無情剣 面の皮 9
いのやの大女将、いのを叩き起こした御用猫であったが、その報復として、彼は今も、両頬に手形を残している。
とくに事情を話した訳では無いのだが、いのは何事かを察してくれたようで、通常よりも高値で、トウタの籠の中身を、全て買い取ったのだ。流石は、四十年を苦界で生きた、女の勘ばたらきである。
「あの、おチビのこった、このくらいは、楽に平らげるだろうけどね、こりゃ、作る方が、ひと仕事さね」
がはは、と、豪快に笑うと、そでを捲り上げて、下ごしらえをする為に、調理場へと向かうのだ。いのやには、腕を上げたカンナの呪いを利用して、大型の冷蔵庫を据え付けたばかりである。
「ほらよ、トウタ、これで足りるか? 」
御用猫は、一万金貨を二枚ほど、いのとは別に握らせる。空の籠を重ねて担いだトウタは、しかし、左右に首を振るのだ。
「猫の先生、これは、もらえないよ、今のおばさんだって、マルティエの倍の値段で買い取ってくれたんだ」
だから、施しは受けないと、少年は言うのだ、病弱な母を支える為、幼い頃から、汗を流して働いてきたトウタは、もう、しっかりと、男であったのだ。
しかし、だからこそ、御用猫は笑ってみせる。若いながらも、芯の通った少年を前に、これは、施しではないのだと、胸を張って言えるのだから。
「なぁ、トウタよ、恵んでやるのと、奢ってやるのは、何が違うか分かるか? 」
質問の意図が分からず、きょとん、と、首を傾げる少年を、いのやの、軒先に置いてある長椅子に座らせると、御用猫は、ゆっくりと話し始める。
「遊びの金を渡すのが奢り、これは、俺もよくやる、そんでな、生活の為の、生きる為の金を渡すのが、恵んでやるって事だ、これは、まぁ、人によるだろうが、俺は、そんなに好きじゃない……お前もそうだろ」
少年は、こくり、と、頷く。
「場合によりけり、だけどな、例えば、本当に死にそうなら、なり振り構わず、餌はねだるべきだし、俺も渡す、だが、この金は、そうじゃない、奢りでも、恵みでもない」
そう言って、御用猫は、かちゃかちゃ、と、二枚の金貨を弄ぶ。トウタ少年は、いつしか真剣な表情で、彼の言葉に耳を傾けていた。
「これは、正当な報酬だ、お前が、真面目に働いて、目利きを覚えて、だから、俺はお前を信用したし、今日は無理を言ってここまで来させた、この金も、駄賃としては確かに多い、だが、これは、明日からの魚の為だ、つまりは、俺の為だ、お前がこれからも、美味い魚を持ってくる為の、先行投資だ、わかるか? わからないか、まぁ、簡単に言えば、未来のお前に金を払ったんだよ、そうだな、お前が大きくなったら、本格的に、魚屋をやってみるとか、どうだ? 夢はでっかい方がいいだろう……いや、やらせてみるか、む、これは、良い考えかもしれん、とりあえず、カンナに販路を作らせるか、呪い師さえ揃えれば、大掛かりな」
「先生、猫の先生! よくわかんないけど、たぶん、話がずれてるよ! 」
ゆさゆさ、と、肩を揺すられ、御用猫は、理想の未来図から、ようやくに目を離した。
「おっと、悪いな、まぁ、そういう事だ、明日からも、きりきり働けよ、俺の腹に収まる、旨い飯の為にな」
再び金貨を渡すと、少年は、今度こそ、それを受け取ったのだ。
「先生、これ、いつか必ず返すからさ、俺が、大人になったら、あの時のお礼だって、こまってるのを助けてくれた、正当なほーしゅーだって、さ」
じゃ、と、手を上げて、少し顔を赤らめながら、駆け出すトウタを見送ると、御用猫は、のび、をする、そろそろ、眠気が襲ってくる頃か。
「何ですかぁ、先生、今の、まるで、お父さんみたいでしたよぉ」
何時から覗いていたものか、帯無しの小袖を緩く手で押さえた、づるこが、くすくす、と笑っていた。
金髪碧眼、美しい顔立ちは、たとえ貴族の娘と偽っても、充分に通用するだろう、御用猫がいのやで居候している時からの、馴染みの遊女である彼女は、着物の合わせから、溢れてしまいそうなほどに、豊満な胸を抱えて笑うのだ。
そういえば、最近は、日を開けずに指名を入れる常連がいるとかで、御用猫も、彼女の肢体で目の保養をする機会を、長らく失っていたのだが。
「そんなんじゃ無いが……何だか久しぶりだな、寂しいから、たまには相手してくれよ」
「また、そんなこと言って、猫の先生は、私が居なくても、楽しくやってらっしゃるみたいですけどねぇ」
口を尖らせ、そうやって文句は言うのだが、彼女はそれ以上、近付いては来ない、どうやら、残り香を気にしているのだろう。
「そうでもないさ、楽しくは……ないな」
たった今、ここで未来を語らった少年の、父親を、この手にかけなければ、ならないのだから。
(馬鹿な親父だし、迷惑もかけていたのだろう、居なくなれば、みな、清々するのかも、知れないがな)
それが、言い訳になるとは、御用猫も思わないし、最初から、するつもりも無い。
するつもりは無いのだが、やはり、知ってしまった以上、けして、気持ちの良いものでは、ないのだ。
「……因果な、商売だよなぁ」
「お互いに、ですねぇ」
少しづつ上がる気温に当てられたのか、本格的に、眠気の波が押し寄せてくる。
かくん、と舟を漕ぎそうになり、少し、眠ろうかと、御用猫は、ぼんやり考えていた。
カンナが、またしても枕を汚すかも知れぬが、今日は、もう、眠いのだ。




