銀盤踝 1
クロスロードの下町は、大通りや河によって、いくつかの区画に分けられている。
ここ、マルティエの亭の所在地は、五番街と呼ばれていた。基本的に、若い番号ほど上町に近く、そうなれば、自然と治安も良くなり、住人も比較的裕福な者が増える傾向にある。
つまり、この店は立地も良く、客層も上品であり、なかなかに、商売には適していると言えるだろう。
しかし、今、午前も十一時を過ぎ、書き入れ時を迎えるはずの店内は、たった一つのテーブルに客が座るのみであり、そこに座る客すらも、目の前に並べられた二つの皿から目を背けるように、きょろきょろと辺りを見回し、時折、額の汗を拭いながら、ふぅふぅ、と、荒い息を吐くばかりであったのだ。
「どうしたの? せっかく、腕によりをかけて作ったのだから、遠慮なく食べて頂戴」
私の料理も、久しぶりでしょう、と、テーブルに肘をつき、悪戯っぽく笑うのは、クロスロードで最も強く、最も美しい、と謳われる女騎士「剣姫」アルタソマイダス。
(最も恐ろしい、が、抜けているのは、それを口にした者が、生きてはいないからなのだろう、そうに違いない)
御用猫は、震える右手で、子持ちカレイの煮付けに箸を伸ばす。先週、縦に割れてしまった右手だが、そろそろ癒着しただろうと、慣らしをしようかと、ようやく、今日から箸を握ったばかりなのだ。
しかし、この震えは、固まってしまった筋のせいばかりではあるまい。
「感想は、正直に、頼むぞ」
「わ、分かっているさ、ただ、甲乙付けがたい、という、場合もな、ほら、あるだろう」
御用猫の目の前には、同じ料理が二皿用意してあり、なんたる事か、その製作者二名も、彼の前に陣取り、無言の圧力をかけ続けているのだ。
哀れな子猫は、助けを求めるように、厨房に目を向けるのだが、女性陣達は、何やら楽しそうに眺めるばかりで。
「たまには、良い薬よねぇ」
「このところ、毎日食べていたのだもの、リリィ様のを選ばなかったら、ちょっと、言い訳出来ないよねー」
などと、不謹慎な会話まで流れてくるではないか。
(おいよせ、リリィの目が、据わってきただろうが)
隣に並んで座る、ゆっこと黒雀は、先割れスプーンで、器用に魚卵を掘り出しては、美味しいね、美味しいね、と、互いに頷きあっていたのだ。
まるで似てはいないのだが、なんと、微笑ましい光景であろうか、まるで姉妹の様だと、御用猫は、何やら優しい心持ちで、二人の頭に手を伸ばし。
「は、や、く」
「ぐぅっ」
リリィアドーネの、刺す様な一言に、ようやく肚を決め、御用猫は両方の皿に手を付けた。どちらが、どちらの皿を仕上げたのかは、分からない、これは、命をかけた品評会と言うべきか。
右の皿は、無難な作りであった。基本通りの味付けに、付け合せのネギと、細切りの生姜が乗せられている。
左の皿は、味は、悪くない、むしろ、御用猫の好みの味付けであろう。しかし、飾り包丁が無かったせいか、カレイの身は崩れてしまっていたし、人参であろうか、付け合せの野菜も、やや、雑な切り方である。
(これは、迷うな)
選ぶべきは、リリィアドーネの料理である、これは、間違いないのだ。このところ毎日、自分の為に料理を覚えようと努力してくれているのだ、せっかくの機会であれば、褒めるのに吝かではない。しかし、ならば、どちらが彼女のものかと言われると、これは、難しい。
しかし、昔の事とはいえ、御用猫が口にしたアルタソマイダスの料理は、かなりの腕前であったはずなのだ。
この様に、基本を忘れ、煮崩れた魚を出してくるはずも無いだろう。
「味好みは、こちらかな、うん、旨い……見た目は、少し、悪いけれども、これは、毎日食べても良いくらいさ、リリィも、随分、うで、を……」
みるみると、表情を曇らせるリリィアドーネに、御用猫は、自らの過ちに気付く。隣では、可憐にも意地の悪そうな笑みを浮かべ、くすくす、と笑うアルタソマイダス。
「お前、謀ったな! さては、わざと、雑な作りで」
「毎日食べたかったら、ご馳走してあげても良いわよ」
ねぇ、ゆっこ、と義娘に笑いかける。
「……私の、料理は、普段、そんなに、雑であったか」
「あぁ、畜生、面倒臭い奴らだな! でも、リリィのも美味しかったからね? 明日も頼むよ? 楽しみにしてるんだからさ」
なまじ、今日の料理に、彼女が気合を入れたせいで起きた悲劇であったが、御用猫は気付いていた。
悲劇はこれからであると。
いや、また、例によって、返答次第では、ということではあろうが。そうでなければ、アルタソマイダスが突然現れ、店を貸し切りにしたい、などと、言う筈も無いのだ。
(なんだ、また志能便関連か? それとも、ゆっこか、リリィの親族か、ダラーン辺りか、オランの線もあるな、いや、田ノ上の親父か、サクラか、フィオーレか)
途中から、御用猫は、余りの心当たりの多さに、頭を抱える。
「俺はな、しばらく、のんびりと、心身を休めたいと、本当、それだけなんです、分かって下さい」
少しづつ、色を失ってゆくアルタソマイダスの瞳に怯えながら。
いつまでも続く、この厄介ごとと縁を切れるならば、いっそのこと、エルフの森にでも隠遁するべきか、などと、半ば本気で考え始めていたのだった。




