独断的「こんな小説は読まない」
人によっては不快感を覚えるかもしれない内容となっている可能性あり。
まず最初に伝えておくべき事として、これはあくまで手記的なもので単なる独り言の枠を超えるものではないというものである。
という事でさて昨今、異世界転生物が大流行し始めてから長いこと経ったが、未だに一向に陰る兆しもなくウイルス的に増え続けていることはこのサイトに足繁く通っている者なら共通理解であろうと思う。
私としては嫌いなジャンルではないし、非常にユニークで機知に富んだ面白い作品も多々あるので、そこについて何ら不満に感じるところはない。
といっても10に7,8ぐらいは完全にどっかで見たような内容を転写して組み合わせたかのようなパズル的もので、何のこだわりも独自表現もなく到底何時間も読める代物ではないが、それはこのジャンルに拘らずどこにだって蔓延していることなので今更特別どうということはない。好きにやってくれと思うばかりである。
ならば、ではなぜわざわざ取り上げたのかだが、それはもう常々必死に堪えていた我慢の限界が訪れたからとしかいいようがない。
何に対する我慢の限界か。それは「小説のタイトル」である。加えるなら「あらすじ」もだ。
まず、小説のタイトルというものは人間に置き換えれば「座右の銘」に他ならないと私は考える。
その人物を一言で表すなら、自分という人間を一言で表すならどういう言葉になるのか、それが小説におけるタイトルというものである。
いやいや、タイトルを人に置き換えれば名前じゃないのかと思う人もいるかもしれないが、自分の名前を自分で命名する人はまぁまずいないだろうし、名前が人間を表すかといえばそんなこともないのでタイトルとは違うといえる。
山田太一という名前を聞いただけでは年齢や社会的地位がわかるはずもなく、どんな人生を歩んできたのかなど推測するとっかかりすらもないだろう。
が、「山田太一は英雄になりたい」だったら、色々とわかることも出てくるし様々な推測が成り立つ。話の展望すら幾らか想像しうることもあるかもしれない。
小説のタイトルとはつまりそうあるべきで、あくまで読者の想像を煽る看板という位置づけであるわけだ。
あらすじはそのまんま自己紹介そのものであり、座右の銘の一言だけでは表現できない残りの部分を補足するものであると私は考える。
パン屋さんを例にあげれば、ベーカリーショップ「ひまわり」だけでは何が売りなのかがわからないが、補足として「いつでも焼き立てのバターロールが自慢の一品です」とあればバターロール好きは惹きつけられるだろうし、「いつでも」ということは店内工房で作り続けているのだろうこともわかれば、そうすれば他にも焼き立てのパンが多くあるのかなという想像も容易につくことだろう。
そして、それこそがタイトルとあらすじの正しい関係だ。
「〇〇PV達成!」とか何の足しにもならない下らない自己満足を垂れ流すようなところでは決してない。
まぁ想像してほしい。
本屋で書籍を購入していざ表紙を開いてみたらまず真っ先に「10万部売れました! by作者」とか書かれていたら、果たして「こいつは面白そうだ!」となるだろうか?
個人的には断じてノーだ。真っ先に浮かぶ言葉は「帯でやれ」であり、小説内でいうべきことでは絶対にない。
大体「あらすじ」に作者が登場した挙句、現実の出来事を書くなんてのはメタもいいところだ。それは最早あらすじでもなんでもないしその時点で読む気は完全に失せる。
そしてタイトルにしてもひどいものだ。
先述したが、タイトルとは座右の銘であり、ぐだぐだと説明する場所ではない。
よくある感じで例をあげれば特にひどいのはこの手のものだ。
「異世界に転生しましたが、これからなにをすればいいのだろう」
知るか。
大体、だれがだれに聞いてるのか?
作者が読者に聞いているとしても論外だし、小説中の人物が小説外の人物に聞いてるとすれば完全にメタである。
もう1つ。似ているのでわかりづらいかもしれないがこういうパターン。
「最強魔王が隠居して農民になりましたがなにか?」
もう一度がいうが、知るか。
まず質問もしていないのになぜ最初から反論口調なのか。
私はそれほどあなたに興味はないし、あなたがどこで何をしようが知ったことではないので好きにしてくれとしか言いようがない。
おまけでいうならば私はこの「なにか?」というフレーズが死ぬほど嫌いである。単純に腹が立つからだ。読者に喧嘩を売ってどうするというのか。
そして、この手のタイトルは確実に断じて間違いなく、隠居もしてなければ農民ですらない。
なにをすべきかを誰かに問いかけた転生者さんも自分で勝手にやるべきことを決めているし、そうすればタイトルは最早何も表していないことになる。本末転倒もいいところだ。
「〇〇が国を作ります」というのもあるが、これも同じことだ。大体真っ先に国を作って、その後は全然違うことをしはじめる。タイトルが表したのは最初の数ページぐらいのもので、後はすべてタイトルとは無関係な小説となっている。
もう一つ加えていうなら、この手のものは地の文が敬語でもないのになぜタイトルだけ中途半端に敬語なのかという点でも意味不明である。
だったらこのタイトルは誰が言っているんだ?という結論に終始せざるを得なくなるだろう。
話は少し戻るが、まず第一にタイトルに句読点をつけるのは句読点が句読点以上の意味を持っている時だけ許されるべきで、小説の中身について説明したいのであればあらすじでやるべきである。
句読点以上の意味を持つ句読点というのは、それが物語中で重要なフレーズに成りえる文言であったり、何らかの意味や意思が込められているゆえに打たれたものを指している。その手のものは読んでる中でタイトルはこういうことだったのかと納得できたり、読み終えてはじめて実感できる良質なタイトルであると感動できるものとなる。
これらに関しては単に好き嫌いで述べているわけではなく、タイトルがパッと一目で読めるということはそれだけ覚えやすく惹きつけられやすい何かがあるということで、句読点だのをつけてまで長々と書かれたタイトルというのは逆に記憶に残らなくなるものなのだ。だからこそ話し言葉のタイトルというのはその文言に重要な意味を持たせなければならない。
そういう意味で特に見習うべき小説をあげるなら、某粘性生物に転生した現代人が最終的に現代に蘇ってタイトルを口にしたところで終わるものがある。もっといえば「~~だった件」というものだ。
句読点こそ入ってないが、これが素晴らしいのはタイトルの意味が小説の読みだし一発目にわかることと、タイトルが話し言葉であることが最後の最後にきて意味を成すということだ。
この程度の意味があれば仮に句読点が入っていたとしても記憶には残る。
逆に作中では絶対に言わないフレーズがタイトルであったり、どっかで見たようなフレーズを適当に並べただけあったり、一息に覚えられない程の文章を書くというのはマイナス効果のほうが大きいのである。
とまぁ、まさに独り言の極みのようなことばかり述べたが、頭で言ってあった通りこれはあくまで独り言であり、単に私の不満をぶちまけただけで落書きの枠を出るものではない。
だがしかし、もし自分で小説を書いているというものがこれを見たのであればこういう意見もあるのだと覚えておいてもらいたい。
小説とは自己満足と自己陶酔を露出公開して文字に起こしたものだが、人に伝える為に文字にしているのだと自覚してほしい。
何万PVと獲得して嬉しいのはわかるが、それを人に伝えてそのあとどうしたいのかなど読者にとっては何の興味もない話なのだ。
読者はその小説に興味があるから読むのであって、作者に興味があるわけではない。
作者が生み出す作品を好きだからこそ作者に初めて興味がわくもので、小説より先に自己アピールを始める作者というのは小説家として大失格もいいところなのだ。
おわりに、これを読んだ現在進行形で小説を書いている人や、これから書こうと意気揚々としている人には是非何かを感じてほしいものである。
タイトルとあらすじを適切に表現するのは難しいことではあるが、だからこそ力を入れてほしい。
パッと思いついたフレーズでもいいが、それが小説の中身から置いてけぼりになっていないかだけはしっかりと考えてもらいたい。
願わくば、あらすじのようなタイトルが撲滅されんことを。