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眠らぬ民の国  作者: 深(深木)
4/40

3

※2023.3.18に加筆修正しております。

 取っ手が折れた水差しと口縁が大きく欠けたコップを手に、俺の元へと向かってくる青年。彼は皆を起こさないように足音を抑えつつも、暗闇をものともしないしっかりとした足取りでこちらへ近づいて来ていて。なんとなくその様を目で追っていると、不意に彼が窓から伸びる月光の中へと足を踏み入れた。

 暗がりでほとんど見えていなかった青年の姿形が、爪先から順に足、腰周りと徐々に浮かび上がってはっきりしていく。

 やがて月明かりは青年の頭上まで至り、彼の容貌が露わになる。

 適当に括られた不揃いな金髪に、各パーツが左右対称に置かれた顔。

 整った顔立ちだと認識すると時同じくして、彼の瞳がエメラルドのように煌めいた。


 交わる視線。


 鮮烈な輝きを放つ彼の瞳に、懐かしき海が脳裏に広がる。

 第二の父と慕ったラーシュさんと出会った地であり、

 俺にとってこの世界の始まりである、

 あの、美しい場所。


 押し込めたはずの感情が、溢れ出す。

 胸の内に現れた雄大な水平線と記憶の奥深くから聞こえてくる波音に、このままでは不味いことにことなると直感するも、心を震わすその色から視線を逸らすことができなくて。俺は息を吸うのも忘れて、日に日に朽ちていく思い出の中でいまだ色褪せることなく輝いているあの海と同じエメラルドグリーンに、ただ、魅入る。


「――やっぱり目覚めていたんだな。よかった」


 そう言って安心したように肩の力を抜いた青年の声色は、ラーシュさんとは似ても似つかないアルトボイスだった。だというのに、俺の脳内は嬉しそうに美しき海を讃えるラーシュさんの言葉を再生していて。在りし日の記憶と現が、混ざり合う。


 なにか返事をしなければ――。

 

 安堵の吐息が聞こえる距離まで接近している青年の存在に僅かに残っている理性がそう判断するも、思うように息が出来なくて。俺の喉からは、適当な相槌一つ出てこない。やばい。どうしよう。


 ――どうすればいい?


 現在、俺の頭の中では早急に青年へ対処をしろと告げる理性よりも、感傷に浸ろうとする感情が優勢なようで。ノイズが走るようにザザ、ザザと繰り返し聞こえてくる波音とピクリとも動こうとしない己の身体に、焦りが募る。このままでは心配して様子を見に来てくれただろう青年に不審がられてしまうし、気遣いを無視しているようでなんだか申し訳ない。一刻でも早くどうにかしなければ。

 そうは思うものの、心揺らすエメラルドグリーンから目を逸らすことができず。間近に迫った青年の姿に気持ちばかりが急いて、唇がハクハクと空気を噛む。

 しかし、そんな俺に構うことなく時は刻々と流れ。

懐かしい色に動揺し、慌てふためく俺をよそに、青年が枕元で足を止めてゆっくりと膝を床につける。


 その時だった。

 俺の顔色を見ようと覗き込んだことで青年の顔を照らしていた月光が遮られ、煌めきを失った彼の瞳がエメラルドグリーンから別の色へと変わる。


 森林の息吹を感じさせる、深緑。


 間近で見た青年の瞳は、爽やかなあの海とは似ても似つかぬ濃い緑色で。あのエメラルドグリーンは、月光によって偶然生み出された幻だったのだと理解するのと時同じくして呪縛から解き放たれた俺は、込み上げる郷愁から逃れるように青年から視線を外す。

 そして、詰めていた息をゆっくり吐き出した。


 …………本当、勘弁してくれよ。


 ドッと襲い来る疲労感に脱力しながら、そう切に願う。体を自在に動かせるのなら、両手で顔を覆って盛大に嘆きたいくらいだった。

 偶然の産物とはいえ、こんな山の中であの海と同じ色を見ることになるなんて、思いもよらなかった。それも、前世の記憶やラーシュさんと出会った時のことを夢に見て死ぬほど後悔したすぐあととか、タイミングが最悪すぎるだろ。どんな嫌がらせだ。お蔭で、俺の人生史上で一二を争うくらい動揺してしまったじゃないか。

 お騒がせな奴め、と苛立つ心のままに青年を見やる。

 しかし、何故だか彼は心底嬉しそうに口元を緩めていて。


「手当てしていた時に目立った外傷は見つからなかったのだが、具合はどうだ?」


 嬉々とした様子で俺に身体の調子を尋ねてくるものだから、なんだか苛立ちが霧散してしまった。


 ……まぁ、もともとただの八つ当たりだしな。


 外見年齢は今の俺と同じくらいのようだが、実年齢を思えばかなり年下だ。少しばかり心乱されたからといって怒りをぶつけるのは、大人気なくてみっともない。

 そう思い直して、俺は視線を緩める。

 気持ちを切り替えて青年の姿を改めて観察すると、彼は大変整った顔立ちをしており、身体にはわずかだが筋肉がついているようだった。なんて珍しい。生きるのに精一杯な奴隷生活の中では、痩せ衰えることはあっても肉を蓄えるなんて奇跡に近い。もしかしたら、青年の側には彼の健やかな成長を祈って食糧を分け与えてくれる存在がいたのかもしれない。

 けれども、この場にそれらしき人物の姿はなく。


 今も生きているのかどうかは、微妙なところだな……。


 姿の見えない青年の保護者に想いを馳せる。そして、誰から大切に愛されて育ってきたからこそ、彼はこんな環境下であっても人に優しくできる心を失わずにいられたのだろうなと一人納得した。

 神々によって引き起こされた大災害に巻き込まれ、奴隷に落とされるという苦難を経験してもなお、彼が己を慈しんでくれる存在と離れ離れになることなく共に過ごしてこられたのは奇跡に近く、とてもすごいことだ。その場所が、奴隷として強制労働させられている鉱山であったとしても、彼らには少なからず心温まる時があったに違いない。

 しかし、それが青年にとって幸運だったのかどうかはわからない。

 この世には、愛を知るが故にもたらされる苦しみもあるのだから。


 …………まぁ、どちらにしても俺が口を出すことではないけどな。


 青年の保護者が生きていようが死んでいようが。

 彼の人生が幸せだろうが不幸であろうが。

 今日会ったばかりの俺にはすべて関係ないことである。

 手当だけでなく看病までしてくれようとしている青年に対して、こんな感想しか抱けない俺を人々は薄情だと言うことだろう。別に、構わない。だって、今更だ。俺が冷淡で恩知らずな人間であることは、人に指摘されずとも自分が一番よくわかっている。

 自嘲に満ちた息をハッと吐き出す。

 すると罰でも当たったのか、肺に冷たい空気がヒュッと入り込んで盛大に咳き込んだ。


「! ゴホゴホッ、ゴホッ! グッ――、ゲホゲホッ!」

「大丈夫か⁉ 落ち着いて、ゆっくり息を吸って。無理にしゃべろうとしなくていい!」


 堪えきれない咳と胸の痛みに悶えれば、青年が慌てた様子で俺の上半身を起こして背をさする。碌な返事も返さなかった俺に対して、なんて優しい扱いなのか。


「……悪い。昨日の朝から何も口にしてないのだから、体調を尋ねる前にまず水を飲ませてやるべきだったな」


 青年はそう言いながら水をコップに注ぐと、俺の咳が幾分か収まった頃を見計らってコップを口元まで運んでくれた。しかも、俺の体を若干仰向かせて空いている手で背を支えながら。なんて配慮ある対応だろうか。まさしく、聖人のごとき立ち振る舞いである。

 俺の様子を伺いながら、ゆっくりとコップを傾けて飲ませてくれる青年の行動に感動しつつ久しぶりの水を堪能すれば、ひりついていた喉がスーッと楽になっていった。また、それと同時に、目覚めてからどこか靄がかっていた意識が澄み渡っていく。


 ――美味しい。


 あまり自覚はなかったが、俺は随分喉が渇いていたらしい。水分補給によってもたらされた体の変化に驚きつつ一杯、二杯、とコップを空にしていく。そしてホゥと恍惚とした息を漏らせば、先ほどまであった欝々とした気分まで一緒に吐き出されたのか、胸が少し軽くなった気がした。

 生き返った心地というのは、こういうことを言うのだろう。乾いた身体が満たされていく感覚にそんなことを考えつつ青年を見上げれば、ニコリと人の良さそうな笑みが目に映る。


「もっと飲むか?」

「(フル、フル)」

「そうか」


 朗らかにそう問いかける青年に大丈夫の意味を込めて首を横に振れば、彼はコップを置いて支えていた俺の体をそっと寝かせてくれた。なんて至れり尽くせりなのだろう。ここまで丁重に扱われると、なにか裏があるのでないかと勘繰ってしまうレベルである。

 直感に従って青年の優しさを疑うべきか。

 荒み切った己が心のさもしさを嘆くべきか。

 どちらもあり得そうだなと悩みつつ。とりあえず人としての礼節は守ろうと考えた俺は、青年に感謝の言葉を告げるべく口を開く。

 

「――“ありがとう”」


 久しぶりに声を出した所為かなめらかな発音ではなかったが、俺は確かに礼を言った。

 しかし、何故かあれだけ親切だった青年が俺へ言葉を返すことはなく。彼から返って来た反応と言えば、丸まった深緑色の瞳に凝視されたのち困惑と落胆が滲む表情を浮かべられただけだった。

 これは一体どうしたことか。

 青年の態度の変化に戸惑うも、その疑問はすぐに解決する。


「……珍しい容姿だし、もしかして言葉が通じないのか?」


 青年の口からボソッと漏れた呟きに俺は息を呑む。次いで十数秒前の記憶を辿り、自身が口にした言語の誤りに気が付くと、心の中であらん限りの罵倒を並べ立てた。

 

 ――――前世の記憶、ほっっっんとうに使えねぇ!

 

 気を抜いたら前世で使っていた日本語が出てくるとか、どういうつもりだ。俺を未知の異国の民として、この世界の人間に迫害させたいのか。前世を思い出す前は異世界に来た特典なのか、ラーシュさんと出会った時もそのあともこの世界の公用語を話せていたのに日本での記憶が蘇った途端、使う言語を意識しないと駄目とかほんとふざけんな。なんのためにある仕様だ。これから出会う人間とは、一秒たりとも気を抜いて会話するなってことか? もしくは無口キャラでも演じて孤高に生きて行けと? 理不尽すぎるだろう!


 呪われているのかと思うほどの悪意を感じる……。


 俺が一体何をしたというのか。

 不自由過ぎる第二の人生についてそう問いかけるも、もちろん答えなど返ってこないわけで。もしもどこかで俺をこんな目に遭わせている元凶を見つけたとしたら、地の果てまでも追いかけて復讐してやると心に誓う。

 そうして思いつく限りの報復方法を脳内で並べたてつつ、俺は先ほどの失態を誤魔化すべく、「しかし、俺の問いかけに反応していたし、水も飲んでいたからな……。聞き取りは出来るけど上手く話せないのか?」とブツブツと独り言をこぼしながら思案している青年に対して、改めて感謝の言葉を紡いだ。


「ありがとう、で聞こえているか?」

「――っ! あ、ああ! 聞こえている」


 この世界の言語を意識して話しかければ、俯き思考に耽っていた青年がバッと音が勢いで顔を上げた。良かった。今度はちゃんと通じたらしい。

 記憶にある前世の自分はバイリンガルではなかったので、意識して言語を使い分けるというのは変な感じがするし、学んだ覚えもないのに二カ国語を話せるというのはいささか気味が悪いが、まぁ、今は置いておこう。地獄じみた世界で、言葉が通じないよりは遥かにマシだからな。

 そんなことを考えながら、俺は先ほどの失態をうやむやにするために口を開く。


「悪い。ずっと寝ていた所為か、なんか声が出にくくて……」

「……そうだったのか。よかった。あまり見ない容姿だったから、言葉が通じないのかと思って焦ってしまった」


 適当な言葉を並べれば、青年は少し引っ掛かった表情を見せながらも納得してくれたので、俺はそっと胸を撫で下ろす。

 本音を言えば、こうもあっさり引き下がられるとなにかあるのではと勘繰りたくなるところだが、色々なことがありすぎて疲れてしまったからもういい。青年の一連の行動に裏があったとしても、俺には失って困るものなどなに一つ残っていないからな。なにが起ころうともなんの問題もない。

 そう考えると日本語で話してしまったことを誤魔化す必要もなかったな、と今更ながらに思い至る。前世の記憶がマイナスにしかならない理不尽な状況に対する苛立ちと、この世界には存在しない言語を使ってしまった焦りでまったく気が付かなかったが、彼に異端児とみなされようが、言葉の通じない面倒な相手だと嫌な顔されようが、青年に好かれたいわけでもない俺には関係ないのだから。


 ――とは言え、わざわざ日本語を聞かせて不信感を買う必要もない。


 聞きなれない言語を使うことで神徒だと勘違いされるのは、さすがに困るからな。何を意図してか知らないが、あんな雑な言い訳で誤魔化されてくれようとしている青年に合わせて、俺もこれ以上のボロを出さないよう慎重に言葉を紡ぐとしよう。


「俺の言葉はわかっているってことでいいんだよな?」

「ああ」

「ではまず、ここが何処かはわかっているか?」

「奴隷屋敷」

「その通り。目覚める前になにしていたか覚えているか?」

「ある。出口の寸前で崩落事故にあった」

「重畳。記憶は問題ないな。どこか痛むところはあるか?」

「いや」

「手足とか身体の感覚に違和感は?」

「機能的には問題ない」


 言葉少なに答える俺を不快に思うことなく、最後には笑みすら浮かべて質問を重ねる青年にジワリジワリと違和感が募っていくのが止められない。


 ……なんだか嫌な予感がする。


 俺が今どんな状態で何故そうなったのかすべて知っていると言いたげな口ぶりの青年に、言い知れぬ不安が込み上げる。いっそのこと、耳を塞いでしまいたい。しかし、鉛のように重たい体は腕の筋肉がピクリと反応したくらいで、笑みを深めながら質問を重ねる青年の声を遮るには至らず。彼は確信に満ちた声で、俺に問いかける。


「では、疲れて身体が重い感じか」

「…………ああ。何故だかすごくだるい」

 

 自信たっぷりな青年の表情にイラっとしたので、張本人である俺にもわからない原因不明の倦怠感についてお前は知っているのかという挑発半分、もうどうにでもなれという自暴自棄半分にそう答えれば、「だろうな」と喜色が滲む同意が返ってきた。

 体が鉛になったかのようなこの倦怠感が、なんで彼にとって喜ばしい事柄となり得るのか。さっぱりわからない。青年に主導権を握られているようで、なんだか嫌な展開だ。

 

 ……ものすごく、続きを聞きたくない。

 

 そう思って、逃げるように青年から目を逸らす。

 と、そこで初めて、俺は室内がやけに静まり返っていることに気が付いた。


 嗜虐に酔う役人達の声が、

 苦痛に喘ぐ奴隷達の声が、

 鞭を打つ音が、

 鎖を引きずる音が、

 話すのを止めただけで風に乗って聞こえてくる。


 この部屋は、俺が意識を取り戻した時と同じく静寂に包まれたまま。俺があれほど激しく咳き込み、声を抑えるでもなく青年と会話していたというのに、この部屋の中にいる奴隷達は誰一人起きやしない。

 そう認識すると共に、微かに伝ってくる皆の健やかな寝息が異様なものに思えて、ゾッと怖気が走る。


 ――笑みを浮かべて、俺を見下ろしているこの青年は、なぜ起きている?


 唐突に理解した周囲の異常さと抵抗もままならない自身の状態に、ドクドクドクと心臓が早鐘を打つ。

 彼は、皆に何をした?

 目的はなんだ?

 なんのために彼は俺と会話していたんだ?

 堰き止められていた川が決壊するかのように、怒涛の勢いで様々な憶測が頭の中を駆け巡り、警報音が鳴り響く。


 ここは危険だ。

 一刻も逃げなければ。


 そう思うのに、身体は急く意志に反してピクリ、ピクリと僅かな反応を見せるだけで一向に動き出す気配はなく。絶望が、胸に広がる。

 

 ここで、死ぬのか。

 生き足掻くことすら許されずに。


 自力で身じろぐことさえ困難な状態で、不穏な笑みを浮かべる青年に見下ろされているこの状況に、俺はヒタヒタと忍び寄る“死”の足音を感じ取る。

 そして同時に、死にたくないと強く願ったのだった。

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