第n回
燦々と降り注ぐ日差し。入道雲。青く広がる空の下。
ボロボロになった黒いサンダルを履いて、俺はふらふらと地元の商店街を歩いていた。
ああ。暑い。頭が重い。俺は何故ここにいるのだろう。
此の世に生まれ落ちて23年。俺ほど散々で、苦しく、惨めな奴はそうはいない。海外の発展途上国では飢餓があったりするそうだが、こと日本において、俺は相当に酷い人生を送ってきた自信がある。
両親はいない。親戚の叔父の家に住んでいる。俺の両親が死に、叔父は俺を引き取った。そうすればかなり大きな額の金が叔父の懐に入ったからだ。
俺は顔の作りが少し歪だ。他人から見るとかなり不快に感じるようで、俺の青春は最悪だった。
小学校では6年間、いじめに苦しめられた。そうしてそのままの地元の公立中学校へと上がり、いじめはエスカレート。トイレの便器の中に顔を突っ込まれ、個室に放置され、朝まで待ち続けたことも1度や2度ではない。もはやいじめではなく、迫害であった。あまりにも常識として浸透した俺への迫害に、教師は見て見ぬ振りをした。誰もが俺を気味悪がった。中学3年間で、同級生とまともな会話をした回数は恐らく片手で数えられるだろう。
高校生になれども、俺は俺だった。俺はひたすらに存在感を消し続けた。同級生から些細な暴行を受けて骨折したことや、財布を盗られたことなども数回ありはしたが、中学校までに受けたことに比べたら何ということはない。中学校までの俺を知る者は少なかった為、それほど気味悪がられることも、迫害されることもなかった。けれどもそれこそ本当に、俺は空気であった。
学校では散々な思いをし続けていたのだが、それは家でも変わらなかった。叔父にとって、俺のことなどどうでも良かったのだ。俺を引き取ることによって手に入る金だけが目的であったから。俺は高校卒業と同時に家を出ようと決意していた。学校も家も地獄でしかない。叔父と暮らすことに耐えられなかった。
小学校6年間、中学校3年間、高校3年間。俺は不登校になることなく、しっかりと学校に通いきった。何故そんなことができたのか、俺自身にもわからない。俺の心は、もはや何も感じなくなっていた。
ようやく全てから解放されたと思っていた、高校を卒業した次の日。叔父は倒れた。軽い段階ではあるものの、要介護認定されたのだ。叔父と二人暮らしだった俺に、他に頼れる親戚などいない。そして叔父が俺を引き取ったことで得た金は、とっくに使い果たしていた。
つまりは金がない。叔父を介護施設に入れることはできなかった上に、叔父を介護するのは俺しかいなかった。
それまでに受けてきたいじめの理不尽な暴行より、どんな精神攻撃より、叔父の介護が一番辛いものだった。
俺は叔父を憎んでいると言っても過言ではない。そんな叔父の世話をする。立ち上がらせたり飯の用意をすることが俺に突然義務付けられた。下の世話をすることもある。結局は、成人しても叔父の家から離れられないまま。
そうして今に至る。一週間前に俺は家を出た。数日であれば大丈夫だろうが、一週間介護が無くなると話は別だ。叔父は今頃何もできずに苦しんでいるだろう。
知ったことか。考えるのも面倒だ。もう殺人で捕まったって別に構わない。どう転んでも俺の人生は終わっている。
ただ、ただ一つだけの希望。俺の中にある光。彼女だけを除いては。
茫然としながら歩く俺。突然声をかけられた。
「人生リプレイ大抽選会。あなたは回しますか?」
俺は声の主がいるであろう右方向を向く。すると目の前には福引機。その奥に年配の男が立っていた。
「…………人生リプレイ?」
随分と久しぶりに声を発したような気がする。おそらくその感覚は正しいだろう。少なくともこの一週間は声を出すことがなかった。
「左様でございます。あなたが青の玉を出せば、人生をもう一度やり直すことができます」
「そうかい。青の玉が人生リプレイ。他の色は……、なるほど。とにかく人生リプレイができるんだな」
「はい。あなたの今の記憶は無くなりますが、あなたの望むことを一つ叶えた、新たな人生をやり直すことになります」
「記憶が無くなる……」
それは結構なことだ。俺の人生、消したい記憶ばかりだからな。
「ご安心下さい。あなたはまたこの街に、日本人として生まれ変わります。決して他の生物などに生まれ変わることはありませんので」
「人生リプレイするよ。回させてくれ。どうでもいいんだ、俺の人生」
「本当に宜しいんですか?記憶が無くなります。何か思い残したことはございませんか?」
思い残したことね。ああ、ないと言えば嘘になる。中学の時、酷く迫害されていた俺に、普通の同級生として話しかけてくれたあの子。気さくで、可愛くて、素直なあの子。
俺とあの子は別の高校へと進んだが、高校二年生の時、偶然にもコンビニで会い、また話しかけられた。
俺はあの子に話しかけられて、何も答えることができなかった。せめて会話がしてみたかった。どんなことでもいい、些細な話で。天気のことだとか、テレビニュースのことだとか。
あの子だけは、俺を人間として見てくれた。あの子だけは、俺にとっての。
俺はあの子に、どうしようもなく恋い焦がれて生きてきた。あの子が俺の、唯一の光。だけど、俺の中の存在でいい。俺の中の希望。きっとあの子は俺のことなどもう忘れているだろう。だからいいんだ。
俺はあの子を愛していた。その、俺の気持ちだけ。それが一番いいんだ。俺のような塵屑があの子に関わって、あの子の人生に一点の曇りでもつけてしまうくらいなら。
俺はこんな、どうしようもない人生だけれど、あの子という光があっただけ。あの子との運命があっただけ、俺はよかった。
ああ。俺もついにおかしくなったか。人生リプレイだとか、そんなものあるはずがないのに。このジジイが、何らかの振興宗教の入り口だとしても。もういいんだ。俺の人生、これ以上酷くなりはしないだろう。
人生を、リプレイさせてくれ。
「ああ。回す」俺は答えた。
「そうですか。ではどうぞ」
俺は福引機の取手を掴み、くるりと一回転させた。すると。
「青の玉です。おめでとうございます」
「じゃ、頼む」
「それではこちらの契約書にサインを。それから注意事項ですが……」
「ほら。書いたよ。注意事項はどうでもいい。さっさとやってくれ」
「では次の人生での望みが一つ叶えられますが、いかがなさいますか?」
「やり直せるならそれでいい」
「かしこまりました。では、いってらっしゃい」
なんだ。頭が。頭がぐらぐらとする。だめだ、座ろう。熱中症だろうか。いや、まさか本当に人生リプレイが始まるのか?
「言い忘れておりました。あなたが次の人生に旅立つまで、あと数分かかります。その間に、20ポイント特典を差し上げます」
「20ポイント特典?」
視界がぼんやりとしてきた。こんな状態でまたよくわからない話を聞くのか。
「はい。あなたは今回で人生リプレイ20回目のご利用になります。1回利用につき1ポイント貯まりますので、今回のご利用で20ポイントになりました。その特典ですが、あなたが次の人生に旅立つまでの数分間だけ、あなたに全ての記憶をお返ししましょう」
このジジイは何を言ってる。20回目のご利用だと? 全ての記憶を今だけ返す? 意識がぼんやりとしていて、頭がうまく働かない。
「どうぞ。あなたの20回分の人生の記憶でございます」
その瞬間。目の前でバチバチと光が弾けたような気がした。そして俺は。
そして俺は、全てを思い出した。
最初、俺は金持ちの家に生まれ、全てに恵まれながら生きていた。ただなんとなく退屈で、怠慢な人生を送っていた。だからこそ情熱が欲しいと、1回目の人生リプレイをした。
2回目。5回目。10回目。16回目。人生リプレイをする事に、俺の人生は悲惨になっていった。7回目以降は大学に進学していない。12回目以降は両親がいない。16回目以降はいじめを受けている。
どの人生でも、23歳の夏に人生リプレイをしている。何故繰り返している。そして繰り返しているのに何故、段々と人生が酷くなっているんだ。
『もちろん、人生リプレイはタダではありません。それなりのマージンをいただきます。そのマージンとは、あなたの幸せの10分の1でございます。あなたは人生リプレイされた場合、今の人生の10分の9の幸福で生きることになる、ということです』
そうだ。あのジジイは毎回説明していた。俺は既に19回人生リプレイをしていて、その度に10分の1の幸福を無くしている。まさか。
俺は薄れていく意識の中、なんとか声を絞り出した。
「おい。まさか次の俺の幸福は……」
「お分かりいただけたようですね。あなたの次の人生は、あなたの1回目の人生と比べて幸福が約12%程になります」
俺は一体何をしている。何故不幸になるのがわかっていながら、人生リプレイを繰り返していたんだ。
「人間というものは弱いものです。不満、嫌なこと、苦しいことがあれば、なんとかして逃げ出したいと思うのです。そんな時、人生をやり直せる、しかも1つ望みを叶えられるとしたら?そんな希望の逃げ道に、あなたは毎回逃げ込むのです」
「ジジイ、お前、殺してやる……」
「あなたの体はもう動きませんよ。それに八つ当たりは勘弁して下さい。記憶を一時的にお返ししたのは特別サービスなのですから」
こいつ。くそ。絶対に許さねえ。俺をめちゃくちゃにしやがって。もう視界がぐちゃぐちゃで何も見えない。許さねえ。殺す。こいつのせいで俺は何百年も悲惨な目に。殺してやる。
「お詫びしなければならないことがございます。前回の人生リプレイの際、あなたは次の人生で『愛』が欲しい、『愛』のある人生を送りたいと希望されました。しかしながら繰り返しの人生リプレイによって、あなたの幸福の絶対量が少なかった為、片思いという形でしか叶えることができませんでした」
「……か、片思いかどうかは、わか、らねえだろうが……」俺はやっとのことで声を発した。
「あの子はあなたのことを気持ち悪いと思っていましたよ。それに、あの子は今、昼間から年下の彼氏と性行為をしているところです」
「……やめろ……」
「片思いでいい、そうあなたは思っていましたよね? あなたはあの子を神聖視して、あの子が光だとか思っておきながら、毎晩一人であの子をあなたの妄想の中で汚していましたよね? だからあなたはあなたなのです」
やめてくれ。やめてくれ。俺は。ああ。あああ。やめて。俺はあの子が幸せにいてくれればそれで。他の奴と何をしていたって俺は。あああ。あああああ。
「ちなみにあの子の彼氏は中学校であなたをいじめ続けたグループの一人です。二人はとても愛し合っているようですよ」
もう何も。俺にはもう。何を憎めばいいのか。俺の心はもう死んでいるはずなのに、どうしてこんなに。その上、次の人生はもっと悲惨なのか。どうしてこうなった。俺が悪いのか。いつこの地獄から抜け出せるんだ。誰か、誰か俺を止めてくれ。俺の人生を終わらせてくれ。
「まもなく次の人生が始まります。お気をつけて。今回もご利用、ありがとうございました」
そう言って年配の男は深々と頭を下げたが、俺はその時、既に意識が無くなっていた。再び全ての記憶、感情、意思が消え去る。そうして次の俺へと魂が飛んでいった。
アロハシャツを着た年配の男はにやりと笑う。
「私も好きでこんなことをやっているわけではないのです。弱い人の心につけ込む、それだけがこの資本主義社会で生きる道ですから。どうかご理解ください。あなたのご多幸をお祈り申し上げます」
福引機の受け皿に、青い玉がころりと転がっていた。




