神頼み 4
「私は、メルクリィと申します」
そう名乗る女性は、自己紹介の最中も、御用猫のジャケットの袖を離さないのだ。
名乗るまでに、何度も逃亡しようとした相手に対して、当然の態度とも言えるだろうが、そうされる御用猫にしてみれば、迷惑な事このうえない。
「そうか、分かった、もう二度と会う事もあるまいが、達者でな」
彼は、リリィアドーネの手を引き、再び立ち去ろうとするのだが、どうにも、メルクリィと名乗った女性は、彼を見逃すつもりは無さそうだ。
「待ちなさい、私はこうして名乗ったのです、貴方もそうするのが、礼儀ではありませんか」
「いい加減にしろ! 」
ぐいぐい、と御用猫の袖を引くメルクリィに、なにやら、些かご立腹の様子であるリリィアドーネは、その手首を掴み、強引に引き離した。
「礼儀がどうだと言うのなら、そちらこそ失礼ではないか、我々は、貴女を助けたのだぞ、恩着せがましい事は言いたくないが、その礼を、まだ聞いていない」
「助けて下さいと、頼んだ覚えはありません」
平然と言い放つメルクリィに、リリィアドーネの眉が上がる。
「大概にしろ! あのまま放っておけば、あの不良共に、自分が何をされていたか、分からないのか! 」
怒気をはらんだ彼女の声を聞くのも、久しぶりの事ではあるが、なかなかに迫力がある、彼の知らない宮廷での顔は、普段からこうなのだろうか、と、少々、引き気味の御用猫なのである。
「もちろん、承知しています、ですが、品性下劣な野良犬に、神の教えを説くのです、危険は当然でしょう、そもそも、一度や二度、噛まれたとしても、それが、どうだというのです」
この答えには、流石のリリィアドーネも絶句し、二の句が継げぬのである。最初から、襲われる事も覚悟していると、彼女は、そう、言うのだ。
「リリィ、こいつは正教徒だ、多分、ロンダヌスから来たのかな……向こうで、似たような事を言う奴を、何度も見たよ」
御用猫の方を振り返る彼女の顔には、疑問符がいくつも浮かんでいた。確かに、クロスロードで暮らす彼女には、馴染みの無い話であろう。
クロスロードをはじめとする、トコワカ大陸の国々では、基本的に、六柱の神々が信仰されているのだが、その中でも主神とされる、光の神、「レ ウルク」を唯一神とし、他の神々は、神にあらず、一段劣る存在だとするのが、ロンダヌス正統教会、通称、正教会なのである。
「あまねく光を、救われざる者達に……メルクリィ ダヌス、確かに、正統教会の神官を務めております」
文化宗教の入り乱れるクロスロードで、正統教会の人気は低い、ロンダヌスとの戦争後は、教会が焼き討ちされる寸前であったのだが、今も彼らが弾圧されないでいるのは、現国王の、まことに、寛大な処置によるところであったのだ。
腹の上に手を重ね、ぺこりとお辞儀する姿は、正教徒のそれであり、ロンダヌス生まれの御用猫にとっては、多少の懐かしさも感じるのだが。
「あ、僕たちは救われてるので、大丈夫です」
じゃ、と、手を上げ、もう何度目かも分からぬが、御用猫は脱出を試みる。
「待ちなさい、話は終わっていません」
二人の前に回り込むと、手を広げ、メルクリィは告げる。どうやら、意思は固そうだ。
「なぁリリィ、こいつ、殴って逃げたいんだけど」
「う……いや、駄目だ駄目だ、そのような真似、騎士として」
「騎士? あなた達は、クロスロードの騎士なのですか! やはり、そうか、この国の騎士は、力尽くで、何もかも解決しようとする、戦もそう、あなた方の侵略に、何人の人が泣いた事か」
かっ、と目を剥き、メルクリィが手を広げたまま迫ってくる。御用猫も、この国に来てから知ったのだが、ロンダヌスでは、北嶺戦役の開戦理由を、クロスロードからの侵略だと教えていた。
「先ほどの事にしても、あの人達を傷付ける必要が、どこにあったというのです! 話せば分かる、とは言いませんが、話す努力を放棄して、安易に、力に逃げるとは何事ですか! 」
「馬鹿な! あれは、向こうが先に武器を取ったのだぞ! そもそも、力などと、我々は丸腰なのだぞ、猫の対応は間違ってはいない! 」
リリィアドーネは、それに一歩も引かず、その、薄い胸をメルクリィに押し付ける。大きさという点では、勝ち目が無さそうだ。
「あなた達は、武器を持ったあの五人よりも、余程に強かったではありませんか! それだけの余裕がありながら、力をひけらかし、弱者をいたぶるのですか! 何故、最後まで話し合おうとしないのです」
メルクリィの言葉に、ぐっ、とリリィアドーネが喉を詰まらせる。
負い目があるのだ、彼女は、確かに急いでいた、手早く片付けて、御用猫と演劇を楽しみたいと、そう思っていたのは間違い無いのだ。確かに、もう少し穏便に、済ませる事が出来たかもしれないのだ。
下を向いて唇を噛む、リリィアドーネに歩み寄ると、それまで黙っていた御用猫は、そっと彼女の肩を抱き寄せ、小さく礼を言うと、空き地の奥を指差すのだ。
「なぁ、メルクリィとやらよ、俺たちは、お前と話し合っているが、そのせいで、いま、危険に巻き込まれようとしているぞ、これはどうする、お前が、助けてくれるのか? 」
メルクリィが、突然に割り込んできた御用猫の指差す方向に目を向けると。
「なんだぁ、まだ居るじゃねぇか、馬鹿なのか、こいつら、それとも馬鹿なのか、こいつらは」
のしのし、と、建物の影から現れたのは、両の腰に、十手の様な刃物を差し込む、蝦蟇のように潰れた顔の剣士と、茶髪の男。
「間違いない、あいつらです、すんません、兄貴、でも、うひひ、良い女でしょ? 」
「違いねぇ、良くやった、ケンズィ、お前は馬鹿から、阿呆に格上げしてやる」
がらがら、と笑い声をあげるガマ剣士に、御用猫は見覚えがあったのだが。
「これは困った、カエルとは、流石に、話しも出来ないなぁ……どうするよ? 」
その言葉を待たずに、前に出るメルクリィを見て、御用猫は目を剥き、そのあと、大きく溜息を吐く。
これは、なんとも厄介な、本物であろうと、確信したのだ。




