魔剣 いとのこ 17
御用猫が、夢を見たのは、遡って、本日、夜明けの事であった。
全身を巻き込む倦怠感と、胸を押される様な息苦しさは、彼に、仄暗い海の底を想像させるのだ。
彼は、そこに有るのかも分からぬ、自身の腕を、上か下かも分からぬ方向に、ゆっくりと伸ばす。此処が死後の世界であるならば、既に肉体は存在しないであろうが、それでも、そう、せずには、いられなかったのだ。
沈んでゆくような感覚から逃れるために、漠然とした不安と、暗がりから逃れるために、なにかの手掛かりを求める。
有り体に言えば、彼は、寂しかったのだ。
野良猫の死ぬ時は、ひとりきり、とは知っていた。しかし、死んでからも、ひとりだとは、想像の埒外である、これでは、まるで、救いが無いではないか。
こんな事ならば、もう少し。
もう少し、何だというのだ。
息の詰まる思考の海で溺れながら、答えの出ぬ自問を、ぼんやりと巡らせていた御用猫は、ふと、何か、僅かな、懐かしさを感じた。
霧中の灯火の如き、温かさと安心感を覚え、御用猫は、じわり、じわり、と、そちらに手を伸ばす。
本能的に、少しづつ、水面に近付いているのが分かった。微かな灯りは、確かな輝きとなって、御用猫を導くのだ。
誰かに抱かれるような感触と、口内に広がる、甘く、温かな柔らかさ。
(……まさか、まさか、あれは、あの人は)
御用猫は、母を知らぬ。いくら記憶を掘り返しても、その面影も、温もりも、僅かな欠片すら残っていなかったのだが、いま、水面の向こう側には、乳を吸う赤子を抱いた、黒髪の女性が、ぼんやりと、その影を映していたのだ。
しかし、次第に輝きを増す水面に、眩しさを堪えきれず、御用猫は眼を閉じる。
そして、再び開いたときには。
「ぅぁ……」
薄ぼんやりとした、夜明けの色の中に、黒髪の女性を見とめ、御用猫は、小さく息吸い、そして、かすれた声と共に、吐息を漏らす。
久し振りの、まともな呼吸であった。
「……やはり、ここは、あの世であったか……なんか、死神が、みえる……」
「先生、起きた、おきる」
目の前に大写しの死神は、黒髪に眼帯を付け、全身に梵字をちりばめた、耳の長い少女の姿をしていたのだ。
「……なんで? 」
何故、黒雀がここに居るのか、自分はどうなっているのか、敵はどうしたのか、田ノ上道場は無事なのか。
様々な思いのこもった一言であったが、御用猫に馬乗りの少女は、ことん、と首を傾げるのみである。
何をするのも億劫ではあったが、取り敢えず、状況は、自分で確認せねばなるまいと、御用猫は首を巡らせる。
今、自分が仰向けに横たわるのは、農家の薪割り小屋であろうか、飼葉藁の上に寝かされ、腰の上には、黒雀。
徐々に、脳内の霧が晴れてゆく、確かに、あの戦闘を行なった農道の側には、この様な小屋があったのだ。
そこまできて、ふいに、御用猫の記憶が全て繋がった。
慌てて、自身の胸を確かめるのだが、肌にはもちろん、戦闘服にさえ、痕跡は残っていなかった。
「これは……黒雀よ、お前が、治したのではないのか? 」
傷を癒した、という訳でも無さそうだが。そもそも、心臓を刺されたのだ、即死に違いない、ひとたび死んでしまえば、どんな呪いでも、生き返らせる事などできないのだ。
「ちがう、先生、死んだから、他からも、そう、見えただけ」
「ちょっと、何言ってるのか分からないなぁ」
いかにも辿々しい、黒雀の喋りである。御用猫が、ことの全貌を理解するのには、随分と時間を要したのだ。
「……つまり、俺が死にそうになった時に、俺自身に、死の幻を見せる呪いだと、そして、周りの奴にも、俺が死んだと、そう見える呪いだと」
黒雀が言うには、敵に、そう錯覚させる為に、まず御用猫自身を、自分が死んだと騙す必要があるのだと、事あるごとに、鎖骨に吸い付いていたのは、その呪いの、仕込みであったのだと、そう言うのだ。
「じっさい、死んでる、だから、起こしにきた、私が」
「ちょっと、何言ってるのか分からないなぁ」
あまり知りたくは無かったが、どうやら、彼自身の意識は、ある意味、死んでいたようなのだ、放っておけば、そのまま、本当に死んでいたという。
「イド、たましい、すこし、繋いでおいた、だから、ひっぱれた」
「なぁ、そういう怖い事するの、先に言っておいて……あぁ、言ったら駄目なのか、くそぅ、文句は言えないなぁ」
何やら、非常に怪しげな呪いであったようだが、命を救われた事には、違いないのだ、これは、責めることも出来ぬであろう。
「先生、まだ、たましい、汚れてる、じっとしてて」
黒雀は、御用猫に覆いかぶさると、その口に吸い付き、舌を入れて唾液を流し込み始める。
「はい、中止」
ぐぃ、と彼女の頬を両手で挟み、顔から離す、多少の不平と抵抗はあったが、御用猫も、そろそろ、この程度には、身体を動かす事も出来るようだ。
「それの理由は、よく分からないが、これ以上は、何となく、後が怖い気がする、他の方法は無いのか? 」
「……胸を、切って、心臓に、直接」
「口でお願いします」
にっこりと笑った黒雀は、再び御用猫の口を吸い始めるのだ。
何やら、いかがわしい事をしているような、罪悪感に苛まれる御用猫であったが、これは治療なのだと、何度も自身に言い聞かせる。
どのくらいの時間が経過したものか、この死神に、されるがままであったのだが、ふと、御用猫は、それに気付き、今度は、そっと、優しく撫でるように、彼女の顔を離すのだ。
てろり、と垂れた唾液が、互いの口から糸を引き、再び笑顔を見せた黒雀は、普段の様子からは、想像もつかぬ妖艶さであり。
「もう、長くない、二、三日」
こともなげに、そう告げる。
白いワンピースからのぞく彼女の両脚は、どす黒く壊死しており、それ、が、どこまで進行しているのか、御用猫には、確かめる気も起こらなかった。
調整がどうとか言っていたが、それの途中だったのだろう、志能便の隠れ里から、ここまで、一晩で走り抜けてきたのは、御用猫の危機を察知して、であるのだ。我が身を顧みず、相当に無理を重ねたのは、間違いないのだ。
これは、大変な借りであろう。
これを返す為には。
「先生、殺すの、私、だから、殺させない、他の奴」
「……そうか、なら、お前を殺すのは、俺がしてやろう」
頭の後ろを撫でてやると、黒雀は嬉しそうに、御用猫の胸に、顔を擦り付けてくるのだ。
「うん、そうして」
「よしよし、可愛い奴め……だがな、それが何時かは、俺が決める」
あちこちが、多少、痛みはするが、御用猫の心には、その程度、吹き飛ばす程の、決意と闘志が満ち満ちていた。全身に気を巡らせ、黒雀の小さな身体を抱いたまま、上体を起こし、彼女を横抱きに立ち上がる。
「なに、心配するな、悪魔と取引してでも、お前は助けてやるからな……だが、その前に」
「お仕事? 」
正解だ、と、笑う御用猫は、小屋を出ると、朝の澄んだ空気を、肺いっぱいに、取り溜める。
生きていた。
その実感は、彼の力になるのだ、そして、その、全身に漲る活力が、野良猫に、確信を与えるのだ。
この際、当座の心配事は、全て片付けてやろう、敵は居る、田ノ上道場だ。
研ぎ澄まされた野良猫の、第六感に、与えられるのだ。
「ようし、やるか、これは景気付けだ、あの悪魔に払う金も、用意しなければならないしな……黒雀よ、お前の力を貸してくれ、手強い相手だが、お前と二人なら、勝てるのだ、勝って、明日も、一緒に生きよう」
何を考えているものか、じっと、御用猫を見つめ続けていた、黒い死神は。
「すき」
相好を崩し、満面の笑顔にて、御用猫の首に、しがみついてきたのだった。




