山行の始まり
翌朝、空には灰色の雲がつらなり、今にも雨が降り出しそうだった。
気持ちの整理がつかないままでも、わりと睡眠がとれたのは助かった。
僕は山登りに行けそうな冬用のアウターを羽織り、下には厚手のズボンを履いた。
準備を終えて玄関を出ると、すでに祖父が迎えにきていた。
祖父が乗っているのは軽の四駆自動車で銀色の車体だった。
「おはよう。少しは眠れたか」
「……うん、多少は」
祖父がこちらに気づいて車を下りた。
「雨が降るかもしれんが、レインスーツは持ってきたか」
「とりあえずは。予報では午後から晴れるみたいだね」
僕は助手席のドアを開けて席に腰かけた。
祖父の車に乗るのはこれが初めてだった。
「今からもっと奥の方に向かう。昨日言ったとおり、山に入って狩りをしてもらう」
車は駐車場を出て道路を走り始めた。
「そういえば、僕も銃を使うの?」
猟銃には免許がいるはずだった。
「……まあっ、そうなってしまうな。村の習わしを建前にしても言い逃れはできんが、他に方法がない。鉈やナイフ片手に鹿と追いかけっこしたところで、捕まえられるわけがないわ」
祖父はため息まじりにいった。
その話を聞いても自分が猟銃をかつぐ姿が想像できなかった。
どう言葉をつなげばいいか分からなくなり、窓の外に目を向けた。
道の手前には乾いた田んぼが連なり、その向こうには林が見えた。
大学に通っている時はこんなふうに自然を目にすることはない。
大人になるまで見慣れた景色のはずなのに、不思議な気持ちになった。
「……良一はよくできたやつだった。兄貴の宗助を反面教師にしたのかもしれんな」
祖父は懐かしむような優しい口調でいった。
「……そうだね」
たしかに父さんは真面目な人だった。
毎朝同じ時間に起きて、何かで測ったような規則性のある生活だった。
僕からは退屈に見える炭焼きの仕事を愚直にこなしていた。
そして、そんな父さんのおかげで暮らしていけるのも知っていた。
ただ、僕は街の大学に進学して都会で生活したいと思った。
――心のどこかでこの村で一生を終えたくない気持ちがあったのだろう。
「むずかしいことは分からんが、他のもんではダメだったのかと思う」
祖父の言葉が響くように届いた。
たしかに僕も同じことを考えていた。
この村には色んな人たちがいる。
勤勉な人、そうでない人。健康な人、老い先が短い人。
他の誰かでもよかったのでは。
父親が鬼になる話を受け入れ始めると、そんな葛藤に苛まれた。
かといって、別の誰かに移すことができるはずもなかった。
それから、僕と祖父は言葉少ないままに移動を続けた。
途中でスマホを確認すると、いくつか連絡があったことに気づいた。
バイト仲間や大学の友人、それに秋菜からもきていた。
いくつかの通知を読み飛ばし、彼女からの連絡に目を通す。
そこには、『心配なんだけど、大丈夫?』とだけ書かれていた。
細かい事情は分からないものの、彼女も駅へ迎えにきた時点で知っていたかもしれない。
村の人間はそう多くないのだから、通達を行き渡らせることは簡単なはずだ。
きっと、村にいなかった僕にだけは、うかつに教えられなかったのだろう。
秋菜からの連絡を既読にして、スマホの画面を消した。
家を出て小一時間経った頃、祖父が道路の端に車をとめた。
辺りは木々の密度が濃くなり、地面に影をおとしていた。
「ここからしばらく進んで、拠点になる山小屋まで行く」
「……わかった」
祖父は手短に伝えてから、車内の荷物をおろし始めた。
普段の生活では使わないような大きめのバックパック。
そして、釣り竿でもしまえそうな縦長のケース。
長さは一メートルほどでナイロン製。
「そうだ、こいつを運んでくれ」
祖父はそう言ってそのケースをこちらに手渡した。
金属が入っていそうな重みを感じて、すぐに何が入っているかを理解した。
――この中には人や動物を殺せる道具が入っている。
その事実は現実離れしたものに思えた。
無言でケースを受け取り、肩紐を身体にかけた。
素早い動作で準備を終えてから、祖父は木々の切れ目まで歩いていった。
そして後ろを振り返ると、こっちへこいと手招きをした。
山に慣れていなければ、こんな獣道から入ろうと思わないだろう。
祖父はよく知る場所を散歩するように、自然な様子で足を踏み入れた。
足元には枯れ葉が散らばり、そこかしこから低い丈の草が生えていた。
道の脇からは進行を妨害するように木々の枝葉が伸びている。
それに足を取られないように注意して進んでいった。
祖父の進み具合が早く、慣れない僕は呼吸が苦しくなっていた。
疑うわけではないが、山小屋を目指すという大雑把な目標に心細さはある。
さらに、鹿や猪を撃たなければいけないというのも気が重かった。
この状況で弱音を吐けば先へ進めなくなりそうで、不安や戸惑いを胸にしまいこんだ。そんな気持ちとは裏腹に、冷えて澄んだ山の空気はさわやかだった。
「……慣れんときついと思うが、もう少し我慢してくれ」
祖父は足を止めずに顔だけこちらに向けていった。
その言葉に短い返事をして、さらに歩きつづけた。
体力に余裕がなくなり、頭がぼんやりしてきた頃、どこかで何かの気配がした。
足音がした方に目を向けた直後、木々の隙間から鹿の姿が見えた。
祖父を確かめると口元に人差し指をつけて、静かにという合図を出していた。
早速この場で撃つのか。何か作戦はあるのか。
自己判断はできないので、視線だけで鹿の姿を追いつづける。
距離にして数十メートル。
僕たちが音を出さないようにしているので、鹿はこちらに気づいてなかった。
枯れ葉に同化するような薄茶色の毛に覆われて、小さな耳が立っている。
角は生えていないから、雌鹿なのだろうか。
餌か何かを探すように同じ場所をうろうろしている。
やがて、こちらに気づいて凝視した後、跳ねるような足さばきで去っていった。
「……生で鹿を見たの初めてかも」
「まだ準備もできとらんから、銃を使うのは山小屋に行ってからにしよう」
祖父は移動を再開した。
そこから歩き始めると、頭の中にある考えが浮かんできた。
さっきの鹿は美しいとまでは言えなくとも、生命そのものという感覚がした。
ただただ生きた動物で、自然の中に存在するという実感。
はたして、自分はそれを撃てるのだろうか。
あるいはそれ以上に重たい意味を持つ、親殺しができるのだろうか。
それは心に重荷を背負うような感覚だった。
まだ、頭のどこかで、これは夢なんじゃないか、誰かが代わってくれるんじゃないかという思いがあった。
そして、野生の鹿はその姿で僕を試したように思えた。
ただの大学生にそんな大役を背負わすなと泣き言をいいたくなってくる。
心身の疲労がピークに達したころ、目的地の山小屋に到着した。
鍵の開いた扉から中に入ると、祖父はしばらく休憩しろと声をかけた。
朝早くに出発して、疲れが溜まっていたせいか、強い眠気を感じた。
床に腰かけているうちに目蓋が重くなり、意識が遠のいていった。
誰もいない静まり返った空間。時折、どこからか鳥の鳴き声が聞こえてくる。
喧騒は遠くにあって、木々が風と共に葉を揺らす音が響いた。
自分だけが取り残された感覚を抱きつつ、眼前に横たわる猟銃をじっと眺めた。
窓から差しこむわずかな光で木製の銃床は淡い光沢を持ち、細長い銃身は黒く輝いている。
――これで父を撃たなければいけないのか。
避けられぬしきたりとはいえ、今なお気持ちの整理はついていない。
父はそこまでの仕打ちを受けるような過ちをおかしたのか。
いや、そんなことはない。ただ、この村で生まれ育っただけ。
たまたま運が悪かっただけ、本当にそうなのか。自分には答えが出せない。
そして、この村で生まれ育った事実は変えられない――ならばやるしかない。
現状を嘆いても何も始まらない。時間が経つだけ両親を苦しめるだけだ。
どこまでも広がる静けさに身を委ね、心の奥で小さな炎が揺らめく感覚がした。
今作も折り返し地点に到達しました。
序盤から通しで読んで頂けたら嬉しく思います。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。