腕くらべ 4
徳利と猪口だけを下げ、御用猫は道場の縁側に移動していた。
九月ともなれば、夏から秋へと、空気も変わり始める、何とも知れぬ虫の声と、心地よく身体を撫で通る風に満足し、ここを寝るまでの居所と決めたのだ。
「ま、サクラが拗ねない程度に、よろしくやってくれよ」
隣に座るティーナに猪口を渡すが、それは断られてしまった、ビールに慣れている彼女は、清酒が苦手のようだ。
「でも、大先生も良い男だし、奥さんも居ないんでしょ? 問題無くない? 」
「それはまぁ、そうなんだけどな」
言われてみれば、サクラに遠慮する必要もないだろうか、田ノ上老もああ見えて女にはだらしが無いのだ、リチャードが来る前は、よく二人して遊郭に繰り出したりもしていた。
(あれ、ちょっと待てよ)
よくよく思い返してみれば、以前、サクラ達に、田ノ上の親父は死んだ女房一筋だ、と適当な事を言っていた気がする。
色々と複雑な事情もあるし、御用猫自身、出来れば触れたくない事なので、その場凌ぎの嘘をついたのだが、そうなると、生真面目なサクラには、ティーナが田ノ上老を誑かす悪女にでも見えているのだろう。
となれば、これは、自らが招いた不和ではないか、一度誤解を解いておくべきであろう、と、御用猫は眉根を寄せて顎を掻く。
「なぁに、ひょっとして、猫の先生も妬いてるのかな? 」
「いや、顔面を蹴ってくる女は、ちょっと遠慮したいかな」
ティーナからの口撃に、にやりと笑い、わざとらしく、鼻を摘んで見せる、野良猫の恨みは深いのだ。
「んもぅ、まだ根に持ってたの? 勘弁してよ……正妻さんには、殴られても文句言わないくせに」
「ん? あぁ、リリィの事か」
それ程に殴られた記憶は無いのだが、毎度毎度、稽古の度に、彼女に叩きのめされている所を見られているので、その印象が強いのであろう。
そもそも、リリィアドーネの鉄拳制裁に関しては、御用猫の、からかい過ぎ、が原因なのだ、自業自得とも言える。
そういえば、最近姿を見ていないな、と、僅かな寂しさを覚えるのだが、いざ会えば、間違いなく面倒だと思うだろう。彼女は、一度現れれば、帰るまで、ぴたりと御用猫に付き纏い、決して離れる事が無いのだから。
「ふふーん、遠くを見ちゃって、寂しくなったの? 」
「まぁな……なぁ、お前はどうだ? 寂しいなら、オラン旅行くらい付き合ってやるが」
ティーナは、オラン近海の海エルフと、元オラン領主の間に生まれた半エルフ。訳あって故郷を離れたのだが、家族と呼べるのは、腹違いの兄であるオランの現領主と、その妻である、種違いの妹、と、なんとも複雑な家族構成であるのだ。
「いい……これ以上、迷惑は、かけたくないからね」
「……そうか、まぁ、そのうち、な」
「うん……そのうち、ね」
いつか、彼女にも、自分を許せる日が来るだろうか。
天涯孤独な野良猫には、思うところもあるのだが、自分に口を挟む資格は、無いだろう、と、御用猫は考える。
時間をかけて、彼女自身が折り合いをつけるしかないのだ。
「ま、それは、置いとこうよ、先生」
ぱん、と、手を叩き、ティーナは笑って見せる、いつもの笑顔だ。
(この顔ができるならば、今は、良いだろうか)
ひとつ頷き、御用猫が猪口に酒を注ぐと、横合いから、ひょい、と、奪われた。
「ん、これにも、慣れてみようかなって」
「そうだな、田ノ上の親父も喜ぶぞ、今は、寂しいひとり酒だからな」
ちびちびと、舐める様に清酒を口にするティーナを見ながら、御用猫は、彼女の髪が、雲に煙る今宵の月の様だと、ふと、そう思い、手を伸ばそうと。
「ゴヨウさん! またこんな所で、いやらしい! ぐうたらしてないで、片付けくらい手伝って下さい、そうしたら、少しお話しでも出来るでしょう! お兄ちゃんを気取るなら、もっと妹を構うべきです! 」
ふんこふんこ、と、鼻を鳴らし、抗議しながら現れたサクラに。
(ちょうど良い、障りのない程度に説明しておくか)
ティーナは、しばらく道場に居着くつもりのようだし、サクラと仲が悪いのは好ましくないだろう、みつばちとは、あれだけの悪さをされても打ち解けたのだ、奴に比べれば、ティーナがどれ程、まし、な女である事か、誤解が解ければ、きっと、直ぐに仲良くなるだろう。
「なぁ、サクラよ、大事な話がある、ちょっと来い」
御用猫が、少し硬い表情を見せると、彼女は、一瞬たじろいだ様子であったが、彼の前に正座し、両手を膝に乗せた。
「いいか、サクラよ、よく聞け、田ノ上老とて男なのだ、まだまだ現役だ、頭の中はいやらしい事でいっぱいなのだよ、それは責められぬ、男なら皆……」
跳ねる様に飛び掛かったサクラに押し倒され、片手で塞がれた口の上から、ばしばし、と叩かれる。
「あいた、何だやる気か、いいだろう、さっきの決着をつけてやる!」
神聖なる道場で転がり回る二人に、今日最大の雷が落ちるのは、もうわずか、先のことであった。