16話 日常の大切さ
どのタイミングで入れるか迷った話その1
ここまで私の話を聞いていて、疑問に思ったことはないだろうか。
2度目の人生にも関わらず、何の変哲もない、全くもって大したことのない、日常を送っていれば当たり前に起こるようなことにいちいち過剰に反応しすぎではないか?
と。
もしくは、少々無理していろいろなことを楽しいものなどと思い込もうとしてはいないか?
とも思ったかもしれない。
他にもいろいろな疑問があるだろうと思う。
それに回答するために、少しだけ話をしたいと思う。
疑問への完璧な回答とは言えない話かもしれないが、聞いてほしい。
そこまで長くするつもりはないから安心してほしい。
私は前世において、中学、高校と勉強漬けの毎日を送っていた。
友人や恋人がいなかったわけではないのだが、極稀にしか遊ぶことはなかった。
受験期に至ってはそれがもはや完全にゼロとなってしまい、当時の恋人に、もう構うことができないから、と別れを告げたりもした。
私は昔も周りの人間にとても恵まれていたと思う。
かつての私の家族は私に一切口を出さずに自由にさせてくれていたし、友人たちもそんな私のことを理解してくれていた。上のレベルで争っているのだから他に目を向ける余裕などなくて仕方ないのだと。
それに気づくことができたのは大学に入って心の余裕ができてからだった。
私は中高生だった当時、自分のことで精いっぱいで周りが全く見えていなかったのだ。
たとえ受験期だとしても時間が全くなかったわけではないのだが、人間関係などの当時の私にとっては余計だったことに力を割きたくなかった。
少々言い方が悪いということはわかっているのだが、過去の私は実際にそう思っていた。重ねて言うが、あの時の私には今の私ほどの余裕はなく、視野も狭かったから。
それは勉強にのみ集中できた所以でもあるため一概に悪いことだったとは今でも思わないが。
それだけでなく、文化祭や体育祭などのイベントにも全く興味がなかった。強制参加であるため一応参加はしていたものの、心を躍らせることは一切なかった。
当時の私にとっては勉強によって自らの能力を高めることが本当にすべてだったのだ。
負けず嫌いと、ちやほやされる自分が失われることが怖かったことが主な理由だった。それが行き過ぎてそんなことになっていた。
無論、学問への興味、自分ができなかったことができるようになる喜び、これは将来の自分のためになることだという思いなども大きかったが。
私に最初から余裕を持って帝国大学へ行けるほどの才能があればもっと楽な話だったのだろうが、残念ながらそこまでの才能は私にはなかった。私は自分が凡人とは思わないが、天才では決してないのだ。天才の定義などという話をここでするつもりはないが。
才能が足りないのであれば努力するしかない。それはもう自明すぎることだろう。
そのため、かつての私はいわゆる普通の高校生らしい日常生活というものをあまり送ってこなかったと思う。
唯一その時期における趣味と言えたのは読書や少々のゲーム遊びくらいだろうか。それらは余計なことを何も考えずに一人でできたことだったから。
ここまで過去の私のことを散々こき下ろしてきたが、私はそのような生活を送ったことを決して後悔してはいない。
むしろ、あの生活があったおかげで私は帝国大学合格という、自分が日本におけるトップ層に属する人間なのだということの証明ができたわけで、それが今の私を形成する重要な要素であることは間違いないし、あれがなければ物事の考え方も今とは良くも悪くも全く異なったものになっていただろうと思う。
正直、過去の私の選択は正解だったと今でも思うし。
私はこのような私の考えがそこまで悪いものだとは思わない。共感はあまりされないだろうな、とは思うが。
自らの目標だけを考えてひたすら邁進することをそんなに悪いことだとは思わないし、少なくともかつての私の家族はそんな私を応援してくれていたのだから。
それに、そこまで周りに気を遣いすぎるのもそれはそれで中高生らしくないのでは、とも思う。
実際、我が校においてかつての私のようにしている人たちは大勢いる。野球部の人たちがいい例だろう。彼らも野球にすべてを注いで頑張っているのだ。彼らの生活を否定するのは実際に彼らの姿を見たらできないのではないか、と思う。
私が彼らを応援するのも、本当に勝手なことで失礼なことではあるのだが、彼らとかつての私の姿を重ねているからという部分も大きいのだ。
だが、2度目の生を受け、様々なことを考えるのに十分すぎる時間を与えられた際、かつての私が歩まなかった日常とは一体どのようなものだったのだろうか、と考えた。
何度も言うように、私はかつての私が送った人生を後悔することは決してない。
だが、随分と長い時間を与えられ、勉強に対して非常に余裕のある今、かつての私が歩まなかった……いや、歩んでいたとしても決して興味を持つことのなかった日常にもっと注目してみるのも悪くないと考えたのだ。
無論、過去の私が歩まなかった道をそのまま歩むことなど決してできない。そもそも前世の私とは性別も異なるのだし、周りの人間も、住む環境も時間もかつてとは全く異なる。
それでも、私は前世の私がかつて選ばなかった、見落としていたものはどのようなものだったのかを全てでなくてもいいから体験したいと思ったのだ。
正直、能力的な部分においてはかつての私のそれで既に十分であったと思う。
無論、もし事故がなければあれからも色々なことを学んでいったのだろうと思うが、それはわざわざ転生しなくても出来たことだ。
だから、能力的な部分においては大学に入学するまではもうほとんど上げる必要はない。
そのため、転生しなければできないような目標が何か欲しいと考えたのも、私が日常を謳歌することを目標とした理由の一つだ。
私が今の私の美貌についてやたらと意識し、自信をもって表現するのもそれが原因である。
前世の私と比較して今世の私が明確に優れていると断言できるのは見た目だけだから。
それ以外の能力の向上は、私の元々持つ学力と、見た目の著しい向上の2つと比較してしまうと正直些細なものと言ってしまうことができると思う。
そう。私の本質は転生しても何も変わっていない。
私は未だに人間のことを、内面を無視することは決してないが、それ以上にその才能や能力などに重きを置いて判断する人間である。
優しく振舞っていようと、結局は他人よりも自分を優先する人間であり、くだらないとわかっていてもプライドが非常に高い人間である。
そして、思うところはあるものの、そんな私のことを私はそこまで悪いと思っていないし、これから特に変わるつもりも、変わる必要もないのだ。
前にも言ったが、私は今の私の行動を決して間違っているとは思わないのだから。
それらを踏まえ、私は、これからもこの考え方を変えることなく、かつてできなかった普通の日常の謳歌というものを今世における高校生活の目標としたいと考えたのだ。
実際、ちゃんと見てみると、日常を送れることはとてもありがたいことだとわかるし、当たり前の、何も変わったことがない小さなことでも非常に楽しかったりするのだ。そうしたことに気付くのはとても楽しいことである。
以上が、私が2度目の人生にも関わらず、当たり前の日常にいちいち反応する理由である。
「早紀、誕生日おめでとう。これ、プレゼント」
「姉ちゃん誕生日おめでとう! これ、プレゼント!」
「勇人のお姉さん、お誕生日おめでとうございます! 俺、プレゼント買ってきました!」
「早紀ちゃん、誕生日おめでとう! これ、早紀ちゃんに絶対似合うから!」
「北条さん、誕生日おめでとう。僕からはこれを」
「北条さん、おめでとう。これ、おいしいから後で食べてみて」
……今日は私の誕生日。そして前世の私の命日でもある。
家族や友人たちから祝福されながら……いや、私は今祝福されているのだということをしっかりと受け止め、感謝しながら、私は普段通りの生活を送っている。