杜若の幸せ
私はグラスを傾けて、オレンジ色の液体を飲み込んだ。
静かな音楽と薄暗い照明で重苦しいとまではいかないが、ゆったりできる空間をつくりだしていることは確かだろう。
ここはホテルにあるラウンジバー。
平日ということもあってか、そう広くない店内にはお客さんもまばらで、私はカウンターでゆっくりとお酒をのむことができた。
一つ離れたところに、一人の男の人が座る。
「こんばんは。軽く飲めそうなの、一つ作ってくれますか?あんまり甘くないやつ。」
腰掛けながらさらりと注文する男。
かなり慣れているなぁという印象をうける。
「かしこまりました。ウォッカがベースでもよろしいでしょうか?」
さらりと対応するマスターをみて、やはりここのラウンジはこのマスターだからこそ来やすいのだなと実感する。
意識を自分のお酒に戻し、
ゆっくりと味わう。
オレンジが好きな私は必ずオレンジベースでなにかをつくってもらう。
濃さはどうでもいいがミントは嫌い。
スーっとするものがダメ。
それだけだが、マスターにとってはそれだけで十分なようで。
毎回出してくれるカクテルが私のお気に入りになる。
「やっぱりおいしい。いつもありがとう。」
「こちらこそお褒めに預かり光栄です。いつも美味しそうに飲んでくださりますから。作りがいがありますよ。」
にっこりとグラスを拭きながら答えるマスター。
マスターというには若すぎるのかもしれない。年齢は聞いたことはないが、おそらく30代前半。もしくは20代後半。
こんなに若いのに客への対応もお酒も絶妙で、私のようにこのマスターにハマる客は少なくないだろう。
「…ね、あの人に一杯あげてくれますか?あの人をイメージしたカクテル。」
私はどんなものをつくるのかと期待して、先程の男性を指差す。
「……あの人、ですか?」
少し動揺したように感じた。
「え?なにかまずいの??ごめんなさい、悪い癖ですよね。」
私はいつも一人できている誰かを見つけると、その人をイメージしたカクテルをつくってもらう。
「あ、いえ!大丈夫ですよ。」
慌てたように訂正して、なにかを作り出す。
「ほんとに大丈夫ですか?わたし、いつもマスターに無茶振りするから…。マナーがなってなかったらいつでもいってください。」
「いえ、バーなんて楽しくおいしく飲んでくれればいいんです。マナーなんて特にありませんよ。」
そういいながらもマスターの手は手早く動いていて、グラスに紫色の液体を注いでいく。
「紫?珍しいですね。紫だなんて。」
「えぇ、まぁ。」
マスターは曖昧にわらう。
今日のマスターはちょっといつもと違う。
そんな気がした。
グラスをとってその男の人の前に置く。
「ん?これは?」
「あちらのお客様からです。」
カクテルを受け取った人が少し驚いた様子を見せたあと、スッとこちらを向いた。
「どうもありがとう」
甘いような、男らしいような、不思議な声だった。光の加減で顔はよく見えない。でも、スマートなしぐさといい、イケメンだ。じゃなきゃなんとなく許せない。うん、彼はきっとイケメンだ。
「~…なの?」
「え?ごめんなさい、なんて言いました?」
顔を予測していたら彼の言葉を聞きのがした。
彼は少し笑ったようにもう一度聞き返してくる。
「いや、なんでこのカクテルなの?って。紫なんて珍しくない?」
「あ、それ、マスターにあなたをイメージしてつくってもらったんです。味、どうしです?」
「え?これ、俺イメージなの?」
彼がマスターにきく。
「そ。どう?」
マスターが気さくに返す。その気さくさに私は少し驚いた。こんなに気さくなマスターを見るのは初めてだ。
「いや、おいしいけどさぁ…」
何か言いたげな彼と、余裕そうなマスターを目の前に、私は目が点のまま動けなかった。
すると、その様子に気がついたマスターが説明してくれる。
「じつはね、知り合いなんだ。」
なんの知り合いですか、と聞きたいところだけど、人のことをよくみてるマスターが私の疑問に気がついていないはずがない。
それなのにあえて話してこないということは、聞いてほしくないということだろう。
「そうなんですね、そんな気さくなマスター見たの初めてだったから驚きました。」
私がそう答えると、今度はカクテルを飲んでいたとなりの彼が驚いた顔でわたしをみる。
なにかおかしな返しをしたのだろうか。
「え、なんか失礼なこと言いましたか?私!」
「いや、ちょっとびっくりして。」
「は?」
出口の見つからない会話に思わずなにいってんだコイツ、というニュアンスの声を出してしまう。
クスクスと腕で顔を隠しながら笑っているマスターをみて、あわてて自分のしたことを謝る。
「ごめんなさい!私、考えるより先に口に出ちゃうタイプで!!」
フォローともとれないような自分の欠点をただたださらすようなセリフ。
「いいよいいよ、面白いし。てかさ、よかったら一緒に飲まない?」
「え?こんなわけのわからない女と?」
また考えずに口から出てしまった。
隣の彼はもう笑いがおさえられないようで最初はニヤニヤしている程度だったのが、今は手で口元を隠しながら話をしている。
「そ、そのわけのわからない女と。隣おいでよ。」
「あ、じゃあ…失礼します。」
いそいそと荷物を持って彼がひいてくれた椅子に座る。
「あの、お名前は…」
椅子に座り、そう問いかけながら顔をみて私は固まった。
いや、実際はたぶんほとんど停止などしてはいないのだろう。
人間ってよくできてる。
どんなに驚いても固まってはいけないときはいけないとわかっていて、思考回路とは別にきちんと体は動いているのだ。
私を固まらせた彼は、
私の大好きな俳優、松宮 翔だった。
なぜ、どうして、彼がこんなところに。
こっそりとマスターを盗み見るとニヤリと笑っている。
私が彼のことが好きなのは百も承知のはず。だってマスターに彼の出ているDVDを押し付けたことまであるんだから。
彼がどうしてどこであったのか、なんの知り合いなのかを話さないのかがやっとわかった。
「んー……名前ねぇ。」
ご丁寧なことに、私が衝撃的事実の対応をしている間に彼はゆっくりと先程の質問を考えてくれていたようだ。
「あ、名前でなくても。せっかくお酒を飲んでいるんだもの。日常を忘れるためにも、ニックネームとかどうですか??」
なんて、助け船をだす。
早口になっていなかったか、とか
不自然じゃないか、とか。
そんなことばかりが頭をまわる。
手汗がひどい。
「たしかにそうだね。そんな無粋な真似はしたくないし。んー…ゆかり、にしようかな」
「ゆかり??」
「そ。紫、って書いて ゆかり。」
そういいながら紫色のカクテルを掲げる彼。
「なるほど、いいですね、それ。なら私は…みかんから文字ってみかにしようかしら。」
わたしも自分のグラスを持ち上げる。
「みか、ちゃんね。よろしく。」
「こちらこそ、ゆかりさん。」
二人して含み笑いをする。
なんだかくすぐったいのだ。
「あ、そういえば!その紫のカクテル、どうでした?味気になるんですよ~!」
「そのまえにさ、みかちゃん」
恥ずかしくて下げた目線の先にあった紫のカクテルを見つめながら問いかけると、とんとん、と肩を叩かれ下げていた目線をあげる。
「敬語、やめない?年齢も職も住んでるところも、気にするのはなし。ね?どう?」
ニコッと爽やかな笑顔でそういう彼。
こっちからしたら願ったりかなったりだ。
「私は構いませ…あ、大丈夫だよ!」
「じゃあそうしよ。」
ホッとした笑顔を見て、職を聞かれるのを恐れていたのかな、なんてつい思ってしまう。
きっと大変な職業なんだろう、思っている以上に。
「で、この紫のカクテルは?どう?」
「おいしいよ?ただ、俺のイメージでこの味ってのがなぁ。」
「なに系なの?」
「んー、エスニック?」
「わからなっ!説明下手ですか!」
二人であははと笑い合う。
いつの間にか別の席のオーダーを聞きに行っているマスターも、遠くから微笑んでいた。
どうせ普段疲れる職なんだから、少しでも仕事を忘れて楽しんでほしくて、普通のくだらない話をたくさんした。
「あー!だいぶ酔っ払った!」
「ほんと!俺もだよ!」
「ちょっとお手洗い行ってくるね!」
「おー!」
ついつい話が面白くて身を任せて飲んでいるうちに、だいぶ酔っぱらっていたようだ。
お手洗いを済ませて席に戻ると、頬杖をしたまま彼は寝ていた。
「忙しいんだろうなぁ……」
そう呟くと、マスターが彼を優しく見つめながら答えてくれる。
「こいつとは、高校の同級生なんだ。わりとずっとずるずると仲良くしててさ。バーってこともあるのか、大きな仕事が終わると、報告しがてらお酒のみに来てくれんの。」
「高校の……。今日、彼、たぶんドラマのクランクアップ日です。」
それを聞いたマスターは驚いた顔をする。
「え、そんなにファンだったの??」
「どういうことですか??」
「いや、てっきりミーハーかと思っててさ。」
マスターは気まずそうに笑う。
「まぁ、DVDおすすめした時期が時期でしたからね。ミーハーと思われても仕方ありませんよ。」
私も笑いながら席に座る。
「でもね、マスターにおすすめしたあのDVD。すっごく話題になっただけあってほんとによくて。しかも彼が初めて演出にまで関わった作品だったんですよ。だからこそ彼ならではの役になってた。それが嬉しくて。彼の魅力を知ってもらうならあのDVDが一番早いんですよ。」
本人前に言うような言葉じゃないですけど、とマスターに付け足して言う。
「いや、こいつもそう言ってた。聞いたら喜ぶよ。」
「そうだったら嬉しいです。」
私は気に入った彼をイメージした紫のカクテルを飲み干す。
あのあと、彼にいくら聞いても味がわからないので、結局私も注文したのだ。
「それ、気に入ったんだ。」
「はい。とっても。私、オレンジ以外でもいけるのかもしれないです。」
「それ、きっと飲むだろうなと思って最初から飲みやすいようにしておいたんだ。」
「そうなんですか?じゃあやっぱりマスターの手腕なんですね~」
私は笑って席を立った。
その姿を見て、マスターが慌てる。
「え?帰るの?」
「はい。これ以上はゆかりさんの迷惑だもの。」
「こいつ、まだ飲み足りないと思うよ?」
マスターがちらりと彼をみる。
「だからこそです。私が居たらよりいっそう長くなるもの。早く帰って休んでほしいんです。」
「なるほどね、ファンに勝る愛はないわ」
お手上げだ、というような格好をするマスター。
「お会計、ください」
「え?いや、それはさすがに…」
「日頃のお礼ですよ、元気を分けてもらってるんですから。彼には、これ以上飲まないように先にお金を払っておいたって伝えてください。」
「いや、でもこいつだって男だし稼いでる訳だしさ~…」
「今夜はそういうの、一切なしって最初に約束しましたもん。」
つんっとそっぽを向く。
「弱ったなぁ~」
「彼らって、私たちに与えてくれるだけなんですよ。いつも一方的。私たちから何かしてあげられることってほんと少ないんです。ファンとして、こんな機会逃すわけにいきませんよ。それとも?私が払えないくらい稼げてないOLだとおっしゃりたいのかしら?」
私はニヤリと笑いながらいった。
「わかったわかった。もー、あとで俺が怒られるんだからね?」
「あら、怒られたら レディーのことを待てずに寝た方が言える言葉なの?っていってあげてください。」
「とことんいじめるなぁ。」
「普段はちやほやされるばかりでしょうからね~時にはこんな女もいいでしょ?」
「ごもっとも。」
クスクス笑いながらお会計を出すマスター。
「マスターもありがとう。」
「ん?なにが??」
「最初戸惑ったのって、ゆかりさんが彼だからでしょ?でも、私が好きだって知ってたのに会わせてくれた。ありがとうございます。」
お金を手渡しながらお礼を告げる。
「さすがですね。バレてたんだ。でも、僕はあなたなら大丈夫だろうと思って引き合わせたんですよ。」
「ご期待に添えました?」
「むしろ一本とられた気分ですよ」
私が出口に向かうと、マスターがわざわざついてきてくれた。
「わざわざお見送りまでありがとうございます。ごちそうさまでした。」
「いやいや、こちらこそありがとう。また来てくださいね。」
「もちろん。彼にもよろしくお伝えください。」
マスター越しにみた彼は寝ている後ろ姿だった。
大好きです、いつまでも。
後ろ姿にそう投げかけてから、エレベーターに向かって歩き出す。
「あ、ねぇ」
数歩行ったところでマスターに呼び止められる。
「どうかしましたか?」
「あのカクテル、紫の。名前決めたよ。」
「名前??」
「そう。杜若、って名前にする。」
「かきつばた?ってあの花の??」
「そう。どうかな?」
「私、あんまりお花のことわからないから…かきつばたってどんな花なの?」
「検索してみて、お家かえったらさ。」
「そうします。ごちそうさまでした!」
もう一度お礼を告げてからエレベーターに乗り込む。
階数の表示がどんどん下がっていくのを見ながら、杜若が気になって携帯で検索する。
たしかに紫色の花だが、カクテルの色とは少し違う。
「なんで杜若なんだろ。」
独り言をいってももう返してくれるひとはいない。
外に出ると少し肌寒い。
通りに出て、私はタクシーを拾って乗り込むと、住所を告げるやいなやたちまち眠ってしまった。
次の日、出勤してパソコンを開けると昨日の彼がトップ画面にいる。
いまだに昨日の自分が信じられない。
ボーッとデスクトップのまま彼を見つめていると、同期が声をかけてくる。
「あ、そーいや松宮翔、今日テレビ出てたね。クランクアップって。」
「あ、ほんとー?テレビ見てないの、今日」
「珍しいね、あんたがチェックしてないなんて。クランクアップ日、知らなかったの?」
「ううん、知ってた。でも見忘れた。」
「へんなのー。雪なんて降らさないでよー?」
そういいながら去っていく同期。
見忘れたのではない。
見なかったのだ。
昨日のことを大切にとっておきたかった私は、現実を見たくなかっただけなのだ。
こっそりと、デスクトップを杜若へと変える。
二度とない幸せな夢。
誰にも話すことはないけど、証拠を残しておいてもバチは当たるまい。
またボーッとデスクトップをみていると朝礼の合図。
どうやら上からおりてきた仕事のせいでこれから当分は忙しくなりそうだ。
うまく仕事をさばけなかった上司に心のなかで悪態をつきながらも、今後の見通しをたててさらに部下に仕事を振る。
とうぶんはバーに行けそうもないな、と諦めながらも頭を冷やすのにはちょうどいいかと思い直し、キーボードを打つ作業に集中した。
「こんばんは。」
結局、バーに来れたのはあれからニ週間以上たったあとだった。
「お久しぶりですね。」
「やっと仕事が片付いたんです。」
「てっきり、あれに懲りて来ていただけなくなったのかと。」
マスターがクスクスと笑う。
「まさか!でも、あんな夢のようなあの日のことは封印したんです。」
「封印?」
「そう。あんな幸せに浸かっていたらいつまでも仕事が手につかない。」
苦笑いをしながらそう言い、杜若ください、とつづける。
マスターはちょっと待っていてください、と言って席を離れたが、しばらくして戻ってきたときには手に紫色のカクテルを持っていた。
「みかさん、杜若は封印しないんですね。」
封印するといったすぐあとに頼んだ私をからかうマスター。
「杜若はいいの!これはおいしいもの。それに、あの日がうそじゃなかったことの証明です。このお酒は。」
「…そんなにすごいことだったんですね、みかさんにとっては。」
私はこくり、と大きくうなずく。
「だからね、マスターがいま私のことみかって呼んでくれてるのも嬉しいの。あれがうそじゃなかったことの証明だもの!その名前も。」
「お名前を知らないので、ついついアイツから聞いた名前で呼んでしまいました。」
マスターは、あのあと大変だったんですよ、と前置いてから、起きてから私がいないことに焦っていた様子や、お会計が済んでいたことにおどろいていたことなどを、身ぶりまでつけて詳しく話してくれた。
「笑っちゃ申し訳ないかもしれませんが、なんとなく想像がつきます。」
私はその姿を想像してニヤニヤとしてしまう。
「お会計のこと、だいぶ怒られまして。なので言ってやりましたよ、みかさんが言ってたセリフ。」
「あぁ!寝てるあなたが悪い、みたいなことでしたっけ?」
私がニヤリと笑うと、マスターもそのときの彼の姿を思い出したのか、クスクスと笑い出す。
「そうです。グッと押し黙っちゃって。挙げ句の果てに仕事場教えろだの、連絡先教えろだので。」
「え、彼がそんなことを?」
考えるだけで笑みが止まらない。
あの彼が。そんなことを。
「そうですよ?めちゃくちゃな帰り方をしたみかさんのせいですからね。」
「ご迷惑おかけしてすみません…」
「おかけしたって顔してませんけどね。まぁ勤め先も連絡先も知ってますけど、そんなこと教えたら信用問題ですから。」
「そりゃたしかに。」
バーに勤める人ほど情報過多な人間はいないと聞く。
実際、わたしもマスターと緑色のアプリで連絡先を交換していた。
あのアプリだと、名前も、あだ名に設定しておけば本名はバレずにすむ。
「ですが、私は迷惑かけられた側です。」
「まぁ、それもそうですね。」
その点に関してはなにも言えない。
私のわがままで去ったのだから。
「それに、私とみかさんの間柄ですし。」
「本名も知らないのにどんな間柄ですか。」
私はクスクスと笑う。
「なので、法に引っ掛かるか引っかからないかのグレーなラインを攻めさせてもらいました。」
「…は??」
「私からの罰ですよ。」
「…罰??なんのこ…」
ダンッ!!!!!!!!!!!!!
私が話している途中、ものすごい足音と共に思い切り机を叩かれた音で反射的にそちらを向く。
「…え」
「ねぇ、みかちゃんさ、フツー置いて帰る?酔っぱらってる人のことをさ。」
「ゆ、かりさん…?」
息を切らして立っている彼がいた。
「そ。ゆかりさんですよ。…てことは、あの日のことは忘れてないわけね。じゃー、酔っぱらってトイレから戻ったら知らないやつが寝てて慌てて帰ったっていう訳ではないと。」
彼はにっこりとした笑みを浮かべている。
「ゆ、ゆかりさ…怒ってる??」
「怒ってはない。ただ、イラついてはいる。」
ほとんど一緒じゃねーか!というツッコミは心のなかだけにしておく。
「あー、えっと…ごめんね??」
「みかちゃんさ、とりあえずのごめんなさいってごめんなさいとは言わないの。わかる??」
ん??と満面の笑みを浮かべながらほっぺたをつねり出す彼。
「痛い~!ごめんって!だって寝てたのそっちだし!てかなんでここにいるの!?」
「ん?みかちゃんがいるって聞いたから」
「は!?誰から聞い…」
つねられていたほっぺたが解放されると同時に、誰が教えたかピンとくる。
おまえか……
左に首を向け、マスターを見た。
「居場所を教えるのはグレーですよ。」
にっこりとした笑みを浮かべていけいけしゃあしゃあと言い切る。
なるほど。罰とはこの事か。
「起きたときの落胆と言ったらもう!目開けたらこいつしかいねーし!」
人差し指でマスターを指す。
やれやれ。といった顔をしながらさりげなく彼へのお酒を出して、奥へ引っ込んでしまうマスター。
「あー…無言で帰ったのはごめんなさい…」
「お金まで払いやがって!」
「いやそれは…」
彼が松宮翔だと知っていることを伝えずに、お金を払った理由を説明する言葉を探してうろたえていると、彼が先に口を開いた。
「知ってる。」
「え?」
「聞いたよ、マスターから。」
そう言って、この間のように隣に座る彼。
「知ってたんだろ?俺が誰かって。」
「……。」
「知ってるなら言ってくれればよかったのに。なんで黙ってたの。」
攻めたような言葉に思わず下を向く。
「ごめん。あなたが彼だってわかったのが、名前を聞いたタイミングだったの。わかったけど、わかったなんて言ったら迷惑かと思って…」
「だから言わなかったわけ??」
「…ごめんなさい」
しばらく沈黙が流れる。
すると、隣からクックックという声が聞こえてきた。
おそるおそる顔をあげると…
「そーいうとこなんだよなぁ」
満面の笑みの彼がいた。
「え?なんで?なんて?」
「いや、だから、俺的にさ、そういうとこがツボだったわけ。わかっててあえて聞かないって言うの?俺とマスターの関係にも口出さなかったし、話してる間もホントにプライベートなこと聞かなかったし。」
「いや、それは、ほら、嫌なのかなって」
「それそれ、そういうとこ。そこが、俺的にみかちゃんを気に入る要素だったわけ。」
「はぁ…」
「俺だって、バレる危険があるからね。誰にでも話す訳じゃないけど、マスターが話を俺にふるってことは大丈夫ってある程度のお墨付きだろうし。どうせお互い一人なら飲もうかな、みたいな。」
さらりと言ってのける超有名人。
「はぁ…」
「今みたいにあからさまに納得してませんって顔なのも、わかりやすくていいな、とは思うけどね。」
ニヤニヤと笑っていた彼が突然、わたしの方に向き直る。
「松宮翔、32歳で独身。職業は俳優で、芸名も一緒。マスターとは腐れ縁でお酒も好きだからよくここには来るよ。お酒はさっぱりしたのが好きかな。職業柄、まとまった時間がとれないから行けないけど、旅行は好きで時間があれば行きたい。いろんな新しいことやりたいタイプ。んー、あとは…パクチー苦手!最近克服してきてるけど。」
突然つらつらと話始める彼。
「ちょ、ちょっと待って!なに!突然!」
「なにって、自己紹介。やりなおすの!本名で!」
「え?」
「ゆかり と みか、って名前だけでもいいけどさ。あれはあの日だけならって条件つきでの場合。これからもそれだけだとさ、困るだろ?」
「え?」
「せっかくならさ、お互いのこと知りたいじゃん?」
「……あのさ、あたしには今後の飲みの誘いに聞こえるのは気のせい?」
それを聞いた彼は、ん?とお酒を飲んでいた手を止めてこっちをみる。
「飲みの誘い以外の何者でもないけど?」
にやり、と笑った顔でわざもったいぶった話し方をしたのだとわかる。
「みかちゃんさ、本名、教えて?」
首をかしげながら聞く彼をみて、こんな姿も様になるなぁ、と思う。
机の上の二杯目の杜若の氷がカランと音をたてる。
それを合図に、私は口を開いた。
「私の名前はね……」
この数年後、二人の熱愛と結婚の報道が新聞の一面を飾るのはまた別の話。
いかがでしたでしょうか。
いろいろ考えましたが、花言葉を本文にのせるのはやめました。
気になる人はぜひ調べていただけると、より分かりやすくなると思います。
読んでいただきありがとうございました。