花吹雪 21
いくさ場と化した中庭は、足首まで隠れる下草に覆われている。かつて、記念樹として存在したのだろうエゴノキは、病気かはたまた虫枯れか、窓から差す灯りに、その見すぼらしい枝を浮き上がらせていた。
「チャム、明かりをよこせ」
「んが」
大上段に構えたままの、御用猫が言ったそばから、ひゅるひゅる、と、まるで打上げ花火の様に、光球が天に昇り、辺りを仄かに照らし出すのだ。
「むっ? 」
僅かに、ステバンが唸る。無理もないであろう、例え簡単な灯火だとしても、準備動作も時間差も無く、一瞬にして呪いを行使したのだから。
「イスミちゃん! 」
しかし、彼のその疑問は、背後から聞こえた娘の声に掻き消された。
(クラリッサ……)
「イスミちゃん! 何してるの! 危ないよ、早く、こっちに! 」
彼女の言葉に、イスミは困惑するのだ、クラリッサの表情を見れば、今の言葉は確かに、純粋に、イスミの身を案じて放たれたものであるのだ。これではまるで、先程までの出来事を、全て忘れてしまったかのようではないか。
「イスミちゃ……」
「下がれ」
前に出ようとしたクラリッサは、しかし、父の突き出した長剣に遮られる。
「でも、お父様! イスミちゃんが! あれは、ひどい男よ、あいつと同じ、悪いやつなの、私に、ひどいことをするの! 嫌だって、言ったのに、笑うのよ、喜んでるの、私、もう、いやだよ……もう、がまんしたくない……こわい……たすけて……おとうさま」
膝をついて口元を押さえるクラリッサは、そのまま、頭から倒れ臥すと、胃の内容物を吐き出し始める。
「クラリッサ! 」
戦いの最中にも拘らず、ステバンは御用猫から目を切ると、娘に駆け寄ろうとしたのだが。
「……ころして」
顔を上げた実の娘から、ステバンは、思わず目を逸らしてしまったのだ。そこにいたのは、ただの、哀れな気狂いであったから。
「殺して! あいつを殺してぇ! もうたくさん! もう嫌だ! なんで邪魔するの! なんで私を責めるの! なんで助けてくれないの! お前も! お前も! おまえもォ! 」
ぶちぶち、と雑草を毟り取りながら、殺せ、殺せ、と叫び続けるクラリッサの声は、今まで溜め込んだ負の感情が爆発したような、悲痛な叫びであり、救いを求める懇願であり、父を罵倒する呪いであった。
(違う、これは娘ではない、こんな……こんなもの、こんな結果、認められる筈もない)
長剣の柄を、指が折れそうな程に握り締め、ステバンは呪った、怒った。己の不甲斐なさを、娘の変化に気付きながらも、雇い主である公爵を恐れ、問いただすことが出来なかった、過去の自分を、殺してしまいたいと。
「……何があったか知らないが、そいつに必要なのは、時間と、安息だろう……治療師ならば、腕の良いのを紹介してやる、だから……」
「貴様に! 何が分かる! 」
振り向いたステバンの瞳からは、しかし、悲哀の色しか感じ取れないのだ。声を震わせ、怒りに肩をわななかせても、彼の心中は、後悔と自罰に満ちていたのだ。
「分からないさ、だが、知ってるか? 辛島ジュートは、正義の味方だそうだ」
ちゃきり、と頭上にて、御用猫は太刀を回転させる。
「気が変わった……とりあえずは、お前の頭を、冷やしてやろう」
「若造がッ! しぃったふぅな、口をォッ! 」
ステバンは、死ぬつもりであった。微塵の守りも無い、これは、そう、特攻である。
「きィ、くなぁァぁあァッ! 」
しかし、その怒声も、御用猫には、助けを求める悲鳴にしか、聞こえなかった。
全てを棄てた一撃、彼の、全てを乗せた突きは、恐るべき鋭さにて、狙いあやまたず、御用猫の胸に吸い込まれ。
どんっ、と、弾かれたのだ。
(……金剛ッ!?)
かつて、一度だけ、稽古でアドルパスに一撃を入れた事があった、今と同じ、渾身の突きであった、これは、その時に覚えた感触。まだテンプル騎士であった頃、若く、夢と希望に溢れていた頃、その感触は、今でも鮮明に思い出せる。
(そうだ、アドルパス様に、褒めていただいた……私は、嬉しかったのだ……)
どうして、こうなってしまったのか。
ステバンは、心の内で涙を流した。
「倒ッ!!」
ぼぐり、と、くぐもった音は、彼の鎖骨が砕かれた事と、そして戦いの終わりを告げていた。
長剣を取り落とし、蹲る父に、クラリッサは駆け寄ると、その背中に、平手と罵声を浴びせるのだ。ステバンの背中は、まるで老人の様に小さく、弱々しく見える、とても、元テンプル騎士とは、思えぬ姿であろう。
「クラリッサ! 」
きつく呼び掛けられ、振り向いた彼女の頬に、ぱしん、と音を立てて、平手打ちが見舞われた。何が起こったのか理解できぬ少女は、ぽかん、と口を開け、イスミを見上げるのだ。
「……イスミ、ちゃん? 」
そのまま、がば、と抱き着いたイスミは、何も言わず、ただ、力いっぱい、クラリッサの身体を締め付ける。
「……イスミちゃ……イスミ、ちゃん、イスミちゃん……」
ぼろぼろ、と大粒の涙を流し、クラリッサは泣き始めた。子供の様に手足をばたつかせ、ただ、大声で泣きじゃくるのだ。
「あがぁ……」
彼女がついに力尽きるまで、イスミは抱き続けた。
気付けば、イスミも涙を流している、何度もそれを拭いながら、ぐったり、としてしまったクラリッサを膝の上に抱えている。
「……チャム、どうにか、ならないか? 」
蹲ったままのステバンの横に胡座をかき、御用猫は、すっかり疲れきってしまった少女二人を眺めながら、そう呟いた。膝の上では、未だに少々不満げな顔の黒雀が、所在無く下草を毟っている。
「……んー、まぁ、どうにかならんこともないですが……猫の先生ぇ……誰もかれも、みな助けるなんてぇのは、ちょいと、欲張り過ぎや、しませんかねぇ? 」
草むらに、卑しく寝そべる卑しいエルフは、いつもの如く、卑しい声音ではあったのだが、おそらく、その瞳には、いつもと違う光が灯っている事だろう。
「別に、誰もかれも、助けるつもりは無いんだけどな……とはいえ、今回は、まぁ、仕方ないだろう」
「そりゃ、なんでまた」
御用猫は、身体を捻ると、悪魔の目を見据え、そして、笑ってみせるのだ。
「どうやら今は、正義の味方らしいからな」
見えない傷を、なぞりながら。
「ぶはははっ」
その可愛らしい顔に似合わぬ、下品な笑いをこぼすと、チャムパグンは立ち上がって尻をはたく、どうやらこの悪魔も、今宵限りは、天使になってくれるようである。
「でも、記憶消すだけでごぜーますよー? ごっそり抜け落ちますからねー、多分、頭ん中は、子供の頃に戻ると思いやすよ? ……まぁ、サービスで、あっちの方も治してやりますが」
「……だとよ、どうする? ハルヒコ」
元テンプル騎士、ハルヒコ ステバンは、ただ、頭を地に擦り付けると、一言だけ。
「……どうか」
それ以上は、言えなかった。
喉から溢れる慟哭を、抑えることが、出来なかったのだ。