腕くらべ 7
目が覚めた時は、マルティエの亭に戻っていた。
しばし天井を見つめ、はたらきの悪い頭に、答えを求める。
いや、朧げながら、記憶はあるのだ、あの手合いの後、ダラーン達の嘲笑と、アドルパスの罵声を浴びながら、引き摺られるように治療術師の所へ連行され、とりあえずの止血処理を行ったのだ。
最後まで、アドルパスは御用猫に文句を言っていたが、自分の館に泊まるように提案していた、それを断ると、帰りの馬車を手配してくれた。
寝ぐらに戻ると御用猫は、半ば倒れ込むように入店し、驚くマルティエに、チャムが来たら呼んでくれ、と伝えた辺りで、記憶があやふやになっている、しかし、包帯も取り替えてあるし、服も脱がされていた、後でマルティエ達に、礼を言わねばならないだろう。
身体を起こすのは止めておいた、その程度の分別はつくほどに、脳も回転を取り戻していた。その代わりに、隣で鼾をかく卑しいエルフの、つるりとした腹の肉を揉みしだく。
最近、すっかり便利な薬箱と化したこの卑しいエルフは、御用猫の腕に、緩く波打つ薄い金髪を絡ませ、寝ながらも煩わしそうに、膨らんだ腹を揉む彼の手を、ぺちぺち、と叩いてくる。
腕に挟まれて折れ曲がる、森エルフ特有の長い耳を、掘り出して伸ばしてやると、二、三度首を振り、ぱくり、と御用猫の胸に噛り付いてくるのだ。
(また、何か食ってるのか、卑しい奴め)
シャツがべたつくのは不快だが、今は、このエルフを剥がすのこそ億劫であった、もうしばらくは寝ていようと、御用猫は、再び目を閉じる。
次に、意識を取り戻したのは、肩を揺すられての事だ、包帯の巻かれた左肩を避けたのだろう、御用猫の身体に覆い被さるように、右の肩を揺らしてくる。
全くに、卑しいエルフである、腹が減ればこうして御用猫にたかり、毎日毎日、餌を強請るのだ。
ともかく、御用猫にまだ起きるつもりは無い、チャムパグンをベッドに引き込むと、彼のお気に入りの尻を揉みしだく。
何とも卑しく、呪い以外に取り柄のないエルフであったのだが、彼女の身体は、全身くまなく、非常に触り心地が良いのだ。これが取り柄だと言うのなら、確かにそうだと、納得もしてしまいそうだ。心乱れた時には、彼女の尻を握れば、精神が安定するとさえ、御用猫は思っていた。
いたのだが。
「ぴいっ! 」
(ん、何か、硬いな)
何時もと違う手触りに、御用猫が薄眼を開いたその先に、彼女の姿があったのだ。
リリィアドーネ グラムハスル。
若干十八歳にして、中央テンプル騎士団に所属する、クロスロード期待の新星。近衛騎士団団長、アルタソマイダスと共に「双璧」だの「四美姫」だのと、二つ名に困らぬ程、市井で人気のある美剣士だ。
栗色のセミショートに、薄い青色の瞳、白磁のように滑らかな肌は、芸術品を想起させる。名画から抜け出してきたのではないかと思う程の、完成された、しかし、どこか未熟な、若さ故の矛盾を孕んだ美しさ。
「……何だ、リリィか、おはよう」
「あ、あ、あわわ、ふわわ」
何やら、様子がおかしいが、とりあえずは、まだ眠りたいのだ。御用猫は彼女を揉みしだきながら、再度目を閉じようと。
「あわわわわわわわわ」
「あだだ、痛い、痛い」
突如暴れだしたリリィアドーネに、傷口をこねられ、御用猫は悲鳴をあげたのだ。
「す、すまなかった、すこし、少し、取り乱してしまったのだ」
ベッドの横に腰掛け、深々と頭を下げる彼女は、未だに、耳まで赤くし、視線を合わせようともせずに、俯いたままで、自分の膝の辺りに視線を遊ばせている。
「見舞いに来て、くれたのか? それにしちゃ、大胆な起こし方だったな」
少し、意地悪そうに御用猫が、軽口を叩くと、リリィアドーネは更に顔を赤くし、目を固く閉じて身体を揺すり始めた。
「違うのだ、違うのだ」
全くに、男に対して免疫の無い彼女は、未だに、このような有様なのだ。
(随分、慣れてきた筈なんだが)
右手だけで身体を起こすと、テーブルの上に置かれた、雑炊の皿が目に入る。マルティエが作ってくれたものか、ならば、今は夕飯時であろうか、丁度良い頃合いに、リリィアドーネが店を訪れたのだろう。
冷めないうちに食べようと、御用猫は手を伸ばすのだが、それは、彼女に奪われてしまった。どうやら、今日は餌付けをして貰う立場のようだ。
「助かるよ、まだ、左手は動きそうに無いからな」
「そ、そうか、良かった、いや、良くは無いな、んん、では、ゆくぞ」
何やら気合の入った給餌であったが、彼女が、あまりにも満ち足りた笑顔を浮かべるものだから、御用猫は、素直にそれを受け入れるしかなかったのだ。
「そうか、アドルパス様から、猫が怪我をした、と聞いたときは肝を冷やしたのだが、いや、無事で何よりだ」
「無事では、無いんだがな」
肩が完全に快復するまでには、一週間はかかるだろうか、呪いとて万能では無いのだ。チャムパグンだからこそ、ここまで仕上げているのだが、体に穴が空いたのだ、普通ならば、まだ動く事もままならないであろう。
仕事上がりに飛んできたのだろう彼女は、安堵した表情こそ浮かべていたが、いつもの眩しさが無い様な気がする。何処か、陰があるとでも言うのか。
「……何か、あったのか? 」
確信は無いが、御用猫は尋ねた、この少女の性格だ、こちらから聞かねば、怪我人を前に、困り事の相談など、する筈も無いだろう。
リリィアドーネは、驚いた様な、喜んだ様な、微妙な表情を浮かべたが、きゅう、と眉を寄せる。
「ううむ、顔に出てしまっていたのか、お前に、心配はかけたくなかったのだが」
「それはもう諦めろ、可愛いリリィの事なら、何だってお見通しなのだからな」
もう、と、唇を尖らせ、何か言おうとした彼女であったが、それは諦めたようだ。代わりに、花の様に可憐な笑みを見せ、そろり、と、差し出した細い指で、御用猫の手を握る。
「……実は、来週、手合いをするのだ、私が負ければ、相手に嫁ぐ、という条件でな」
きゅっ、と、彼女は握る手に力を込める。
「い、いや、違うぞ、この様な話、私の本意ではない、しかし、叔父上に以前、言ってしまったのだ、嫁ぐならば、私より強い相手が良い、と……見合いを断る為の方便であったのだが、一度、言ってしまった手前、どうしても、断れなかったの、ご、ごめんなさい、でも、あなたを裏切ったのじゃないから、わたしが好きなのは、一人だけだから! 」
ぐるぐる、と目を回し、何やら口走るリリィアドーネであった。何となく、浮気した亭主の言い分の様だと思い、御用猫はくつくつ、と笑う。
「ほ、ほんとうだから! 」
涙目になって、ぐい、と詰め寄る彼女を抱き寄せ、頭を撫でてやる、この浮気者も、少しは落ち着くだろうか。
「はいはい、リリィを疑ったりはしないよ、そもそも、負けるとも思わないが……それで、その、哀れな貴族様は、何処のどいつだい? 」
おずおず、と、御用猫の胸に顔を埋めたリリィアドーネは、ようやく安堵したのだろうか、大きく息を吸い込み、吐き出しながら、答える。
「うん、ダラーン バラーン伯爵、と言うのだ、手強い相手だけど、負けたりしないから、安心して」
リリィアドーネを抱き締めながら、御用猫は、不意に高鳴る心臓の鼓動を抑えるのに、必死であったのだ。