げられた謝罪と感謝の言葉に熱を持った雫が一滴、仄暗い心に落ちた気がした。
…………ずるい人だな。
そう、心の中で独り言ちる。
両手で固く握りしめられた右手が、放されたあともひどく熱く。当たり前のことを言われただけだというのに、まっすぐ俺を見据えるその瞳に心が揺さぶられた。
――これが、この国に残された“希望”なのか。
救いを見つけた感動か、いまさら現れてなにをと思う憤りか。泣き出したい衝動を深く息を吸って吐き出すことでやり過ごす。真っ暗な洞窟の中で差し込む光を見つけたような、そんな気分だった。
こんな想いを抱く日がまた来るなんて、考えもしなかったな……。
今朝までの俺は、無味乾燥の日々の中で心動かすこともなく枯れるように死んでいくのだと思っていた。だというのに復讐の機会に恵まれたばかりか、ルシアン様に見据えられた瞬間、視界が開け放たれた気がした。それに、「俺と出会えて感謝している」だなんて。まるで『生き残ったのが俺でよかった』といわれたようで息苦しくも嬉しい。
「早速だが、作戦会議がてら俺の部下を紹介したいから場所を変えよう。ついてきてくれ」
そう言って立ち上がったルシアン様に促されるまま、俺も腰を上げる。この複雑な胸中を言い現わすことはできない。ただ、彼への協力を『嫌だ』と一言で切り捨てることはもうできそうになかった。
…………まぁ、ここにラーシュさん達がいたら、絶対に助けてやっていただろうしな。
あの一家は、そういう人達だったから。
ここから脱出するついでにちょっとくらい手伝ってあげても問題ないだろう。復讐に赴く前のちょっとした寄り道くらい、あの人達なら笑って許してくれるはずだ。むしろあの世で再会した時に、人助けしたことを褒めてもらえるかもしれない。
わずかに熱を帯びた心をごまかすように、胸中でそう言い連ねて。
俺はルシアン様の後を追うように歩きだした。