一瀬くんと仁科さん 1話(前編)
兄の営むカフェの前で雨宿りしている女性に声をかけたら―――――
「・・・仁科さん!?」
「一瀬くん?」
入学してからあまり話したことのないクラスメートでした。
一瀬渉はどこにでもいるようなごく普通の男子高校生・・・ということはなかった。どこがどのように普通でないのかはまた後ほど。そんな一瀬には歳が十離れた兄がおり、その兄が営んでいるカフェを学校帰りに手伝うことが彼の日課である。
入学式を二ヶ月前に終えたある日、いつも通り兄のカフェを手伝っていた一瀬は窓越しに見える華奢な背中に気がついた。女性のようであるその背中の向こうには激しい雨がうかがえる。さっきまで晴れていたのに、最近のゲリラ豪雨は本当に容赦がない。一瀬は彼女に店内での雨宿りを提案しようと扉を開けた。
「あの、もしよかったら店の中でお待ちになりませんか・・・」
一瀬の声に振り返る女性の姿に一瀬は目を見開く。その顔に見覚えがあった。できればこんなところで出くわすのは気まずいと思わざるを得ないクラスメート。一瀬は思わず彼女の名前を口にした。
「・・・仁科さん!?」
彼女はそのつぶらな瞳で一瀬を見つめ、口を開いた。
「一瀬くん?」
彼女の高く澄んだ声は、激しい雨音にかき消されることなく一瀬の耳に届いた。
「一瀬くん、お兄さんのお店手伝ってるんだね」
そう言って仁科涼子は店内を見渡した。ここへ来るまでに結構雨に降られたようである彼女はポニーテールや短い前髪から水を滴らせていた。一瀬は急いでタオルを仁科に手渡す。
「使っていいの?」
「いいよ。そのままだと風邪ひくでしょ」
「ありがとう」
目をまともに合わせようとしない一瀬と違って仁科はまっすぐ一瀬を見て微笑みながらタオルを受け取った。濡れた箇所をざっくりと拭いてからタオルを首にかける仁科に一瀬はカウンター席を勧めた。
「座りなよ」
「お気づかいありがたいけど、制服も少し濡れてるから座るのは申し訳ないな」
あっけらかんと答える仁科に一瀬は再度席を勧めた。
「別にいいよ。もし座るのが冷たいならこのタオルを椅子に敷けば?あと、これ、ひざ掛け」
一瀬はタオルをもう一枚と厚手のひざ掛けを仁科に差し出す。一瞬タオルとひざ掛けを見つめ、仁科は笑顔で受け取った。
「何から何まで、ありがとう。じゃあお言葉に甘える」
一瀬の提案通り新しいタオルを椅子に敷き、その上に座ってひざ掛けで自分の足を包みながら仁科は続けた。
「でも本当助かったよ。突然降りだして、傘持ってないし、コンビニも遠いし、誰かに連絡しようにも携帯の充電が切れちゃってて・・・」
「・・・仁科さん、今さら聞くけど、俺のこと怖くないの?俺、色々ウワサあると思うんだけど・・・」
茶葉の入った瓶の蓋を開け、計量スプーンを差し込みながら一瀬は尋ねた。仁科はきょとんとする。
「ウワサって・・・一瀬くんがすごい不良で身体のあちこちにタトゥー入れてて、喧嘩による傷跡もたくさんあって、お父さんはマフィアのボスで、学校の先生も一瀬くんには逆らえないってやつ?」
「まぁ・・・そう・・・・・」
そうなのだ。一瀬渉は決して愛想の良いとは言えない態度に加え、生まれつきの目つきの悪さ、金髪、ピアスという外見から不良だと恐れられている。そのため入学してからクラスメートと言葉を交わしたことは業務連絡を含めても片手の指が余るほどしかない。
仁科が一瀬の問いに答えようと口を開きかけた時だった。一瀬の背に盛大な笑い声が飛びつく。
「あっはっはっはっ、やっだぁ、あんた、そんなウワサあんの?」
「兄さん!」
一瀬は慌てて声の主に振り返り、声を上げた。スラリとした男性が笑う口元を手で隠して立っている。取り乱す一瀬を気にする様子もなく仁科は席から立ち上がった。
「一瀬くんのお兄さんですか。初めまして、一瀬くんのクラスメートの仁科涼子です」
「初めまして、渉の兄の一瀬薫です。このカフェを経営してるの。涼子ちゃんって呼んでもいいかしら?」
「はい、大丈夫です。それにしてもお兄さん、とてもお綺麗ですね」
「あらやだ涼子ちゃんったら褒め上手」
そんなやりとりをしている二人を一瀬は信じられないという表情で見ていた。苦い顔をしている一瀬の肩をおもむろに引き寄せ、一瀬の頬を人差し指で突きながら薫はニコニコと話を続ける。
「ちなみに渉のウワサだけど、髪は生まれつきこの色なのよ。私達ハーフアメリカン・ハーフジャパニーズなんだけど、弟には父の金髪が強く遺伝したみたいね。目元も父似。ピアスはアメリカ文化で子供の頃から開いてるわ。習慣みたいなものなのよね。父はホテルグループ、母はうどん屋を経営。タトゥーも喧嘩の傷跡も一切ないわよ。あるのはせいぜい子供の頃転んで怪我した傷跡が左膝にあるくらいじゃない?やぁねぇほんと、どこからそんなウワサが生まれたのかしら?見当違いも甚だしくて面白すぎるわぁ」
ナイアガラの滝のような勢いでしゃべる薫にされるがままになっていた一瀬はげんなりとしつつ仁科を見ると、仁科は一言こう頷いた。
「へぇ、そうなんだ。知らなかった」
『実はコーヒーより紅茶の方が好きなんだよね』と言われて相槌をうつような仁科の気軽さに、一瀬は驚いた。自分で言うのも変な話だが、自分の外見から生まれるイメージや兄の強烈な個性に戸惑われることはあれど、こんな風にさらりと受け入れられることは今までなかった。
「・・・仁科さんってあんまり動じない人なんだね」
「え?何か動じるようなことあった?」
「いや、別に・・・」
一瀬の一言の意味が本当にわからないというように首を傾げる仁科の前に一瀬はティーカップを置いた。
「はい、ハーブティー。良ければどうぞ」
「いいの?ありがとう。ハーブティー飲むの初めて。いただきます」
仁科は手を合わせてからティーカップを手に取り、口をつけた。
「おいしい!何のハーブなの?」
「カモミールとジンジャーとエルダリーフラワーと・・・」
仁科の問いに十種類ほどハーブ名を挙げる。
「え、そんなにたくさん?」
「仁科さん、雨で身体が冷えてるだろうから身体を温めるハーブを中心にブレンドして・・・」
「え、これ一瀬くんがわざわざブレンドしてくれたの?すごーい!」
一瀬の答えに仁科は驚いた様子を見せ、そして満面の笑みを浮かべる。
「ありがとう。一瀬くんってすごく良い人だね」
仁科の言葉に一瀬は目を小さく見開いた。
これまでこんな屈託なく笑って話してくれた人なんて、家族以外いなかったのに。
「ごちそうさまでした」
そう言って仁科はカフェのドアを開けた。仁科を見送るため一瀬も共に外へ出る。雨は気の済むまで降ったようで、辺りは湿っぽい空気で満たされていたが、それでも雲の切れ間から夕焼け色の空が見えていた。
「送ろうか」
「ありがとう。でも大丈夫だよ。お気持ちだけ、受け取っとく」
「そう。じゃあ、これ」
一瀬はそう言って仁科に小さな紙袋を差し出した。
「ハーブティーの茶葉、少しだけ。気に入ったみたいだったから」
一瀬の言葉に仁科は一瞬驚いたように紙袋を見て、それから嬉しそうに受け取った。
「いいの?ありがとう。うれしいな」
『それじゃあまたね』と手を振って帰っていく仁科に一瀬も小さく手を振り返した。そしてはたと気づいて猛烈な勢いで我に返った。
(え?何?なんで手とか振ってんの?俺)
まるで自分らしくない行動に気恥ずかしさを覚えて思わず手を見つめた。
(まぁ、別に今日しゃべったからといって明日から何かが変わるわけでもないか)
一瀬はこの時そう思っていた。
「おはよう一瀬くん」
翌朝、学校で自分の席に着きぼんやりと窓の外を眺めていた一瀬は頭上から降ってきた声に顔を上げた。そこには笑顔で紙の手提げ袋を持って立っている仁科がいる。その光景に周囲のクラスメート達がざわめくのを一瀬はポカンと口を開けて仁科を見たまま感じていた。
(あの一瀬ににこやかに声をかけている!とか思ってるんだろうな)
そんな風に考えていた一瀬や周囲の生徒を気にすることなく仁科は一瀬に手提げ袋を差し出した。
「これ、ありがとう」
「あ、どうも・・・」
一瀬は手提げ袋を受け取って中を覗く。昨日仁科に貸したタオルと可愛らしい小袋に詰められたチョコレート菓子が入っていた。
「もう返してくれんの?」
「うん。あ、昨日の今日だけどちゃんと洗って乾かしたから安心して。チョコレートはささやかだけどお礼」
別にそんなに急がなくても良かったのに。なんなら、そのままもらってくれても捨ててくれてもかまわなかったのに。そんなことを口にしようと思っていた一瀬の言葉を遮るように担任の九原貴志が教室に入ってきた。
「じゃあね」
仁科は笑顔のまま自分の席へと戻っていった。全クラスメートの視線が一瀬と仁科に行ったり来たりしている中、九原はホームルームを始めた。本日の出欠を確認し、九原は連絡事項を書き留めているであろう手帳を見ながら言った。
「先週配布していた三者面談の日程希望用紙、今日提出日なので後ろから前へ集めて出してください」
それぞれが自分の前の生徒へ用紙を渡している中、一瀬はなんとなく仁科の横顔を見ていた。
帰りのホームルームが終わり、一瀬はいつものようにさっさと薫の店へ向かおうと鞄を持って席を立った。教室の出口近くですれ違いざまに仁科と目が合う。
「一瀬くんまた明日ね」
「・・・あぁ」
誰とも分け隔てなく笑顔で接してくる仁科にどことなくくすぐったいような心地がして、一瀬はすぐに視線を反らして教室を出た。
下駄室へ来た時点で一瀬は仁科から返してもらったタオルを教室に忘れてきたことに気がついた。一瞬教室へ取りに戻るかどうか考える。特に急ぐものではない。
(でも)
脳裏に仁科の顔が浮かぶ。
(せっかく今日持ってきてくれたんだから、きちんと持って帰ろう)
そう決めて一瀬は踵を返した。
校舎の二階にある教室へと続く階段に差しかかったところで上から声が聞こえてきた。
「そういえば今日隣のクラスの奴に聞いたんだけど、仁科って女子が一瀬渉に笑顔で話しかけてたらしいぜ」
「マジで?」
自分の名前が出てきたので一瀬は慌てて階段の影に隠れるようにして立ち止まった。男子生徒が二人並んで階段を降りてくる。一瀬の存在に気づくことなく彼らは会話を続けた。
「マジマジ。よく平気で話しかけられるよな、俺怖くてできねぇわ」
「その仁科って子も普通じゃないんじゃねぇ?」
「かもなー」
その明らかに嘲っているような口調に一瀬は腹の底から怒りが湧くのを感じた。
(たしかに仁科さんはちょっと変わっているかもしれないけど・・・)
だからと言って彼女のことをよく知りもしない奴にそんな風に言われる筋合いはない。
一瀬はおもむろに階段の影から出て階段を上り始めた。先ほどの男子生徒達はまだ三段ほど上にいる。突然現れた一瀬を見て驚いて立ち止まっていた。そんな二人の横を通り過ぎる瞬間一瀬はしっかりと彼らを睨みつけた。
「よく知りもしない人の陰口を叩けるなんてずいぶん立派なご身分なんだね。ぜんっぜん羨ましくないけど」
そう言って一瀬は青ざめて動けないでいる二人をそのままに階段を進んだ。ちょっと横目で見ただけで怯えられるくらいの一瀬だ。きっちり睨んだのなら相当の迫力があっただろう。一瀬に睨まれた男子生徒二人が再び動けるようになるまでたっぷり三分かかったことは一瀬も知らない。
一瀬が教室へ戻り、タオルの入った手提げ袋を手にした時には教室に仁科の姿はなかった。けれど、一瀬が再び下足室へと向かう廊下の途中で仁科が反対側から歩いてくるのが見えた。仁科も一瀬に気づくとパッと顔を綻ばせた。
「一瀬くん!もう帰ったと思ってた」
「教室に忘れ物を・・・。仁科さんこそ帰ったと思ってたのに」
どちらからともなく向かい合うように立ち止まって言葉を交わす。
「三者面談の日程希望用紙家に忘れちゃって、昼間お母さんに連絡して今もう一回書いて提出してきたの」
「そうなんだ」
仁科は用紙を忘れてきたことを少し気恥ずかしそうに話す。そんな仁科を見て、一瀬は先ほどの男子生徒達の言葉を思い出した。
『仁科って女子が一瀬渉に笑顔で話しかけてたらしいぜ』
『その仁科って子も普通じゃないんじゃねぇ?』
正直、仁科の屈託のない笑顔や言葉は一瀬の中で色々まだ戸惑いはあるものの、なんとなく手放しがたいようなものになりつつある。けれど、このまま彼女の態度に甘えてしまうことで、彼女が謂れのない陰口を囁かれるのは本意じゃない。大丈夫だ。今ならまだ、すぐに前の『一人が楽な日常』に問題なく戻れる。
「もらった日にお母さんに渡したし、お母さんからもすぐ返ってきたのに鞄に入れるの忘れちゃってたみたいで・・・」
「あのさ」
一瀬の考えなど知らない仁科は何事もないように会話を続けていた。一瀬は申し訳ないと思いつつ、意を決して口を開いた。
「無理して俺に話しかけてくれなくていいよ」
「え?」
突然の一瀬の言葉に仁科はきょとんとしている。一瀬はかまわず続けた。
「俺みたいな奴と関わってるって周りに思われたら仁科さんだって何言われるかわかんないよ。自分の評判下げてまで俺と話したりするメリットもないでしょ。だから・・・」
そう言いかけたところで一瀬は仁科に左頬を摘ままれた。何が起こっているのか一瞬理解できず、一瀬はされるがまま驚愕して仁科を見た。
「にひなはん?」
「評判が下がるって何?」
一瀬の頬を遠慮なく摘まみながら仁科は言った。眉間に皺こそ寄っていないが、真剣な表情には少しばかり怒りのようなものを感じる。まるで幼い我が子を叱り諭す母親のような目だ。
「クラスメートになって二ヶ月、きちんと話して二日、私は一瀬くんが授業中真面目にノートとってるの知ってるし、お兄さんのお店手伝っててすごいとも思うし、優しい気づかいができるところも見習いたい。それだけでもうウワサの一瀬くんとは全然違う。たしかに一瀬くんのこと色々決めつけている人もいるかもしれないけど、『どうせ誰も自分をわかってくれない』って周りを決めつけてるのは一瀬くんでしょ」
そこまで言うと仁科はパッと一瀬の左頬を解放した。そしてそのまま人差し指で一瀬の胸元を示す。
「反省、してください」
そう一言残し歩き去っていく仁科の背中を、一瀬は摘ままれた頬を抑えながらただただ呆然と見送った。
(なんで?)
左頬にじんわりと摘ままれていた感触が残る。
(なんで俺が怒られてんの?)