無情剣 面の皮 1
御用猫の父親は、まこと、感情を面に出さぬ男であった。
口数も少なく、稽古と食事を終えると、石のように押し黙り、そのまま、寝るまで座禅を組むような男であったのだ。
「心乱せば死線が見えぬ、怒りは足から地に流せ、恐怖は腹に、迷いは空に、己と剣をひとつにして、死線をなぞるのだ、泣き喚くのは、殺してからで良いだろう」
でなければ、死ぬのはお前だ。
物心ついた頃には、すでに木剣を握っていた。毎日のように、転がされ、殴られ、心を折られた。
ふらふら、と、買い物に町をうろつく、死に掛けの少年を見かねたのか、たまに教会から、治療師がやってきては、無償で、幼い御用猫の手当てを行っていた。
その治療師は、優しげな顔つきの中年であった、こっそりと甘味を渡してくれるこの男に、御用猫も随分と懐いていたのだが、ある時、父の留守を見計らったかのように現れ、いきなり、彼にのし掛かってきたのだ。
仰向けに転がされた御用猫は、訳が分からなかった。
分からなかったのだが、身体は勝手に動いた。中年が膝を付く寸前、膝頭を足裏で押し込むと、体勢を崩した男の下から、するり、と、抜け出した。
そのまま背中に廻ると、延髄に蹴りを入れながら立ち上がり、囲炉裏に刺さった鉄箸を、背中から腎臓に一本、悶えて裏返った男の心臓に一本、突き立てた。
御用猫の父が、帰宅して見つけたのは、目を剥いて息絶えた中年の聖職者と、今朝までとは、明らかに違った色の眼を、爛々と輝かせ、部屋の隅で膝を抱える我が息子であったのだ。
御用猫が、父に褒められたのは、それが最初であった、父の笑顔を見たのも、それが、最初であったのだ。
(なんだ……いやな、夢だ)
珍しくも、陽光より先に目覚めた御用猫であったが、あまり、気分の良い朝とは言えぬであろうか。
手のひらで顔を揉むと、鎖骨に食い付く、下着姿の黒雀を剥がしにかかる。
「おい、起きろ、いくらなんでも吸い過ぎだろう……まさか、お前が悪夢を見せてるんじゃないだろうな? 」
うーうー、と、唸るばかりで、目を覚ます気配の無い夢魔を、肩に担ぎ上げると、階段を降りて井戸に向かう。
厨房では、マルティエ達が朝食の準備をしていた。軽く挨拶だけすると、短い悲鳴が聞こえた。半裸の黒雀を見たせいであろうか、いい加減、慣れても良さそうなものなのだが。
九月も半ばを過ぎ、流石に行水は出来ぬ肌寒さであるが、洗顔や歯磨きくらいは、この殺し屋にも習慣付けなければならないのだ。
チャムパグンもそうであるのだが、こ奴らは、なまじ、達者なせいで、こういった事も、呪いで済まそうとするのだ。一般人には真似の出来ぬ事ではあるが、確かに呪いで洗った後の、彼女らの体臭は、御用猫が抱えて眠るほどの、心地よいものであったのだが。
「ほら、しゃんとしろ、これが、当たり前、の生活なんだからな」
ごしごし、と、眼帯を外して、顔を拭いてやる。よくよく見れば、金眼の方は、瞳の中にも梵字が浮かんでいた。はたして、これで、ちゃんと物が見えているのだろうか、などと、考えていると。
「くさい」
「なんだと、失礼な、もし臭いとしたら、それはお前の唾液のせい……あぁ、肥車か」
がたごと、と、石畳を鳴らしながら、荷台に大甕を乗せた馬車が、ゆったりと進んで行く。
「寝坊でもしたのかな? こんな時間に」
「くさい」
上水道の完備されたクロスロードであるが、下水に関しては、上町の、さらに一部にしか採用されていない。
これは、もちろん、そこまで手を掛ける費用や時間が無かったからであるのだが、そういった物が、売り物として、商売として成り立つからでもあったのだ。
クロスロードの生活廃棄物処理には、いくつかの利権が絡み合った、なかなかに規模の大きい組合がある。
汚物などは一度街の外に集め、発酵させてから、農地へと運ばれてゆくのだ。目の前を通る肥車は、通常、迷惑にならないよう、夜中に収集運搬を行うのだが。
御用猫は、さほど、気にならないのだが、黒雀は、やけに嫌がっていた、幾度もの改造により、人より五感の鋭い彼女であれば、不快感も倍増なのだろうか。
これは、マルティエの料理で、口直しならぬ、鼻直しをさせねばならぬと、早々に切り上げ、店内に戻る。
「猫、お、おはよう! 」
ぱたぱた、と、かけてきたリリィアドーネは、粗末な上下に、あずき色のエプロンを付けていた。
少しはにかんだ笑顔は、朝の太陽のように眩しく、御用猫は、先程の悪夢が、頭から消えるような心持ちになるのだ。
「いや、なんで居るんだよ」
厨房の方に顔を向けると、三人が目を逸らす。
(なんだ? 何か、こう、背中が、ぞわぞわ、する)
「くさい」
黒雀が、不快そうに、鼻をつまむ。まだ、先程の臭いが、鼻の中に残っているのだろうか。
「……実はな、先日、アルタソ様の屋敷へ、招かれたのだ」
「お、おぅ」
リリィアドーネは、両手で、エプロンの端を、きゅっ、と握る。下を向いて、唇を噛み、小刻みに、身体を震わせるのだ。
「アルタソ様が……ゆっこちゃんと、アドルパス様に……手料理を……」
あぁ、と、御用猫は理解した、彼女は、またもや絶望を味わったのだろう、しかも、自分と同類であると信じていた上司が、家庭料理とはいえ、見事な皿を仕上げてきたのだ。その時の、彼女の心痛は、いかばかりであろうか。
となれば、此処へ来て、この姿、答えはひとつしか無いだろう。
(なるほどね、マルティエに料理を習うつもりか、なんだ、可愛いところがあるじゃないか)
ならば、ひとつ味見でもしてやろうか、と、御用猫は、口を開きかけたのだが。
「くさい」
いつの間にか、厨房の方へ移動している黒雀が、鼻をつまむ。隣のマルティエは、わざとらしく仕事を再開した。
「わ、私とて、料理くらい、経験を積めば、出来るようになるはずだ、だから、その、な、しばらく……待っていて、欲しいのだ」
背中の悪寒は、首筋まで上がってきていたのだが、人差し指同士を突き合わせるリリィアドーネは、非常に可愛らしく、微笑ましいものであった。
なので、御用猫は、自分の本能を信じる事が、出来なかったのだ。
「ともかく、私の腕が、どんなものか知りたいとな、マルティエが言うので、簡単ではあるが、朝食を用意してみたのだ、これは、ぜひ、猫に食べてもらいたい」
私の、初めての料理なのだから、と、御用猫の手を引き、自信満々に、彼女はいつもの指定席へと誘う。
御用猫は、迂闊な自分を許せそうになかった。
しかし、起きてまで、悪夢を見ることになろうとは、誰が予想できたであろうか。
結局、御用猫が、それを完食する頃には、時計が一回りも、していたのだった。