六年三組の教室
第一章 地獄のエンマ大王
一
今日、六年三組の教室で大騒ぎがあった。
水曜日の午後のさいしょの授業は体育だから、みんな昼休みから校庭に出て、だれも教室に残らなかった。
体操が終わって、みなが教室にもどって席に着いたら、ぼくの前の席の、小柄なアヤちゃんが、
「私の練り消しゴムがない。筆箱からなくなった」と、立ったり座ったり、騒ぎだした。
おかっぱのアヤちゃんが、二度も机の下をのぞきこんだ。
ぼくは生きた心地がしなかった。
練り消しゴムとは、これ、このとおり。ゴム粘土のように柔らかい、白い消しゴムだ。画のデッサンに使うもので、紙がこすれず傷つきにくい。
アヤちゃんは、こないだから、この練り消しゴムを筆箱に入れていた。
よく消えそうで、ぼくも欲しかった。
でも、実際に使ってみたら、たいしたものではない。ぼくのように筆圧の強い字は、普通の硬い消しゴムの方が、力を入れてよく消せる。
「えっ、どうして、その練り消しゴムを、ぼくが持っているかだって?」
だって、ぼくが、その犯人だ。それは秘密……。
あのとき、国語の授業がはじまろうとするのに、目の前のアヤちゃんが、しくしく泣きだして、ぼくは、まいったと思った。
アヤちゃんが、そんなにこの消しゴムに執着しているとは思わなかった。だって、アヤちゃんは床に落としても気づかなかったし、筆箱をしまうときも、消しゴムがなくて平気だった。
今さら返すわけにもいかず、どうしようもなくて、ぼくは、素知らぬふりをした。
教室内が騒然とした。
みんなが声高にしゃべりだしたのは、犯人はだれだろう? という詮索もあるが、それよりも、黙っていたら自分が疑われそうで不安なのだ。
ぼくも何か言わなければと思ったが、口が固まってしまって、だれにも話しかけられなかった。
アヤちゃんのまうしろの席の、ぼくが一番疑われる。じっさい、ぼくが犯人だから、だれかに何か言われやしないか、心配で身を固くしていた。じっと目をつむっているのもおかしいので、天井を向いたりうつむいたりして、はやく授業が始まらないかと待っていた。
ドアが動いて、シーンとなった。
白いスラックスにオレンジ色のシャツの、大柄な高橋節子先生。
机の上で泣き伏しているアヤちゃんに、おやっ、と足を止めかけたが、そのまま教壇に立った。
「綾乃さん、どうしたの?」
頭を上げたアヤちゃんが、とぎれとぎれに話した。
「午前中は、ありました、算数の時間に、使いました」
「そうすると、なくなったのは、昼休みか、体育の時間ですね」と、色白の先生の細い目がみんなの顔を見わたした。
ぼくは、「ちがう。算数の時間だ」と、胸の中でつぶやきながら、どきどきしていた。
おとなしいアヤちゃんが、こんなに騒ぐとは思わなかった。
こんなことなら、アヤちゃんが騒ぎ出したときに、返せばよかったと悔いたが、もう遅い。
でも、ぼくが犯人だとは判るまい。だいじょうぶ、と思うことにした。
「他に、なくなった物はありませんか?」
アヤちゃんは、あわててランドセルの中を見た。
「ないです」と、アヤちゃん。
みなも、ざわざわと、机の中とランドセルを確認しだした。
ぼくもランドセルをのぞきこんで、内側のポケットのふくらみを、ちらっと見た。
みんな、異常なしって顔で、前を向いた。
すると、高橋先生がゆっくり教室内を見まわし、おだやかな声で言った。
「いたずらした人はだれですか?
綾乃さんの消しゴムを隠した人は、手をあげなさい」
六年から担任になった高橋先生は、最初はやさしい人だと思ったけど、二ヶ月近くたった今は、怒ったら恐い先生だとわかった。もめごとが起きると、はっきりするまで、大きな声で問い質す。先生には、ぼくらと同じ十一才の男の子がいるそうだ。
ぼくは、このとき、勇気をふるって、手をあげればよかったのだ。
でも、できなかった。
情けないぼくは、不安でびくびくしていたくせに、白っぱくれて平気な顔をつくろった。
三十五名のクラスメートのうち、アヤちゃんを除いた三十四名が容疑者だ。 全員同じアリバイがあるから、ぼくが犯人だとはわかりっこない、と思うことにした。
「この中の、だれかでしょうね。
名乗り出る人がいないのなら……、仕方がないですね」と、先生。
ぎくっ! 思わずぼくはランドセルを触っていた。
(持ち物検査だ!)
今のうちに、練り消しゴムを、どこかへ移さなければ、と気持ちがあせったが、隠すところがない。半ズボンのポケットじゃ、もっと悪い。
ランドセルを抱えて、教室から逃げ出したかった。
じっとり汗が吹きだした。
すると、先生は、
「消しゴムを隠した人は、綾乃さんに返しなさい。
もし、いたずらを目撃した人がいたら、私に教えてください」
そう言って、ひとりひとりの顔を眺めた。
ぼくは「助かった」と思った。だが、ここでうつむいたり、目を閉じたりしたら駄目だと思って、教卓の空っぽの花瓶を眺めていた。
「さあ、綾乃さん、あとでくわしく話しを聞きましょう。時間がすぎました。 ここまでにして、国語の勉強をはじめましょう」と、手に持った国語の教科書を掲げた。
ぼくは、フーッと大きな息を吐いたが、冷や汗がとまらなかった。
そんなぼくの様子を、右となりの席のメガネをかけた信ちゃんが、ちらっ、ちらっ、見てるように感じた。
国語の勉強は上の空だった。新しい漢字を三つ習ったが、覚えてない。
国語が終わって、放課。
アヤちゃんが高橋先生に呼ばれ、職員室について行った。
みんなすぐに席を立たない。教室のあちこちで、声をひそめて話をしている。
ふと気づくと、となりの信ちゃんが、ぼくに背を向けて、右横の大ちゃんと、顔を近づけてなにやら話しこんでいた。小柄な信ちゃんと背の高い大ちゃんが、こうやって話し込むのは珍しい。
ぼくは、信ちゃんに「さよなら」を言うタイミングがなくて、座ったままだった。
信ちゃんとは家の方角が90度ちがうから、いっしょに帰るわけではないが、いつも、きちんと「さよなら」と言って別れる。
でも、ほんとうは、自分のことが言われているかも知れないと気になって、ぼくは席を立てなかったのだ。
大ちゃんと信ちゃんのひそひそ話は、聞き取れなかった。
うしろの方から、
「ぼくたちは、一番さきに校庭に出たぜ。関係ないよ」「私たちもよ」と、声があがった。
みんな、まずは、自分が犯人でないことを言い張る。
「俊ちゃんと満っちゃんが、さいごに校庭に出てきたよね」と、前の方の声。
右側の一番前の席で並んでいる俊ちゃんと満っちゃんが聞きとがめて、
「ぼくらじゃない」
「ぼくたちは、体操着に着替えてから、トイレに行ったんだ」と、叫んだ。
「だれが、一番先に、教室に戻ってきたのだろう?」
「だれって、みな、走ってきたじゃないか」
ぼくの名前は出てこない。
当然だ。体育の大好きなぼくは、はやくから校庭に出ていたし、さいごはボールを倉庫に片付けてきたから、疑われっこない。
丸刈りの信ちゃんと、髪の長い面長な大ちゃんとは顔をくっつけるようにして、低い抑えた声で、長いこと話していた。
おせっかい焼きの大ちゃんは、なんにでも口出しするので、ぼくは苦手なときがある。そんな大ちゃんが、珍しく小さな声で話している。
それから、信ちゃんの、「ぼくは知らない」と、興奮した声。
それで、二人の話は終わったようだ。
そして、信ちゃんが姿勢を戻して、ぼくの方を見たので、ぼくは立ち上がって、「さよなら」と、言った。
信ちゃんのメガネをかけた顔が緊張して、なにやら話をしたそうだったが、ぼくは、今は嫌だった。
(だれかに、ランドセルをのぞかれたら困る……)
さっさと教室を出て、駆け出していた。
ランドセルを、カタカタ、言わせて、走った。
五月さいごの日差しが強くて、家に着いたら、びっしょり汗をかいていた。
今日は、ドキドキした。
給食の時間に、ぼくは、だれにも気づかれずに、机の下からその消しゴムを拾ったのだ。
こういうのを猫ばばというのだろう。
あのとき、持ち物検査!、と思った説きは、ランドセルを見られたら、どうしよう? と、生きた心地がしなかった。
もう、あんな気持ちは、ごめんだ。
まるで魔法の消しゴムのように思っていた練り消しゴムだが、実際に使ってみたら、「なあんだ」だった。どうってことはない。消し屑が出ないのが、いいだけだ。
それで、ぼくは、机の引き出しの奥にしまった。
こんなことをしなければよかった、と悔いた。
先生が「消しゴムを隠した人は白状しなさい」と言ったときに手をあげ、「すみませんでした」と、あやまればよかったんだ。
(ぼくには勇気がなかった……)
(でも、どんなに心の強い人でも、あの場で名乗り出るのは、恥ずかしくてできないだろう……)
しかし、もし、ぼくが犯人だとばれたら、恥ずかしいどころではすまない。 勇気がなかったですむ問題でない。ぼくは追い詰められているのだ。
でも、どうしようもない。ぼくは首を振って、消しゴムのことは考えないことにした。
でも、そのことは、忘れることができなかった。
ぼくは、毎日のお手伝いの一つである、仏壇のお花を取り替えようと、タタミの部屋に行った。
ふと、おじいちゃんの写真を見た。おじいちゃんのほほえんだ顔。
おじいちゃんは、去年亡くなった。
(ぼくが泥棒みたいなことをしたと知ったら、おじいちゃんは、恐い顔をして怒った……)
と思うと、哀しくなってきた。
おじいちゃんに叱られたら、ぼくは、なんと言うのだ。
「どうしても、あの練り消しゴムが欲しかった」と言ったら、おじいちゃんは悲しい顔をするだろう。
ぼくは、悔いた。
庭の赤いカーネーションを、仏壇にいけた。そして、手を合わせて、おじいちゃんに、
「悪いことをしました。ごめんなさい」と、あやまった。
二
しかし、その晩、ぼくは怖い夢を見たのだ。
とつぜん、仏壇から、はげ頭のおじいちゃんが出てきて、目をむいてぼくを叱った。
「泥棒する子は、家に置いとけない。出て行け! 地獄へ行って罪をつぐなってこい」
めったに怒らないおじいちゃんだが、怒ると大きな声でどなる。
ぼくは地獄へ行った。
恐い顔をした大きな鬼たちが、パンツ一枚で、無言で動き回っている。二本の角が生えているので、人間じゃないと思う。そして、ゴリラよりも大きな体をしている。
(あんな太い腕で掴まれたら、体がちぎれる……)
ぼくは圧倒され、ぼうっと突っ立っていた。
「ハヤシテツヤ」と、名前を呼ばれたような気がした。
あたりを見回した。
大きな赤鬼が近づいてくる。そして、ぼくのえり首をつまんで、吊り下げた。
「自分で、歩くよ!」と、言おうとしたが、声が出ず、手足をばたばたさせた。
エンマ様の前に連れていかれた。ぼくは恐くて、うつむいて、ひざまづいた。
「顔をあげい」
おそるおそる顔を上げたら、黒い冠をかぶったエンマ様。どす黒い怒った顔だ。
赤い大きな目がギョロリ光って、ぼくは身がすくんでしまった。
「テツヤ。お前は、アヤちゃんの練り消しゴムを盗った罪で地獄へ落とされた」と、ズシンとお腹に響く声。
ぼくは弁解しなければ、と思った。でも、体が固まってしまった。
「まちがいないな?」
「いいえ」と、言ったきり喉が引きつって、「拾ったのです」という、あとの言葉が出なかった。
エンマ様に、にらまれ、ふーっと気が遠くなった。
ふと、正気に戻った。
(しっかりせねばならない!)
エンマ様が黙ったままのようだし、どうなったかと思って、顔を上げた。
まっ黒な顔の血走った眼がギョロリ動き、大きな口から、雷のような声。
「お前はアヤちゃんの消しゴムを盗っておきながら、いいえと、嘘をついた。うそつきは泥棒のはじまりだ。お前を、舌抜きの刑にする」
うなずいた赤鬼が、ぼくの首根っこをつまんで立たせた。
喉がつまってしまって、「盗んだんじゃありません、拾ったんです」と、言えなかった。
青鬼が、大きなペンチのような鉄の道具を持ってきた。
(これで、何を、される?)
と、ぼくはふしぎだった。
でも、青鬼が、
「口を開けい」と言ったので、
(これで、舌を抜かれる!)と、気づいた。
体がガチガチふるえた。
ぼくは、やめてくれ! とその大きなペンチのような道具を指さしていた。
「これは、ヤットコというんだ。さあ、舌を出せ」
と、青鬼の太いひとさし指が、ぼくのあごを押し下げ、口を開かせた。
「舌の根っこから引き抜け」と、エンマ様の声がとどろく。
「もっと大きく口を開けろ」と、青鬼。
そして、赤鬼が両手の太い指で、ぼくの両方のほっぺたをつまんで引っ張った。
その黒光りするヤットコが目の前に迫った。
「こりゃ、むりだ」と、指先でぼくの舌をつまんだ青鬼が、
「だめです。エンマ様。ヤットコが、こいつの口に入りません」
「そうか。
では、いそいで子供用のヤットコを造れ。
こんな子供が泥棒をして、嘘をつくことは、考えていなかった。
たとえ、子供でも、悪いことをしたら許されない」
「ごめんさい。もう悪いことはしません」と、ぼくは大きな声で、エンマ様に詫びた。
ぼくは、いっしょうけんめい釈明した。
「この子は、あの練り消しゴムを拾った、と言ってます」と、赤鬼が言ってくれた。
「拾ったと言っても、アヤちゃんの物だと知っていて、自分のランドセルに隠した。
それは盗ったのと同じだ。猫ばばは、泥棒の始まりだ。泥棒は許されない。
ようし、盗みの刑の、針山の刑にする。連れて行け」
ぼくは、針山の刑がわからなかったので、ぼんやりしていた。
すると青鬼が身を屈め、恐い顔が、ぼくの顔に近づいた。
「針山の刑は、な、針山の上を素足で歩くのだ。毎日毎日、何年も歩き続ける。俺が追い立ててやる」
ぞっとした。
(足の裏に針が刺さって、血を流しながら歩かねばならない。痛くて、ぼくはどうにかなってしまう……)
ぼくは、こんどこそ、だめだと思った。
全身の血が凍りついた。倒れそうだった。
(もし、倒れたら、体に針が刺さって、起き上がれないだろう……)
青鬼が、ぼくの足元を見つめていたが、
「エンマ大王様。この子の足が小さいので、針山の針の間に足が落ち込んでしまって、歩けないでしょう。
それでは、針山で罪人を追い立てる、私の役目が務まりません」
「そうか。それでは、針の間隔が詰まった子供用の針山を用意せい。それができしだい、刑を執行する」
ぼくは大声でお願いした。
「もう、猫ババはしません。練り消しゴムは、アヤちゃんに返します」
エンマ様は、黙って、ぼくの顔を見た。
ぼくは、その大きな目を見つめ、「許してください」と、両手を合わせ、お願いした。
三
目がさめた。朝だ。
びっしょり汗をかいていた。
夢でよかった。
ぼくは、その練り消しゴムを、引き出しから取り出し、ランドセルに入れた。
それから、ぼくは、仏壇の前に座って、手を合わせていた。
おじいちゃんは、お寺参りの旅行に、よくぼくを連れて行ってくれた。
どこか寂しそうな、やさしいお顔の仏さまが多かったが、中には恐い顔をした仏像もあった。
「これはエンマ大王だ。悪いことをすると、地獄に落ちる」と、地獄のエンマ様のお話をしてくれた。
おじいちゃんが子供のころ、その、また、おじいちゃんから、地獄の話しを聞かされたそうだ。
「科学が発達して、あるいは、人々の仏教信仰が薄れて、地獄のことを言わなくなったが、地獄はある。
生きているあいだは、地獄のことを知らなくとも、悪いことをした人は、死んでからその報いを受け、地獄に落ちて苦しむ。そこで後悔しても、遅いのじゃ」
ぼくは、こんな恐い夢を見るのは、もうごめんだ。
地獄のエンマ様のあの恐い顔は、忘れようったって忘れられるものではない。
「この練り消しゴムは、アヤちゃんに返します」と、写真のおじいちゃんに誓って、仏壇を離れた。
ぼくは、学校に、一番はやく行くことにした。
いそいで教室に入ったが、もう、二人も来ていた。
だれもいないうちにアヤちゃんの机に返して、ぼくはまた表に出るつもりだったが、それはできなかった。
ど うやってこの練り消しゴムを返したらいいか、思いつかない。
(ぼくが犯人だと、ばれるのは嫌だ……)
みんなが席についた。
うしろの方から、聞こえてきた。
「あの消しゴムは、だれが盗ったのだろう?」
「どうして、だれにも見つからずに盗めたのだろう?」
「犯人は、知らん振りして、いい度胸をしている」
「きっと、常習犯だ。心が麻痺している」
「盗癖っていうんだ」
「でも、そんな犯人が、このクラスにいると思うと、嫌だな。いつ、持ち物を盗まれるか心配で、しようがない」
ぼくは、身体を固くして聞いていた。
あの練り消しゴムを盗ったのは、体育の時間ではない。昼休みでもない。
午前さいごの授業の、算数が終わるときだった。ぼくの足に何かが当たった感触がして、「なんだろう?」と、下を見ると、アヤちゃんがみんなに見せびらかしていた、白い練り消しゴムじゃないか。
ぼくは、知らん顔をして、足で引き寄せておいて、算数の授業が終わってから、拾い、ランドセルにしまったのだ。
消しゴムが転がってきたとき、ぼくの前の席のアヤちゃんは騒がなかったし、机の下を探しもしなかったから、彼女は失くしても平気だと思った。
ぼくが机の下をのぞきこみながら、足を動かしているのを、ひょっとして、となりの信ちゃんが気づいただろうか?
でも、あのとき、信ちゃんは、夢中で割り算を解いていた。信ちゃんは算数が得意で、集中すると他のことは眼中にない。
(うしろの壮ちゃんや夏ちゃんに、気づかれなかったか?)
(ぼくは、うしろを見なかったから、わからない……)
不安になってきた。
あのとき、みんなが給食を取りに立ち上がったときに、ぼくは机の下に潜りこんで拾ったのだが、うしろの席で見ていた人がいるかもしれない。
(やばい!)
(きのうの放課後に、だれか、高橋先生にチクっただろうか?)
(密告を受けた先生は、どうするだろう?)
胸がドキドキしてくる。
ぼくは、気づかれないように、平気な顔をする。
(やっぱり、この練り消しゴムは、アヤちゃんに返さなければいけない……)
(しかし、どうやって返したらいいのだ……)
困ったことになった。
ぼくは、ドキドキして過ごした。
朝、信ちゃんが、ぼくになにやら話しかけたそうな素振りをしたが、まわりに人が居たからか、信ちゃんは何も話さなかった。
気のせいか、信ちゃんは、一日中元気がなかった。
そして、放課後は、信ちゃんは、すぐに帰って行った。信ちゃんは、呟くような「さいなら」だった。
ぼくが帰ろうとしたら、うしろの席の壮ちゃんのところに大ちゃんが来ていて、小さな声でぼくを呼び止めたようだった。
でも、ぼくは、大ちゃんが苦手だ。何にでも口出しして、偉そうに言うので、嫌いだ。聞こえないふりをして、ぼくは教室を出た。
けっきょく、この日は、教室で、ぼく一人になることがなくて、その練り消しゴムをアヤちゃんの机に返せなかった。
帰り道、この消しゴムをどこかに投げてしまおうかと、チラッと思ったとたん、エンマ様のお顔が浮かんできた。
そんなことをしたら、これから毎日、恐い夢を見るだろうと思った。
でも、その晩も、恐い夢を見た。
四
ぼくは、また、地獄にいた。
エンマ様のまっ黒な顔が、怒ったおじいちゃんの顔だった。
じっとぼくをにらんでいたが、哀しそうな細い目をして言った。
「お前がその練り消しゴムをアヤちゃんに返して、男らしくあやまっていたら、針山の刑を許してやろうと考えていたが、だめだったな。
連れて行け!」
そして、ぼくの背中を押した青鬼の顔が、また、おじいちゃんだった。
青鬼が独り言のように言った。
「盗み心は、早いうちに摘んでしまわないといけない。
盗みをするたびにドキドキするが、それが何回も重なると、心が麻痺してしまう。
盗癖と言って、物を盗むことでスリルを味合う、心の病気になってしまう。
そんな人は、平気で重い犯罪を犯すようになる」
青鬼は、ぼくを赤鬼に渡した。
ぼくのえり首をつまみあげた赤鬼も、おじいちゃんの顔だった。
赤鬼は、ぼくに言い聞かせるように語った。
「集団の中に、だれかわからないが、泥棒がいると思うと、みんな、困る。
盗ったのは、あいつではないか? いや、こいつの方が犯人らしい、と疑って、だれも信用できなくなる。
そして、ひょっとして、自分が疑われているのではないかと心配して身構えてしまうと、みんなと仲良くつきあえなくなる。
お前は、クラスという社会の安定を損なう状況を作った罪がある」
(ぼくは、その罪に気づいて、悔いている。でも、ばれるのが恐くてほっかぶりしようとしている……)
(そんなぼくは許されない!)
針山で追い立てられている、血まみれの姿が浮かんできた。ぼくは気が遠くなりそうだった。
「こら、テツヤ、しっかりしろ」という声に気づいたら、ぼくは赤鬼の太い右腕に抱えられていた。
この赤鬼は、おじいちゃんじゃなかった。
「あのな、エンマ様は、きのうお前がアヤちゃんに、消しゴムを返そうとした気持ちは、わかっておられる。そして、まだ見込みがありそうだから、テツヤの良心を試してみろって、もう一度、機会を与えてくれた」
ぼくは、赤鬼の大きな顔を見つめた。
赤鬼が、静かに言った。
「この次は、お前は処刑されるぞ。
さあ、お前を放免してやる。最後の機会だ。どうすればいいか考えろ」
そう言って、赤鬼は、ぼくの身体を地面に下ろした。
そうやって、しばらく突っ立っていて、ぼくは助かったと気づいた。
そうしたら、ぴくっと、体が跳び上がった。
そこで、目がさめた。
ぼくは飛び起きて、ランドセルを見た。
練り消しゴムは、ある。
ぼくは、仏壇の前に座って手を合わせた。
「ぼくは、あやまります」
もう、こんな恐い夢は見たくない。青鬼の言うように、ハラハラ、ドキドキするのが平気になって、罪を重ねる者になりたくない。
ぼくは、高橋先生に手紙を書いた。すっかり、ぜんぶ書いた。
(消しゴムといっしょに、先生に渡す……)
ぼくはどんな罰も受ける。みんなに、どう思われようとも、どんなに恥ずかしい目にあおうとも、許してくださいと、あやまる。
五
ぼくは、学校へ着くとすぐ、職員室へ行った。
「どうしたの?」という顔をした高橋先生の机の上に、練り消しゴムと手紙を置き、
「ぼくが犯人です。すみませんでした」と、頭をさげた。
先生は、細い目を見開いて、ぼくの顔を見つめた。
ぼくは、緊張したらきちんと話せないと思ったから、手紙に書いた。それに、手紙だったら、書き直せる。
ともかく、ぼくは、ぐずぐずしないで、その練り消しゴムと手紙を先生に渡してしまうことだと考えた。
そうやって腹をくくると、かっこうが悪いとか、恥ずかしいなんて気持ちはふっとんでいた。
先生に叱られて、みんなにあやまって、そのあと、どんな罰も受ける、と覚悟した。
高橋先生が手紙に目を通されているあいだも、他の先生方が、「どうした?」と言う顔をして、こっちを見ている。
ぼくは、エンマ様の前にいるように、身体が震えそうだった。
でも、自分で選択したことだと思うと、気持ちはシャンとしていた。
手紙を読んだ高橋先生は、白い顔に目を細めてほほえまれた。
「そうなの。君は勇気をふるって、名乗り出たのね。
授業が始まるから、昼休みに話しましょう」と、ぼくの肩に手をおいた。
暖かい手だった。
一言も叱られなかったので、拍子抜けした気持ちだった。でも、
(修羅場は、昼休みに持ち越された……)と、気をひきしめた。
ぼくはどんな目に遭っても、耐えるつもりで、じっと、席に着いていた。
となりの信ちゃんは、今日も元気がない。いつもなら、メガネを光らせながら、いろいろ話しかけてくるが、きょうはぼくの方を見向きもしない。
ぼくも、いつもと違って、神妙にしている。
(今にわかるよ! 悪いことをした、ぼくのことが……)と、腹の中でつぶやきながら、ぼくは信ちゃんの小さな横顔をちらっと見た。
事実がわかったら、信ちゃんに愛想をつかされるだろうと思うと、さびしかった。
アヤちゃんの機嫌も元にもどっているし、クラスの連中も、練り消しゴムのことは忘れたような顔をしている。
でも、今日は大騒ぎになるんだ。
さて、昼休み、高橋先生と、だれも来ない準備室で向き合った。
今日は青いシャツの、大柄な先生は、大きくうなずいた。
「君は、よく告白したわね。えらい」
叱られるはずのぼくが、ほめられた。
変な気分だった。
ひどい目にはあわないという気持ちになって、ふーっと身体の緊張が抜ける感じだった。
「先生は、過ちを認めた人に、あれこれ言いません。反省してくれれば、うれしいです」と、笑顔を見せられた。
やさしい高橋先生は味方だと思った。
「さて、どうしましょう。
君は、どんな罰も受けると書きましたが、その罰は、あやまって、その恥ずかしい気持に耐えることだと私は思います。
君は、まず、担任の私に告白しました。次に、綾乃さんに、どのようにあやまりますか?」
ぼくはちゅうちょなく答えた。
「ぼくは、みんなの前で、アヤちゃんに、ごめんなさい、とあやまります」
「よし、そうしましょう。早いほうがいいわ。午後一番で、そうしましょう」
教室にぼくが戻ると、わざと入れ替わるように、となりの信ちゃんが席を立って廊下に出て行った。青ざめて、うつむいていた、信ちゃんのようすが変だった。
ぼくのそばに、黄色のポロシャツを着た大ちゃんが来た。大ちゃんは六年生になって背が伸びたが、今日はとても大きく見える。
「テッちゃん、先生に告げ口したのか?」と、とがったあごが動いた。
「え?」
大ちゃんの長い顔が、座っているぼくを威圧するように迫る。
「信ちゃんのことで、何か知っているだろう?」
(なんのことだ?)
すぐに、ぼくは気づいた。
(えっ? 信ちゃんが疑われている。そんな、ばかな……)
ろうばいしたぼくに、大ちゃんがたたみかけるように言った。
「信ちゃんは、前に練り消しゴムが欲しいって言ってただろう。そして、体育の時間が終わってみんなが席に着いたとき、信ちゃんは机の上にランドセルを置いて何かしまっていた。
気づかなかったか?」
ぼくは立ち上がって、大声を張りあげていた。
「ちがうよ。ぼくは告げ口してないし、信ちゃんは犯人じゃないよ」
みんなが、振り返った。
大ちゃんは、びっくりして、目を丸くしていた。面長の顔がなにやら言いたそうだったので、ぼくは首を振って拒否した。
(よけいなことは、言わないよ!)
ぼくが取り合わないので、大ちゃんは首をかしげて、振り向いて壮ちゃんの陽に焼けた顔を見た。
(バトンタッチしたかったようだ……)
壮ちゃんの切れ長の目が悲しそうだった。壮ちゃんは、ぼくに何も言わなかった。
それで、ばつが悪そうに肩をすくめた大ちゃんは、離れていった。
状況が飲みこめたぼくは、あわてた。
(信ちゃんに迷惑がかかっている……)
信ちゃんは、ぼくが犯人だと知っていて、黙っていたのだ。そのような信ちゃんの口ごもった様子を誤解した大ちゃんは、信ちゃんが犯行がばれて、動揺していると考えたのだ。
(きっと、そうだ……)
ぼくは、信ちゃんに謝りたかったが、信ちゃんは授業が始るぎりぎりまで、戻ってこなかった。
ぼくは、信ちゃんの小さな横顔に、あやまった。
(ごめんね……)
そして、ぼくは身を引き締めた。
(これからが本番だ!)
六
金曜日の午後一は、国語である。
ドアが開いた。
ぼくの体は震えそうだった。
教壇に立って、みんなの顔を見回した高橋先生。
落ち着いた声で話し出した。
「おととい、綾乃さんの練り消しゴムがなくなりましたが、それを拾った人がいます。
その人が、隠していてすみませんでした、と、私のところに、言いにきました。
ばれてないのに、自分から、悪いことをしましたと名乗り出るのは、とても勇気のいることです」
みんなが、ざわめいた。
ぼくの体が、がくがくしだした。ぼくは息を止め、気持ちを静めた。
「さあ、林哲也君!」
ぼくは勢いよく、立ち上がった。
「エッ!」と、大ちゃんの大きな声。
「オッ?」と、あちこちで声があがった。
ちらっと、となりを見たら、信ちゃんが、めがねを外した、まん丸い目でぼくを見上げていた。
ぼくは震えなかった。こうなりゃ、覚悟はできている。
ぼくは、大きな声で、手紙に書いたことを話した。
「おとといの算数の時間、ぼくの足元にアヤちゃんの練り消しゴムが転がってきました。ぼくは、前から、その練り消しゴムが欲しかったので、拾ってランドセルに入れました。
すみませんでした。どんな罰も受けます。もう、このようなことは、しません。
アヤちゃん、許してください」
と、目の前のアヤちゃんの背中にあやまった。
シーンとした。
高橋先生が、アヤちゃんの側に近寄った。
「はい、消しゴム。
綾乃さん、林君を許してあげなさい」
おかっぱのアヤちゃんのうしろ姿が、うなずいた。
先生が教壇に戻ると、アヤちゃんが振り返って、パッチリした目で、大きくうなずいてくれた。
ぼくはうれしかった。
どう言っていいか判らなかったので、ぼくは立ったまま、アヤちゃんに頭を下げた。
高橋先生が、ゆっくり話した。
「人は、出来心というか、魔が刺したというか、いっしゅん、弱い心になって、悪いことをすることがあります。
いや、その可能性、危険性があると言っておきます。
もし、そういうことをしてしまったなら、そのことに気づいたときに、勇気をふるって、謝り、償おうとする気持ちが、大切です。
林君は立派でした。
林君は、口ではきちんと言えないかも知れないと考え、手紙に書いて私に見せてくれました」
先生は、教室の一人一人の顔を確かめるように見渡した。そして、
「これで、一件落着とします」
そう言って、先生は、うなずきながら右手で合図して、ぼくを座らせた。
ぼくは、身体の緊張が解けていくのがわかった。
(終わった……)
これでよかった。
恥ずかしくて、顔を上げられなかった。
でも、やったぜ! と、ぼくの気持はたかぶって、胸がドキドキ音を立てている。
おじいちゃんのほほえんだ顔が浮かんできた。
ぼくは、そのあと、だれとも口をきかなかった。
信ちゃんと話したかったが、信ちゃんの方を向くのは止めた。
(だれも、泥棒の相手はしてくれない……)
ぼくは、覚悟している。
この日も、一人で走って帰った。
すぐ仏壇に手を合わせ、報告した。
「おじいちゃん、ぼくは勇気を出してあやまりました。許してもらいました」
そうしたら、気持が落ち着いてきた。
でも、ぼくは、さびしかった。
(これからは、一人ぽっちだ……)
あのとき、ぼくが立ち上がったときの、びっくりした信ちゃんの顔が浮かんできた。
(信ちゃんは、犯人と疑われて腹が立っただろう。ぼくに愛想をつかしたろう……)
そう思ったとき、ぼくは、迷惑をかけた信ちゃんに、あやまらなければならないと気づいた。
(自分のことしか考えてないぼくは、身勝手だ……)
ぼくは、すぐにでも信ちゃんにあやまりたかった。
(信ちゃんがぼくのことをどう思おうとも、ぼくは濡れ衣を着せたことを、あやまらなければならない!)
今のぼくの気持ちは、前のように信ちゃんと仲良くなりたいと願うことよりも、自分の失敗を償うことでいっぱいだった。
次の土曜と日曜、ぼくは、はやく学校に行きたいと思ってすごした。
七
月曜日、信ちゃんと話がしたくて、早めに学校に行ったが、信ちゃんは遅刻ギリギリで来たので、話せなかった。
朝の会で、高橋先生が、緊張した顔で切り出した。
「私は、どうしても君たちに話しておきたいことがあります」
シーンとした。
「どうして、泥棒をしたらいけないか、考えたことがありますか?」
だれも答えない。
(泥棒は悪いことに決まっている……)と、ぼくは腹の中でつぶやく。
先生の白い顔がしゃべりだした。
「泥棒をされたら、まじめに暮らしている人が困ります。それで、法律で、人の物を盗ること、人をだますこと、人を傷つけることを禁じてます。そして、人に迷惑をかけるような、悪いことをした人を罰することに決めています」
先生の白い顔が、静かにみんなの顔を見まわす。
「そして、君たち未成年者は、法律の処罰は軽くされています。どうしてでしょうか?」
だれも答えない。
「それは、まだ世間のことを知らない君たちだから、悪いことだという判断ができずに、罪を犯してしまうことがあるからです。でも、それに甘えたらいけません
君たちは、悪かったと気づいたら、反省して、改めなければなりません」
と言った先生は、ぼくの顔を見つめたような気がする。
(それで、先生は、ぼくのことを叱からなかった……)と、判った。
先生の白い顔が赤くなっていた。
「先生は、君たちに言いたいことがあります。
例えば、練り消しゴムがとても欲しかったとします。
百五十円だそうですから、お小遣いをためて買えるでしょう。どこで売っているかわからなかったら、文房具店で聞けば画材店で売っていると教えてくれるでしょう。
どうしても欲しかったら、そのぐらいの努力をすべきです」
ぼくは、その言葉がズシンと、こたえた。
あれだけ欲しかったのだから、アヤちゃんに、どこで買ったか聞けばよかったのだ。
「もっと高価なもので、欲しいものがあるでしょう。毎月のお小遣いでは手が届きません。
それなら、お小遣いを貯めなさい。あるいは、大きくなって自分でお金を稼げるまで、がまんしなさい。
どうしても欲しいからと言って、盗んで自分の物にしてしまうのは、許されないことですし、そんなことで自分の欲望を満たしてはいけません」
一息ついた先生は、
「今、私はお金で買える物を盗んではいけないと話しました」と、みんなを見渡した。
「でも、君たちが欲しい物の中には、お金で買えないものがあるはずです。
どんなものがありますか?」
みんなは、顔を見合わせた。
すると、大ちゃんが手をあげた。
「はい、大悟君。お金で買えない、欲しい物、君なら、何ですか?」
ノッポの大ちゃんが立ち上がった。
「えーっと、それは、友情、友だちです。そして、ぼくは、勉強ができるようになることです」と、大ちゃんは、二つも言って、座った。
ぼくは、よく、そんなぐあいに言えると、大ちゃんに感心した。
そして、思った。
(大ちゃんは仲のよい友だちがいない。だから、よけい友情と言うのだろう……)
「そう、君たちなら、それは、友情、友だちでしょうね。
だれかと仲良しになりたかったら、誠実につきあうことです。どんなことがあっても人を裏切ってはいけません。そして困っている人を、親身になって助けてあげるやさしさがなかったら、ほんとうの友だちはできません。
友だちはお金では買えません。誠実に付き合って、信頼が生まれ、友情となります。
また、君たちなら、それは勉強ができることでしょうね。
勉強は、こつこつ自分で努力しなかったらできません。
カンニングして試験の点数を上げても、実力はつきません。
『学問に王道なし』と言って、なんでも思いのままに出来る王様でも、勉強だけは別です。自分がやる気になって、努力しなければ、勉強は出来ません」
そう言って、自分で大きくうなずいた先生が続けた。
「だれでもお金持になりたいでしょう。
正々堂々、お金を儲けたいでしょう。でも、一生けん命働いて、欲しい物をがまんして、こつこつお金を貯めて、それを元手にして、上手に運用して増やしていくとか、あるいは事業を起こして儲けるとかしないと、お金持にはなれません」
先生は、みんなの顔を見まわした。
「どんなことをやるにしても、また、どんな人でも、辛抱しなければならない時期があります。
なにごとも、自分で努力しなければなりません。忍耐して、自分でつかむのです。
『忍の一字』と言って、物事をなすには、がまんにがまんを重ねて、努力して、いつかその努力が花開き、実を結ぶものです。
勉強もそうですし、スポーツでも、なにごともそうです。
そして、大人になれば、がまんしなければならないことがたくさんあります。
少年、少女時代に忍耐心を養うことは、とても大切なことなのです。
がまんしないで、安易に人の物を盗んで欲望を満たそうとする人は、本当の幸せになれません。
がまんすることを学ばねばなりません。
がまんできるということは、これから長い人生を送る君たちにとって、とても大切な能力なのです。
みんなさん、このことを考えてください」
長い演説だった。
ぼくは、「忍の一字」が気に入った。
八
その日の昼休み、ぼくは信ちゃんを誘い出した。
「話しがある。校庭へ行こう」
信ちゃんは何も言わず、ついてきた。
立ち止まったぼくは、小柄な信ちゃんに向かって頭を下げた。
「ぼくのことで迷惑をかけた。ごめん」
信ちゃんは、ぼくの顔を見つめながら、
「うん、いいよ」と、言ってくれた。
ぼくは、ほっとした。やっぱり信ちゃんだと、頼もしく思った。
そして、聞いてみた。
「信ちゃんは、ぼくが犯人だって知ってたね」
信ちゃんの小さな口がとがって、しゃべりだした。
「いや、確証はなかったけど、哲ちゃんの態度が落ち着かないし、そして算数が終わって机の下から何かを拾ったようなので、ひょっとしたらと思っていた。
でも、哲ちゃんは、男らしく白状して立派だった」と言って、目でうなずいた。
「ありがとう。
ぼくはすぐにあの練り消しゴムを返せばよかったが、勇気がなくて、信ちゃんにも迷惑をかけた。済まなかった」
信ちゃんは、ほほえんだ。
それで、ぼくは思い切って聞いた。
「信ちゃんはさ、大ちゃんたちに、犯人だと疑われたんだろう?」
丸い小さな顔がうなずいた。
「さいしょ、あいつらは、哲ちゃんがあやしいと言ったので、ぼくが否定した。
そうしたら、こんどは、ぼくの態度がソワソワしだしたので犯人じゃないかと、壮ちゃんが言い出したようだ。
大ちゃんが、もし、そうなら白状せいって、ぼくに詰め寄った。
金曜日の昼に、哲ちゃんが先生のところに行っただろう。あのとき、君がぼくのことをチクリに行ったと、あいつらは思ったのだ」
「そうだったか。ごめんね。ぼくのせいで信ちゃんを苦しめた」と、ぼくは、もう一度あやまった。
(信ちゃんは、ぼくのことを庇ってくれた……)と、うれしかった。
(信ちゃんは、大ちゃんに、ぼくのことを言えば、疑われずにすんだのに……)
大きな借りができた、と思った。
「いいよ。哲ちゃんが告白してくれたから、みんな、解決した」
と、信ちゃんは言ってくれた。
ぼくは信ちゃんは大人物だと思った。
それで、気になっていることをたずねた。
「あのあと、大ちゃんと壮ちゃんは、何か言ってきた?」
信ちゃんは、さびしそうに首を振った。
「いや、いいさ。こんなことはがまんできるさ。
こうやって、哲ちゃんがあやまってくれて、ぼくはうれしいよ」
それで、ぼくは、大ちゃんも壮ちゃんも、信ちゃんにあやまってない、と知った。
「だれだって、あやまり損ねたり、あやまちに気づかなかったりするさ。
そんなことは気にしない。うじうじ考えるだけ、損だ。
そんな時間があったら、ぼくは算数の文章問題を解いた方がいい」と、メガネが光った。
信ちゃんは凄い。
信ちゃんと二人で教室に入って、席に着いた。
壮ちゃんと大ちゃんが、
「オッ」という顔で、ぼくらを眺めた。
ぼくは信ちゃんに許してもらって、うれしかったけど、他の子たちには、緊張していて、とてもじゃないが、気安く自分から話しかけられない。
身構えて、席について、小さくなっていた。
昼休みの終わりに、アヤちゃんが振り向いた。パッチリした目でぼくを見て、
「この消しゴム、よかったら半分あげる」と言って、二つにちぎって片方をくれた。
うれしかった。
「ありがとう」
ぼくは、アヤちゃんにも、許してもらったと思った。
ぼくは、その消しゴムをまた半分にして、
「あげる」と、信ちゃんに渡した。
「ありがとう」と、信ちゃんは目を輝かせて、ノートに書いた字を消し始めた。
高橋先生が来られたので、話はできなかった。
信ちゃんの、上目づかいに、ぼくを見た顔は、
「そんなによく消える消しゴムではないね」と、語っていたので、ぼくは、
「そうだね」と、うなずいた。
国語が終わった。
すると、ぼくのうしろの壮ちゃんが、
「ぼくにも貸して、消しゴム」と、手を伸ばしてきた。
それでぼくは、
「あげる」と、残りの分を壮ちゃんにあげた。
「ぼくにくれるの?」と言って、壮ちゃんは陽に焼けた顔の、大きな目で、ニャッと笑った。
それからのぼくは、気持ちが楽になった。
夏ちゃんと廊下ですれ違ったとき、顔が合った。
夏っちゃんもぼくもかけっこが速いので、リレーの選手に選ばれて、なかよしだ。でも、今日は、彼女になんか言われそうで、ぼくは複雑な気持ちだった。
夏ちゃんは何も言わなかったけど、あの顔は、ぼくを非難した、馬鹿にした顔ではなかった。
その顔は、
「大変なことをやってしまったんだね。でも、きちんとあやまったのね」と、ぼくを見つめたまなざしが、語ってくれたように思えた。ぼくは、軽く会釈した。
信ちゃんが前のようにつきあってくれるのが、うれしかった。
信ちゃんは、人の悪口は言わないし、人のことをばかにしない、信頼できる友人だ。そして、努力家だから、ぼくは尊敬している。
信ちゃんには四年生と二年生の弟がいて、仲がいい。同じような頭をしているので、すぐ兄弟だと分かる。お母さんに、三人いっしょに、バリカンで散髪してもらうそうだ。
ぼくは、信ちゃんのとなりの席でよかった。
ぼくは二桁の割り算で、よく計算違いをする。信ちゃんが、
「時間がかかってもいいから、計算は間違えないことだ。
答が合っているか、不安だったら、検算すればいい。
集中するくせがつくと、すらすらやれるようになる」
信ちゃんは、割り算の検算の方法を教えてくれた。
答と割る数を掛ければ、元の割られる数になるのだ。
ぼくは、「忍の一字」という言葉が気に入っている。
今、ぼくは宿題をやっつけている。割り算を一つ解くたびに、「忍の一字」とつぶやきながら、掛け算でチェックする。
九
練り消しゴムの事件が結着して、一週間たった。
ぼくはもっとひどく落ち込むかと思っていたが、平気な顔をして学校へ行っている。
でも、自分から他の人に話しかけることは、よっぽどのことでない限り、しなかった。
そして、どんな悪口を言われても、馬鹿にされても、しかたがない甘んじて受けるという覚悟は変わらない。
迷惑をかけたアヤちゃんと信ちゃんは、ぼくを許してくれた。
壮ちゃんとは仲良くやっている。あのとき、うしろの席から、「ぼくにも消しゴムを貸して」と言ってから、わだかまりは消えている。
壮ちゃんはどちらかといえば、のんびり屋で、失敗して、みんなにからかわれることがある。こないだも壮ちゃんが宿題を忘れて、それがみんなに知れて、気の毒だと思った。しかし、壮ちゃんはまじめな人だ。それでいて、根はひょうきん者だと思う。
あのあと、壮ちゃんと二人で、学校から途中まで、いっしょに帰ったことがあった。
「あの練り消しゴムってのは、消えないな」と、壮ちゃんが言った。
「あれは画用紙を傷つけないように、そうっと消すもので、男の子には合わないよ」
「そうだね」
それでぼくは、思い切って、壮ちゃんにたずねることができた。
「壮ちゃんは、あのとき、さいしょはぼくのことを犯人だと疑って、その次に、信ちゃんを疑っただろう。
いや、ぼくは、信ちゃんのことを気にしているんだ」
壮ちゃんの切れ長の目が、ぼくの顔を見つめた。そして、
「うん。哲ちゃんが、あのとき、机の下をのぞきこんでいたので、ぼくは、おやっ、どうしたんだろう? と思った。
でも、まさか哲ちゃんが犯人だとは思わなかった。でも、大ちゃんがあれこれ言うので、そのことを話したら、大ちゃんは、信ちゃんに確かめようとした。
そうしたら、信ちゃんは、哲ちゃんのそんなことは知らないって言った。しかし、そのとき、信ちゃんがずいぶん動揺したので、ぼくたちは変だなと話したのさ。
そしたら、前に、信ちゃんが練り消しゴムが欲しいと言っていた、と言う子がいて、さては、と思ったのさ。
でも、信ちゃんは、そんな人ではない。疑って、ぼくは悪いことをした」と、うつむいた。
それで、ぼくは気になっていることをたずねた。
「壮ちゃんは、そのことを、信ちゃんにあやまったかい?」
「いいや」と、寂しそうな顔。
「思い切って、あやまれよ。
信ちゃんはそんなことは気にしない人だといっても、人間だからさ、感情の動物だからさ、信ちゃんだって傷ついているよ。
そこらへんのけじめは、きちんとつけるべきだよ。そして、すっきりするんさ。それは、壮ちゃん、自分のためだよ。
こんなことを、一番悪いことをしたぼくが言う資格はないのだが、ごめんな」
「うん」と、壮ちゃんは返事した。
分かれ道に来たので、「さよなら」と、別れた。
何日かして、壮ちゃんと信ちゃんがにこやかな顔で談笑していたので、壮ちゃんはあやまった、とぼくは察した。
ぼくは、あの時、一番騒いだ大ちゃんとは、まだ、まともに口をきいてない。ぼくは、前から、自分勝手な大ちゃんが嫌いだった。
大ちゃんは、クラスで孤立していた。なにかといえば、格好をつけたことを言うので煙ったがられる。
今度のことで、ぼくは大ちゃんに迷惑をかけたわけじゃないから、特に頭を下げる理由はない。大ちゃんが勝手に騒いだことだ。
大ちゃんだって、泥棒をしたぼくのことを嫌っているだろうと思うと、話しかけられなかった。
大ちゃんの机の上に白い練り消しゴムを見かけたときも、大ちゃんも欲しくて買ってきたんだと察したが、ぼくは話しかけなかった。
壮ちゃんは大ちゃんと家が近いので、前は、いっしょに帰っていた。しかし、六年生になってからの壮ちゃんは、先に帰ってしまう。
「大ちゃんは、なんでも自分の思うようにしようとするから、いっしょにいると疲れる」と、壮ちゃんがこぼしたことがあった。
信ちゃんも、大ちゃんが苦手で、席は通路を挟んで右となりで、並んでいるが、ほとんど話しかけない。たがいに意識して無視しているようだと、ぼくは観察した。
(大ちゃんは、信ちゃんにぬれ衣を着せたことをあやまってない……)
(仲直りをするきっかけがないのだ……)
ぼくは、大ちゃんも、信ちゃんにあやまっとけば気持ちが楽になるだろう、と思った。
(なんか、きっかけがあればいいのに……)
昼休み、ぼくと信ちゃんがうしろを向いて、壮ちゃんと三人で談笑していた。
ぼくの家の近くの青井川で、近所の高校生のお兄さんがウナギを獲ってきたことを話したら、信ちゃんと壮ちゃんがおもしろがった。
「今度、ウナギをとりにいこう」と、信ちゃんが言い出した。そして、壮ちゃんも、
「行こう」だった。
でも、どうやってウナギをとるのか、だれも、知らない。
(かんたんに、約束できることではない……)
ウナギのとり方を教えてもらわなければならない。道具も要る。
だから、ぼくは、ちゅうちょしていた。
そうしたら、いつの間にか大ちゃんが、ぼくと壮ちゃんの横にいて、
「ぼくもいく」と、割りこんできた。
三人は顔を見合わせた。
(大ちゃんが入ったら、おもしろくない……)
(きっと、自分勝手なことを言い出すに決まっている……)と、ぼくは白けた。
他の二人も同じ気持だったのだろう。だれも、何も言わなかった。
それに、ウナギのとり方を知らないぼくは、約束するのにためらっている。それで、ぼくは黙っていた。
そのうち、信ちゃんが前を向いた。それでぼくも前を向いた。意地悪だと思ったが、無理して大ちゃんと話すことはないと割り切った。
気まずい時間だった。
ベルが鳴って、みんなが席についた。
第二章 登校拒否
一
次の朝、大ちゃんが教室の隅で、クラスで乱暴者の恭二郎と、いじわるな栄太郎の二人に、なにやら文句をつけられていた。
栄太郎に足を蹴られた大ちゃんが、「よせ」と叫んだ。
みなが見ているから、二人はそれ以上の乱暴はしなかった。
そのうち、授業のベルが鳴った。
栄太郎より大ちゃんの方が体が大きいから、大ちゃんは怒ればいいのに、何もしない。もう一人の、乱暴な恭二郎が恐いからかも知れない。
栄太郎も恭二郎も乱暴なことをする。うしろから急に背中をどづいたり、横から足を蹴ったりする。二人は、恭二郎の中学二年の兄たちといつもいっしょにいるから、やることが荒っぽい。
その日、昼休みが終わるときだった。
大ちゃんが、「あれっ?」と言って、うろたえだした。
大ちゃんのイギリスのコインを、だれかが休み時間に盗ったらしい。大ちゃんが、さんざん見せびらかすから、いじわるされた。
中腰になった大ちゃんが、
「コインがない。だれか知らないか」と、震えるような声で、まわりを見回した。
「だれかぼくのコインを知らないか? この袋に入れていた」と、布製の手提げ袋をかざした。
だれも返事しない。
すぐうしろで、夏ちゃんが言った。
「コインなんか、学校に持ってきたらいけないわ」
だれだってそう思っている。でも、大事なものを失ってがっくりきた者に、彼女のように冷たく言い放たない。
夏ちゃんも、自慢話ばかりする大ちゃんのことを、よく思ってないようだ。
しかし、ぼくは、
(なんてったって、盗った奴が悪い……)と、こないだの自分のことを考えていた。
(盗んだやつは、よっぽど欲しかったんだ……)
それっきり、大ちゃんは座り込んだ。がっくりきたようで、机に目を落としていた。
前に、練り消しゴムの件ではアヤちゃんが泣きだして教室中が大騒ぎだったけど、大ちゃんは、そんなものを学校に持ってきた自分が悪いと思ったのか、黙ったままだった。
だれが犯人かわからないが、ぼくも信ちゃんも壮ちゃんも、大ちゃんをかまわないでいた。
その直後、午後一の算数の授業が始まる前に、大ちゃんが高橋先生に叱られた。
「大吾君、下級生をいじめてはいけません」
高橋先生は、きのう、大ちゃんが下級生をなぐっていたことを、となりのクラスの中村先生に注意されたらしい。
みんなの前で叱られて、大ちゃんは、くやしそうに唇をかんでいた。身体がブルブル震えていた。
しかし、あとで、壮ちゃんがつぶやいた。
「あのとき、ぼくは、うしろから見ていたが、大ちゃんは悪くない」
その算数の授業中、大ちゃんが、左うしろの席の夏ちゃんがおしゃべりしてたので、振り向いて、「うるさいっ」と注意した。
大ちゃんはいらいらしていて、思わずどなったのだろう。
ぼくが振り向くと、長い髪を揺らした夏ちゃんは、恐い目をして、右前の席の大ちゃんの背中をにらんでいた。
ぼくは、思った。
(大ちゃんは、夏ちゃんに借りがあるのに、あんなことを言ってはいけない……)
夏ちゃんとぼくだけが知っている、大ちゃんの秘密があった。
そして、夏ちゃんは負けず嫌いだ。このままじゃすまないだろう。
夏ちゃんは女子で走るのが一番速い。男子ではぼくだ。四年生のとき、彼女はぼくに負けると悔しがった。男の方が速いのはあたりまえだ。夏ちゃんは意地っ張りだ。
やはり、夏ちゃんは根に持った。その休み時間に、女の子二人と集まって、聞こえよがしに話していた。
「ねえ、知ってる? 二年生のとき、教室でお漏らしをした人」
「えっ。だれ?」
夏ちゃんが、二人に耳打ちしたようだ。
「二年生にもなって、おもらししたの。へーえ」と、その子たちは、チラチラ、大ちゃんを眺めた。
悪意のこもった、わざとらしい会話だった。ぼくは嫌だった。
大ちゃんは、硬くなってうつむいていた。
二年生のあのとき、ぼくと夏ちゃんは並んで一番うしろの席で、大ちゃんのすぐうしろだった。
授業が終わってみんなが帰ったあと、大ちゃんがいつまでも席を立たなかったので、どうしたのだ? と思った。そして、そわそわしだしたので、気づいた。そして、夏ちゃんの合図で、ぼくたちはゾウキンとバケツを持ってきて、濡れた床を拭いたのだった。
彼女はひどい仕返しをした。夏ちゃんとぼくしか知らないことを、ばらしたのだ。
いつもにこにこしている夏ちゃんの、冷酷な一面をぼくは知った。
ぼくは家に帰ってからも、夏ちゃんのひどい仕打ちが、心の中でくすぶっていた。
仏壇に小さなピンクのバラを供えた。
おじいちゃんの顔が浮かんできて、前に言われたことを思い出した。
「友だちの悪口は、言ってはいけないよ。
どんなに腹が立っても、他の人に、友だちの悪口を言ったらだめだよ。
人間っていうものは感情の動物だから、いっときの感情で、悪口を言ってしまうことがある。
よく気をつけて、もしそんな感情に襲われたら、歯を食いしばってがまんせねばならない。
その人のいいところに気づかずに、悪口を言ってしまったら、もう取り消せない。友だちになれない。
そして、悪口を言ったら、それは、必ず自分にはね返ってくる」
二
次の木曜日、大ちゃんが学校に来なかった。
金曜日も、大ちゃんは学校にこなかった。
昼休み、壮ちゃんとぼくが高橋先生に呼ばれ、準備室に行った。
先生は、疲れきった様子で、額にしわを寄せ、困った顔をしていた。
「大悟君が休んでますが、君たち何か知っていますか?
先生は、今晩にでも、大悟君の家に電話しようと思ってます」
(そんなことを聞かれても……)
と、ぼくたちは顔を見合わせた。
大ちゃんが、みんなからいじわるされているのは確かだが、それをベラベラ、先生に話すわけにはいかない。
それに、ぼく自身が大ちゃんを煙ったがって無視していたから、悪かったと自責の気持ちがある。
壮ちゃんも同じ気持だったろう、だまったままだった。
それで、ぼくは言った。
「先生、ほかの人のことを、あれこれ告げ口することはできません。
ぼくは、大ちゃんが苦手で無視していました。大ちゃんを除け者にしてました。反省します」
すると、壮ちゃんも、半分下向きながら、
「ぼくも、大ちゃんが自分勝手でわがままなので、この頃は離れています。そんなことで大ちゃんを仲間外れにしていました。
大ちゃんが、そんなに苦しんでいるのなら、ぼくも考え直します」
高橋先生の白い大きな顔が輝いた。
「そう、君たち、力になってちょうだい。
大悟君は、ほかの子にいじめられているようですが、味方が居ればしのげます。大悟君を救うには、クラスの仲間の力が必要なのです」
それで、先生は栄太郎や恭二郎のことも知っていると、わかった。
壮ちゃんが、切れ長の目をパチパチさせながら、ためらいながら言った。
「こないだ、先生は、大ちゃんが下級生を苛めたと言って、注意したでしょう」
「ああ、あれは、中村先生から注意を受けたことです。
どうしたの? 壮太君、教えて」
「あのとき、大ちゃんは悪くありません。
下級生がハトに石を投げたので、大ちゃんが注意したのです。しかし、その子が止めなかったので、大ちゃんがゴツンしたのです。それを、中村先生に見つかったのです。あのとき、ぼくは、大ちゃんのうしろを歩いていて、立ち止まってぜんぶ見ていました」
高橋先生は、ゆっくりうなずいた。
「そうだったの。
壮太君、よく話してくれたわ。
私は、大悟君の言い分も聞かないで、一方的に彼を叱りました。
私も大悟君を追い詰めていたのね。
私は大悟君にあやまります。
壮太君、ありがとう」
ぼくは、夏ちゃんのことは言わなかった。
ぼくは、大ちゃんを助けてやろうと思ったが、どうしていいか分からなかった。
壮ちゃんもぼくと同じ気持ちだと思った。
三
そして、月曜の朝も大ちゃんは姿を見せなかった。
朝、珍しくスカート姿の高橋先生が、みんなの顔を見渡したあと、話し出した。
「大悟君が学校を休んでいます。みんなさんは、このことで、何か考えたことがありますか?」
(きっと、大ちゃんは学校がおもしろくない……)
と思ったが、手をあげて、みんなの前で言うことではない。
(みんなも、同じ気持だろう……)
だれも、こたえなかった。
「恭二郎君、よそ見しないで、先生の話を聞きなさい」
それで、みな、シーンとした。
「私は、きのう、大悟君のお母さんとお話してきました。大悟君とも会いましたが、彼は元気です。病気ではありません」
そう言って、先生は教室中を見回した。
「大吾君は、みんなにいじわるされるから学校に行きたくないと、小さな声で私に打ち明けてくれました」
みんなが、かたずを飲んで先生の口元を見守っている。
「はっきり、言いましょう。
大悟君にいじわるすること、それは、いじめと同じです。
いじめは、先生は許しません。
みんなさんはそれぞれちがう家庭環境で育った子供たちですから、他の人のことをよく知りません。それで、トラブルが起るのです。おたがいのこと、相手の気持がわかれば、腹が立たないし、許せる気持になります。
彼に欠点があっても、それはみんなでカバーしてあげるべきです。
この六年三組のクラスというのは、家族みたいなものです。クラスでいじめたり、のけ者にしたりすることは止めてください。
おたがい感情のある人間ですから、けんかしたり、つい文句を言ったり、誹謗したりすることはあります。でも、その後で、話し合ってください。言い足りなかったら、きちんと言ってください。
言い過ぎたと思ったら、すなおにあやまってください。
仲直りしてください。
いつまでも根に持って、仕返しをしたり、無視したりしないでください。
もし、友だちとけんかしたり、いざこざがあったりして、自分が悪かったと気づいたら、勇気を出してすなおにあやまってください。この前は、林君がそうしました。
もし、どうしても相手の人が許せなかったら、私に打ち明けてください。話を聞いて仲裁しましょう。
私は、君たちのお父さん、お母さんから、君たちを預かった教師です。このクラスの中では、みんな、家族と思って協調してください。学校では、私を、お父さんお母さんの代わりと思ってください。
私の立場はわかってもらえますね。
さあ、大吾君のことです。
それでは、みんなさん、どうしますか?」
短い「朝の会」だったので、だれも、意見を言う者はいなかった。
でも、多くの者は、自分のことを反省しただろう。ひきしまった顔をしていた。
夏ちゃんの、ふだん活発な顔も、悲しそうだった。
あの秘密は、ぼくと夏ちゃんしか知らなかった。それを破った夏ちゃんは、ぼくにも引け目を感じているのだろう、ぼくと顔を合わせたときに、さびしそうに目をそらした。
でも、もう取り返しがつかないことだ。
その授業が終わって、先生の後を追った壮ちゃんが廊下で、「ぼくが、朝、大ちゃんを迎えに行きます」と、先生に言ったようだ。
さすが、壮ちゃんだ、とぼくは頼もしく思った。
その晩、おじいちゃんが夢の中に出てきた。
「これ、哲也よ。
お前は、練り消しゴムを猫ばばしたときに、クラスのだれからも相手にしてもらえない寂しさを味わっただろう。
お前は、そのことを忘れてしまって、大ちゃんを仲間外れにしている」
それは、金曜日に高橋先生と話しあったときに、反省したことだった。
「人間には、いろいろなタイプがいる。おたがいに、好き嫌い、相性の良し悪しがある。
しかし、人間は、いろんな人が集って社会を作って暮らしている。
気の合った人ばかりが集るわけにはいかない。嫌な人も混じっている。嫌なのは、お互い様なのだ。
そこで、けんかとか意地悪とかしてたら、おたがいが傷ついてしまう。
もめごと、争いは、できるだけ避ける努力をしなければならない。
相手がどういう人なのか、何を考えているのか、理解するのだ。そうすれば許せることもある。
みんなに、ついてこれない人がいる。体が弱い人もいる。性格的に弱い人もいる。そんな弱い人をいたわって、みんなが、気をつかって過ごさねばならない。そうやって、みんな、気分よく、幸せに暮らすんだ。
お前たちのクラスも一つの人間社会だ。
お前がだれかを無視して、その子の気持を傷つけたら、その子はかわいそうだろう。そして、お前の気持も、落ち着かないだろう」
ぼくは、じゅうぶん骨身にこたえている。
「おじいちゃん。わかった」と、寝ぼけた頭で言った。
四
翌日、火曜の朝、家が近い壮ちゃんが、大ちゃんを誘いに行って、二人で学校にきた。
後で、壮ちゃんが、ぼくと信ちゃんに話したことだ。
前日の、月曜夕方、壮ちゃんが、大ちゃんの家に行って、いっしょに学校に行く約束をした時、大ちゃんが打ち明けた。
「朝ご飯を食べて、学校に行く準備をしていると急にお腹が痛くなるので、ソファで横になっている。すぐに治るけど、遅刻したら、またバカにされるから、休む」
そして、前の日曜の夕方、高橋先生が大ちゃん家を訪ねてあやまってくれ、うれしかったそうだ。
「こないだ、下級生をいじめたことを注意しましたが、あれはハトに石をぶつけている下級生に大ちゃんが注意していたことで、大ちゃんはちっとも悪くないという証言がありました。私は君の言い分も聞かないで叱りました。ごめんなさい」
そして、その証言をしたのが壮ちゃんだと話てくれた。それで、大ちゃんは学校に行きたいと思ったそうだ。
でも、月曜の朝、やはりお腹が痛くなって休んだのだ。
次の水曜の朝、大ちゃんが席に着くなり、叫んだ。
「コインがあった」
前に、袋から失くなった、イギリスの1ポンドコインだ。
机の中にあったのだ。
よほど、うれしかったのだろう。ニコニコした大ちゃんは、周りのみんなに、
「ありがとう」と、頭を下げ、ランドセルにしまった。
1ポンドは一四五円だが、このコインはもう出回ってない、価値あるものだそうだ。
ぼくは、だれかは知らないが、その犯人も、あのときのぼくと同じように苦しんだと思った。
毎朝、壮ちゃんが大ちゃんを誘って来た。
学校で、ぼくたちは、大ちゃんに、「おはよう」と声をかけた。
ある朝、学校に行く途中、ぼくの前を、大ちゃんが歩いていた。
(おや、今日は一人だ……)
大ちゃんの足取りが遅い。すぐに追いついた。
「おはよう」と、うしろから声をかけると、振り向いた大ちゃんの細長い顔が、ホッとした表情をした。
「今日は、一人で来たんだね」
「うん。待ってたけど、壮ちゃんが来ないので、一人で来た」
二人で歩いているうちに、うしろの方から、
「おーい。大ちゃん。哲っちゃん」
壮ちゃんが、手を上げながら駆けてきた。息をはずませながら言った。
「朝、出かけしなにトイレに行きたくなって遅れた。大ちゃんの家に寄ったら、先に行ったというので、走ってきた」
ある朝、教室に入ると、ぼくの席に大ちゃんがうしろ向いて腰掛けて、壮ちゃんが必死にノートを写している様子を、見守っていた。
算数の宿題を忘れて、それで大ちゃんのノートを写させてもらっていたのだ。
のんびりしている壮ちゃんは、ときどき宿題を忘れる。
ある日の昼休み、大ちゃんが、小さな声で、ぼくを廊下に誘い出した。
手に持った、小さくたたんだ紙を見せた。
「夏ちゃんが手紙をくれた。こないだのことをあやまってくれた。
ぼくはなんとも思ってないが、でも、うれしかった。この手紙は、ぼくの宝物にする」
細長い顔が輝いていた。
ぼくは、よかったと思った。
あとで夏ちゃんと廊下ですれ違ったとき、
「大ちゃんが、夏ちゃんから手紙をもらったって、とても喜んでいたよ」と言うと、長い髪を揺らしながら、うれしそうな顔をした。
「よかったわ。どうやってあやまったらいいか分からなかったので、哲ちゃんの真似して、手紙にしたの」
「じゃあね」と、ぼくは別れた。
夏ちゃんがどんな手紙を書いたか、ぼくは知りたかった。
夏ちゃんは悩んだろう。でもあんなに大ちゃんを喜ばしたのだから、すばらしいことを書いたのだ。「見せて」とは言えない、プライバシーだ。
第三章 鰻とり
一
大ちゃんが学校に出てくるようになって、十日ほど過ぎた。すっかり、前の大ちゃんにもどった。
そして、ぼくや、壮ちゃん、信ちゃんとよく話をしている。
でも、ときどき大ちゃんが自分勝手にふるまうので、ぼくは嫌に思う。
今日も、とつぜん、ぼくたち三人に、
「これから、ぼくの家においでよ。コインを見せてあげる。いっぱいあるぜ。それから、戦艦の模型もあるぞ」と、誘った。
すっかりその気になった大ちゃんは、ぼくらを連れて行く気でいる。
三人は顔を見合わせた。
ぼくは、かねがね大ちゃんに忠告したいと思っていたので、思い切って言った。
「大ちゃんさ、話がある」
大ちゃんはびっくりしたようだ。
「大ちゃんは、自分の思うようにしようと、強引だからさ、いっしょにいると疲れる。
ぼくは、お母さんと買い物に行く約束があるから、行かないよ」
大ちゃんの顔が固まった。
すると、信ちゃんも口を尖らして言った。
「大ちゃんは、自分勝手なところを直すべきだ。
だれでも、都合があるから、突然言われても困る。
ぼくは、弟と公園に行く約束してるから、行けない」
壮ちゃんも、小さくうなずいて、言った。
「ぼくは、犬の散歩があるから行かないよ」
大ちゃんは、ショックだったようだ。細長い顔が虚ろだった。
壮ちゃんが、
「さあ、帰ろう」と、大ちゃんを促した。
次の日、帰る時、大ちゃんが切り出した。
大ちゃんの家の物置に、もう十年以上も使ってないウナギとりの道具がある。大ちゃんのお父さんは、前に、よく青井川でウナギをとったそうだ。筒状の竹カゴで、中に餌を入れて川底にしかける。餌にはハヤがいいが、ミミズでもとれるそうだ。
「みんなの都合のいい日に、ウナギとりに行こうよ」
みんなの顔が輝いた。
「土曜日がいい」と、みんなが言った。
まずは、ハヤを釣ることだ。
ぼくと大ちゃんは釣竿を持っているが、壮ちゃんと信ちゃんは持ってない。すると、大ちゃんが、言った。
「ぼくが、釣竿を作ってあげる。篠竹でだ。テングスも針も浮きもあるから、任せておけ」
それで、そういうことにした。
二
ぼくは、明日に迫った憂うつなことがある。
漢字の試験だ。いつもの漢字書き取りと違って、五〇問も出る。
ぼくは漢字は苦手だ。読めても、きちんと書けない。
信ちゃんが言うんだ。
「当用漢字で、1850字。そのうち、小学校で覚える教育漢字は、1006字ある。これだけは、覚えないといけない。
いずれ覚えねばならないことだから、はやく覚えた方が得だ」
「忍の一字で覚えるか!」と、ぼくが言うと、
「そんなに気張らずに、毎日、必ず一字とか二字とか覚えるんだよ。詰め込み過ぎたらすぐ忘れる」
そのとおりだ。習ったときは覚えたつもりでも、いつのまにか忘れている。
それから、信ちゃんが講釈した。
「漢字の特徴、部首に注意するんだ。難しい漢字は、分解してみるのさ。
こじつけるんだ。
破れるは、石で皮を破る。
波は、サンズイの皮。サンズイは水。水の皮は、水面の波。
漢字の漢は、なぜサンズイだ? そして、草カンムリに、口を割る夫。わからない」
「サンズイの草カンムリに、両は、なんだ? 満、満ちるだ。
両は二つのことだろう。どうして、二つが満なのだ?」
「サンズイの草カンムリに、品木で、藻も藻だ。品木ってなんだ? 海藻も、そうだ」
「魚偏がつくのは、魚の名前だよ。
魚偏に、日、横目の又で、鰻。今度とりに行く。
竹を干して、作るのが、竿。大ちゃんが作ってくれる」
試験の結果は、想像にお任せ。鰻も竿も出なかった。
大ちゃんは、ずいぶん、できたようだった。そして、言った。
「勉強をしたか、しなかったか、結果が出るのが、漢字書き取りだ。漢字が苦手だと言う人は、他の人より、勉強してないのだ」
「どうやって、勉強するんだ?」と、壮ちゃん。
「ともかく書くんだ。そうすれば、手がひとりでに書き順を覚える」と、大ちゃん。
思うようにはできないが、ぼくは勉強に励んでいる。
そして、勉強に飽きたら、ぼくは走る。
だれにもないしょだが、ぼくは毎日かけっこの練習をしている。背筋を伸ばして、太ももを上げて走るよう、心掛けている。
三
ある日、校門を出てしばらく行ったところで、ぼくと信ちゃんは左右に分かれた。
「さいなら」
「さいなら」
ぼくが行く方に、
(おや、壮ちゃんと大ちゃんが、やられている!)
五人の五年生がいた。栄太郎と恭二郎ともう一人、となりのクラスのシロウだ。
ぼくは振り向いて、信ちゃんに叫んだ。
「大ちゃんが、大変だ!」
大ちゃんが、クラスで一番大きい恭二郎に胸倉を捕まれていた。背は少ししか違わないが、恭二郎はゴリラの顔に似て、強そうだ。
大ちゃんには、刃向かう気力はない。
すこし離れて、壮ちゃんが、栄太郎とシロウに囲まれていた。
栄太郎は、額が狭くサルのような顔をする。いじわるな栄太郎は、ぼくや壮ちゃんと同じぐらいの体格で、力は強くないが、恭二郎をそそのかして、二人でほかの子をいじめる。
シロウは、ぼくと体格が同じくらいだが、乱暴だ。
「とめよう」と、信ちゃん。
ぼくたちは、走った。
近づいた信ちゃんが叫んだ。
「やめろ!」
驚いて振り向いた恭二郎は、信ちゃんだと分かると、ばかにした顔をして、
「なにを!」と、いきなり信ちゃんの顔をなぐった。
前から三番目に背の低い信ちゃんは、いっしゅんたじろいで、ほほを押さえたが、
「なぐるな」と、どなった。
逆上した恭二郎が、信ちゃんにつかみかかっていったので、ぼくは、うしろから恭二郎の肩をつかんで引き戻した。
真っ青な顔をしたゴリラが、こんどはぼくに向ってくる。
とっさに、その狂った顔を、ぼくは右手で押し返した。
右の手首近くの骨が、あいつのやわらかい鼻にあたった。ぼくの手の骨が、ぐにゃっとしたものを、押しつぶした。
「ギャッ」と叫んだあいつは、両手で顔を押さえ、うつむいた。
真っ赤な鼻血が、どくどく出た。
みんな、たじろいだ。
ぼくが一番驚いた。
あいつのシャツの胸が赤く染まった。
ゴリラは、泣くどころではない、鼻から出た血が口を伝って流れ、うろたえた。
「上を向け」 信ちゃんの命令で、恭二郎は空を見上げた。
信ちゃんがハンカチを渡したが、すぐ赤くなった。
次に、信ちゃんの言う通り、道に仰向けに寝た。
「鼻紙はないか?」と、信ちゃん。
だれも持ってない。
信ちゃんが、血の付いたハンケチの端を丸め、「これで鼻の穴をふさげ」と言った。
寝ころんだままの恭二郎が、目の球を動かしながら、指で布を突っこんだ。もう片方の鼻の穴も、そうした。
赤く染まったハンカチで口を覆ったようになった。
そうやっているうちに血が止まったようだ。
そのとき、「いけねえ」と、シロウが叫んで、栄太郎と二人で走り出した。
校門から、となりのクラスの若い中村先生が駆け出してきたのだ。
(だれかが、知らせた……)
恭二郎は、途中で出会った高橋先生に連れられて保健室へ行った。
ぼくたちは、中村先生に乱暴に追い立てられて、校長室に入った。校長先生は留守だった。
中村先生が恐い顔をして、どなるように、しゃべる。
「どうして、けんかをした?」
大ちゃんは、びびってしまった。
壮ちゃんがとぎれとぎれに話すが、先生に通じない。
ぼくも信ちゃんも、事情を知らないから黙っていた。
「だれが、恭二郎君をなぐったのだ?」と、中村先生がみんなの顔をにらんだ。
ぼくは小さく手をあげた。
「ほうっ」と驚いた中村先生だが、次の瞬間、その四角い顔がぼくにせまった。
「どうして、なぐった?」
「なぐってません」
「なにを!」先生は激怒した。
「なぐらなくて、どうしてあんなに血を出したのだ」
ぼくは、なぐったつもりはなかった。あいつがぼくをなぐろうと向ってきたから、とっさに突き飛ばそうと伸ばした手の平が鼻に当たったのだ。
(そんなことを言っても、この先生には理解不能だ……)
と、ぼくは黙った。
「なんで、けがするほど、なぐったのだ? えっ?」
中村先生の興奮した顔が、ぼくの顔に迫る。
今にもなぐられそうだった。
信ちゃんが、けんめいに状況を話した。そして、
「哲ちゃんは、ぼくを助けてくれたのです」と、言った。
すると、大ちゃんも大きな声で言った。
「信ちゃんは、ぼくを助けようとして、あいつになぐられました」
そのとき、丸めたちり紙を鼻につっこんだ恭二郎が、高橋先生に連れてこられた。
白いシャツが血だらけだった。
恭二郎は、ぼくに罪はないことに同意した。
そして、高橋先生にうながされて、信ちゃんをなぐったことをあやまった。 次に恭二郎は、大ちゃんに詫びた。
ぼくは詫びなかった。
高橋先生が、そんなぼくをほほえんで見ていた。
中村先生が、
「逃げたのは栄太郎だな。うちのクラスのシロウも居たようだな」と、恭二郎に向って聞いた。
恭二郎がうなだれたので、ぼくが代わって言った。
「あいつらも、苛めた仲間です」
すると、大ちゃんが、思い切ったように、中村先生の方を向いた。
「前に、シロウ君の弟がハトに石を投げていて、注意しても止めないので、ぼくが彼の頭をぶったことがありました。
シロウ君はそのことを根に持って、ぼくに仕返ししたのです」
すると、壮ちゃんが証言した。
「ぼくは、大ちゃんがシロウの弟に注意して、止めないので、殴った様子を、立ち止まってうしろから見てました。大ちゃんは悪くないです」
大ちゃんが言った。
「ぼくは下級生をなぐらなくとも注意できたのに、乱暴なことをしたと反省してます」
すると、恭二郎が小さな声で弁解するように言った。
「シロウが、大ちゃんを懲らしめようと言って、それで、ぼくは、大ちゃんにあやまれと言ったのです」
中村先生の四角い顔は、憮然としていた。
「さあ、これまでにしましょう」と、高橋先生。
次の朝、校門のところで恭二郎と出会った。あいつの鼻が傷ついてなくて、ぼくは、ほっとした。あいつも、きまり悪そうにぼくを見た。
「鼻は、なんともなかったかい?」と、ぼくが聞くと、
「うん。だいじょうぶだ」
その日の昼休み、廊下で、栄太郎と恭二郎が揉めていた。
「なにを、お前は逃げたじゃないか!」
と、非難する恭二郎の声が聞こえた。
四
土曜日の午後、いよいよ、信ちゃん、壮ちゃん、大ちゃんと四人で、ウナギ獲りに行った。
二時に、約束の普賢橋のたもとに、ぼくが行くと、すでに、一番遠い信ちゃんが自転車で来ていた。
すぐに、壮ちゃんと大ちゃんが歩いてきた。壮ちゃんは柴犬のタロウの綱を引っ張っている。壮ちゃんはどこへ行くときも連れてくる。
いつもは自転車に乗る大ちゃんだが、三メートルほどもある篠竹の釣竿を肩に担いで、ウナギの竹筒を下げていた。
釣り竿の出来栄えは上々で、壮ちゃんも信ちゃんも喜んだ。
水面幅十五メートルほどある青井川は、水がきれいだ。ぼくはこの川で泳いでいるから、よく知っているが、ぼくの背が立たない淵がある。
ミミズの餌を使った。
まだ水が冷たかったが、膝まで浸かった。
ぼくと大ちゃんがハヤを二匹ずつ釣った。
信ちゃんも壮ちゃんも、くやしがった。彼らの竿は、ぼくらの継ぎ竿より一メートルほど短いから、そのせいだと思ったようだ。でも、水の中に入って好きなところで釣るから、そう変わりはない。
「釣り竿のせいだ」と、壮ちゃんが言うので、大ちゃんは自分のと交換した。ぼくも信ちゃんのと取り換えた。
でも、釣れなかった。
信ちゃんはずいぶん粘ったが、だめだった。
壮ちゃんは途中であきらめ、タロウを泳がせようとしたが、水が冷たいせいか、逃げ回った。この犬は、壮ちゃんの忠実な家来で、壮ちゃん以外の者が体に触れると、牙をむいた。
いよいよ、仕掛だ。
大ちゃんとぼくがパンツ一枚になったが、水が冷たくて顔を漬けられない。
深さ四十センチほどのところに、竹筒をしかけ、流されないよう、周りに石ころを置いて囲った。
明日の朝の楽しみだ。
信ちゃんと壮ちゃんの釣竿は、ぼくが預かった。
帰って、お母さんに話すと、お母さんは首を振った。
「ウナギをとってきても、お母さんは料理できないよ」
ウナギ屋さんでは、釘で頭をまな板に打ち付けて、さばくらしい。忙しいお母さんは、そんな面倒なことはできない。
「どうせ、とれないでしょう」と、冷たいお母さん。
(やってみなけりゃ、わからないだろう……)と、ぼくは反発する。なんとか、ウナギをとりたいと思った。
とれたら、大ちゃんにあげようと思った。
次の日曜の朝、ぼくは早起きした。
冷たい水に、パンツ一枚で入った。どきどきしながら、石の間から竹筒を引き上げた。ざーっと水がこぼれて、餌のハヤが硬くなっていた。
残念でした。
また、元通りにしかけて石をかぶせておいた。
九時に、四人が集まって、もう一度しかけを改めて、それからハヤを釣った。今度は、信ちゃんも壮ちゃんも一匹ずつ、ぼくと大ちゃんは二匹ずつ釣れて、ぜんぶで六匹釣った。
また、大ちゃんとぼくがパンツ一枚になった。
六匹とも竹筒に入れて、川底にしかけた。
「できるだけ深いところに置こう」と、大ちゃんが言うが、二人とも上半身を水につける元気はない。きのうと同じぐらいの深さのところに置いた。
そのとき、信ちゃんが、岸に戻ろうとして、川底の石にけつまずき、倒れた。
そばにいた大ちゃんが駆け寄って引き起こしたが、二人とも、頭までずぶぬれになった。
大ちゃんはパンツ一枚の裸だったが、信ちゃんはシャツもズボンも濡れてしまった。
信ちゃんは着替えるものがない。とりあえずタオルで上半身を拭いて、ぼくのTシャツを着せた。ぼくは上半身裸だが、家が近いから平気だ。ブルブル体が震えそうになると腕を回して温めた。
信ちゃんは下半身濡れたまま、真っ青な顔でガタガタふるえている。
気の毒だった。
急いで、ぼくんちへ行った。お母さんは留守だった。
みんなでバスタオルで信ちゃんの体を拭いて、ぼくの長袖シャツとパンツとズボンを着せた。みなでココアを飲んで元気になった。
信ちゃんはシャツとズボンのすそをまくって、自転車で帰って行った。
次の月曜の朝、ぼくは早起きして見に行ったが、やはりだめだった。
雨が降りそうだったので、流されては困ると思って、竹筒は引き揚げ、ぼくが預かった。
もっと深いところに置くには、もう少し暖かくならないと無理。
大ちゃんのお父さんが言ったそうだ。
「うなぎの数が減っているかもしれない。でも、素人にはむりだ。ひまができたら教えてやる」
それで、ひとまず竹筒を大ちゃんに返した。
五
七月に入って、火曜日。大ちゃんが、中村先生に、放課後、職員室に来るよう言われた。
「なんだろう?」と、緊張した様子の大ちゃん。
ぼくたちは、心配して教室で待っていた。
すぐに、大ちゃんがにこにこして戻ってきた。手に古い本を一冊持っていた。
「中村先生からもらった。
先生が、ぼくたちの頃、読んだそうだ。よかったら読んでみな、だって」
『トムソーヤの冒険』だった。
中村先生は、前に、一方的に決めつけて大ちゃんのことを高橋先生に告げ口したことを、頭を下げてあやまってくれたそうだ。
うれしそうな大ちゃん。
「ぼくにも貸して!」と、壮ちゃん。
信ちゃんも、ぼくも、
「読ませて」
大ちゃんの次の順番を、ジャンケンで決めた。信ちゃん、ぼく、壮ちゃんの順になった。
そうやって、ぼくたちは、大ちゃんと仲良くなった。
彼も、強引なことをしたら反発される、と分かって、気をつけるようになった。協調性が身についたというのだろう。
ぼくたちは、いつもぴったりくっついているわけではない。何か困ったことが起きたときには、打ち明けて、相談して、力を貸してもらえる関係だと思っている。
ともかく、信ちゃんも、壮ちゃんも、大ちゃんも、人をだましたり、裏切ったりする人ではない。信頼できる人だ。
さあ、もうすぐ夏休みが始まる。
ぼくは近所のお兄さんに、ウナギとりに連れて行ってもらう約束をしている。
そして、信ちゃんがハヤを一匹釣ってから、釣りのおもしろみに目覚めたらしい。そして、弟たちに連れて行ってと、せがまれたらしい。
「弟たちと青井川でハヤつりをしたいので、釣竿を貸して」と言った。大ちゃんが作った二本とぼくの繋ぎ竿だ。大ちゃんも壮ちゃんもうなづいた、ぼくだってお安い御用だ。
「物置にあるから、いつでも勝手にどうぞ」
兄弟三人で、自転車で来るらしい。
「釣った魚は、どうやって食べるの?」と、信ちゃん。
「串にさして焼く」と、大ちゃん。
おわり