腕くらべ 1
クロスロードの南町に「マルティエの亭」という店がある。
造りの小さな宿屋であったのだが、とある事情で、今は従業員以外には、殆ど寝泊まりする者は居ない、こうなれば、小料理屋と呼ぶべきであろうか。
ただ、料理の方は実に上質で、それゆえ、一匹の野良猫が住み着くようになったのだ。
その名は御用猫、クロスロードの裏社会では、それなりに名の通った賞金稼ぎである。
そもそも、賞金首に対して、賞金稼ぎの絶対数は少ないのだ、それが腕利きともなれば、クロスロード中を探しても、果たして何人いる事か。
名が売れる前に、大抵は返り討ちにあってしまうのだ、犯罪者全てに賞金が掛かっている訳でもない以上、どちらが不利かは、考えるまでも無いだろう。
浜の真砂は尽きるとも、世に悪党の種は尽きまじ、とは、良く言ったものである。
兎にも角にも、この稼業で生き残っている、という事は、それなりの実力があるのだ、御用猫、の名を聞けば、震え上がる賞金首は、数知れないだろう。
その、やくざな男が、今は小さく縮こまり、額に汗を浮かべて、視線をあちらこちらに彷徨わせるのだ、誰かにに助けを求めるかのように。
「ちょっと、本当に、意味が分からないのです、ごめんなさい、勘弁してください」
ふうふう、と荒い息を吐き、額の汗を何度も拭いながら、膝に乗せた少女の小さな肩に、縋るように抱き付いている。
「……おとさん、私、迷惑でしたか」
彼を父と呼ぶ、膝の子は、名を、ゆっこ、という。
とある事情で、一ヶ月前まで、御用猫が預かっていた少女なのだ。
涙の別れをした筈の少女は、先程まで、機嫌良さそうに彼の膝を堪能していたのだが、流石に椅子の様子がおかしいと、不安になったのだろう。
ぱりん、と、硝子の割れる音。
飲食店で使う食器という事で、落とした程度で傷は付かぬ硬度の切子であったが、向かいに座る赤鬼にとっては、飴細工のようなものであろう。
「電光」のアドルパス。
二メートル近い、赤毛の大男、クロスロードの最精鋭、テンプル騎士団を束ねる、この国最強の騎士にして、救国の大英雄、生ける伝説。
熊と虎を掛け合わせたような、野性味溢れるこの男は、じろり、と、射殺す様な視線を、御用猫に向ける。
「そんな事ないぞ! 嬉しいに決まってるとも、ゆっこに会うのは久しぶりだが、少し大きくなったか? ちゃんと食べてるみたいだな」
よかよか、と少女の黒髪を撫でてやる。少し、肉付きが良くなったのは確かだろう。最初に会った時とは違い、肩より少し上で、綺麗に切り揃えられた黒髪にも、光の輪が生まれる程に艶がある。
「俺が、ゆっこの後見人になったからな、不自由させてるとでも思うのか」
おぉん、と、牙を剥き、威嚇するアドルパスに、少女が厳しい目を向ける。
「おじいさま、こわい顔しちゃ駄目って、言いました」
「おお、す、すまぬ、これは、じいの癖なのだ、おとさんを、苛めている訳では無いのだよ」
途端に、頬をだらしなく弛ませ、にこにこと笑う大英雄は、どこにでも居る、孫煩悩なおじいちゃんであった。
大事な話だからと、一度ゆっこを遠ざけたにも関わらず、目尻を下げ放しのアドルパスが言うには、先日の騒動の後、密かに、ゆっこの実父であるキケロ伯爵を呼び出し、修道院に預ける前に、彼女を育てるつもりは無いのか、と、最後の確認をしたそうなのだ。
結果、伯爵は頬骨を陥没させ、しばらく公務を休む程、心に傷を負ったらしい。
怒り心頭のアドルパスは、そのまま王女に直談判し、ゆっこを正式に、養子として引き取る事にしたというのだ。
もっとも、直接、彼女を養子にするには、色々と不都合があったらしい、その辺りは貴族達の複雑な事情があるのだろう。
最終的に、ゆっこは形式上、何故かアルタソマイダスの養女となり、アドルパスがその後見人となる事で落ち着いたそうだ。
正直、話の途中から頭を抱えた御用猫であったのだが、アドルパスとも、打ち解けている様子のゆっこを見れば、口を噤む他はない。
はぁ、と、大きく溜息を一つ。
ここ最近、御用猫の気分が沈んでいたのは、彼女の、ゆっこの事を案じていたからなのだが、とりあえず、もう、心配は要らないだろうか。
目の前の大男は、恐ろしい外見に似合わず、心根の優しい、お節介焼きなのだ。
「む、なんだ貴様、何か言いたい事があるのか」
我知らず、顔が綻んでいたか。御用猫は、頬を揉み解すと、てこてこ、と、膝に戻ってきた、ゆっこの頭に顎を乗せる。
「いや、アドルパス様は、さぞ、良いおじいちゃんになるだろうな、とね」
なぁ、ゆっこよ、と、顎の下に問いかけると。
少女は、とびきりの笑顔を見せたのだろう、向かいに座る熊の様な顔が、みるみる赤く染まる。
またひとり、急所の増えたアドルパスを、生暖かい目で眺めながら
(こないだ、少し泣いたのが、損したみたいで気分悪いがな)
とりあえず、損した以上の益はあったか、と、ようやくに落ち着いた御用猫は、猪口を持ち上げて、ふと、気付く。
「そういや、結局、何しに来たんですか? 報告だけって訳じゃ……まさかゆっこ、お前が我儘言ったんじゃないだろうな」
ぐりぐり、と、顎で少女の頭頂部を押さえながら、ふと、御用猫は気付いた。
背中の悪寒に。
「おう、それだがな、ゆっこが、最近、アルタソの事をな……呼ぶんだよ」
「な、なんて? 」
殺気にも似た重圧を感じ、御用猫は、急速に乾いた喉から、何とか言葉をひり出す。
「おかあさま、ですか? お外で恥をかかない様に、今から練習しておきなさいって」
「あいたー」
少し、恥ずかしそうに、口にするゆっこであったが、どうやら、満更でもない様子である。
「何のつもりだ」
「何のつもりもありません」
「何だと、貴様、責任を取らぬつもりか! 」
がっし、と、頭を掴まれた御用猫は。
ゆっこの幸せと、自分の不幸、これは、果たして等価であろうか、と、真剣に考えていた。