花吹雪 18
「ようし、ここまでにしよう! 皆、ご苦労さま、明日の本番まで、ゆっくりと身体を休めてくれ」
公演前日の予行演習も終わり、空の劇場内に、ファング女史の声が響いた。演者達は安堵の吐息を漏らし、何事か打ち合わせながら退場してゆくのだが、今宵は皆一様に、緊張に襲われ、眠れぬ一夜を過ごす事になるのだろう。
しかし、裏方の方は今からが一仕事なのだ、明日の舞台の成功は、彼女達の働きぶりにかかっていると言っても、決して過言ではないのだから。
劇場に残るファング女史は、照明の位置から、入場客の整理方法の段取りまで、事細かく確認してゆく。これで演者までも務めるのだから、その労力は想像を超えるものがある、早く引退し、舞台の統括管理に専念したいと言うのも、やはり当然の事であろう。
「イスミちゃん、早く戻ろう、今日もお迎えが来てるんだから」
舞台の上で、ファング女史を眺めるイスミは、どこか遠くを見ているようで、放っておけば、何時迄も、そこに立ち尽くしてしまいそうなのである。
「あー、うん、ステバンさん、時間に煩いもんね……相変わらず固いなあ、もう、子供じゃないんだから、少しは信用してくれてもいいのに……じゃあ、チャーリー、明日もよろしくねー」
「分かりました、では、二人とも気を付けて、明日は屋敷まで迎えに行きますので」
こっちも固いなあ、と呆れたように笑いながら、イスミは控え室に戻ってゆく。先日の宿泊については、随分と灸を据えられた彼女である、ここ数日はサルバット公爵家の護衛頭である、中年の男が送り迎えをしていたのだ。
一応面通しをしたリチャード少年であったのだが、その男の発する強者の雰囲気には、肝を冷やしたものだった。
(これは……流石に元テンプル騎士ですね、所作にまるで隙が無い)
金髪の護衛頭はもとより、左右に控える副官二人とも、今のリチャード少年では、相手にならぬ程の遣い手であろう。都落ちしたテンプル騎士を、個人的に雇い入れる、という話は珍しい訳でも無いのだが、そういった場合は堕落した生活を送るものが多く、彼のように鍛錬を欠かさず、己を高め続ける者は滅多に居ないのだ。
これは、余程に真面目な人物なのだろうと、少年は一先ず安堵する。儀仗隊に対して、当日は公爵家からも手兵が出され、劇場の警護に当たる事になっていた。
現金護送車については、西町の麒麟パイフゥ騎士団と、テンプル騎士までもが、数人配置される手筈になっているのだ。これ程に厳重な守りの中、正面切って襲ってくる盗賊もいないだろうが、それでも、イスミの一番近くに居るのは自分なのだと、リチャードは改めて拳を握る。
「若先生から任された、この仕事……必ず、やり遂げてみせます」
少年の瞳には、気負いも、迷いもなく、ただ、真っ直ぐな光だけが宿っていた。
「……ねえ、イスミちゃん、明日は、本当に舞台に立つの? 」
「またそれ? もう、ちょっとしつこいよー、今更辞めるなんて、言える訳ないじゃない」
言うつもりも無いけどね、と、イスミは仮衣装の上着を脱ぎながら、笑って見せる。
「だって……本当に、危ないよ、街中で凄く噂になってるし……代役なら、アンリさんだって」
もそもそ、とボタンを外しながらクラリッサは、それでもと食い下がる。彼女も端役とはいえ、明日の舞台に上るのだ、イスミの影に隠れた形ではあるが、金色の巻毛に可愛らしい顔立ちの彼女も、期待の新人として、大いに注目を集めているのだ。
「くどいよ、もう、アタシは決めてるの、何があっても止まらないってね……それに、知ってるでしょ、アタシ、こーゆーの、燃えるんだよね」
にやり、と笑うイスミに、クラリッサは、僅かに、困ったような、泣きそうな表情を見せたのだが。
「……そう、良かった」
実に晴れ晴れとした、笑顔を見せたのだ。
「ほんとはね、イスミちゃん、私、貴女に舞台に上がって欲しかったの……でも、心のどこかで、思ってたの、イスミちゃんに何かあったら、私、たぶん、悲しむだろうな、って……だから止めたの、止めてたの」
でもね、と、クラリッサは、イスミの眼を、じっ、と見つめたまま、言葉を続ける。その、いつもと違う少女の視線に、彼女は何か空恐ろしさを覚えたのだ。
「止まらなかったかぁ……うふ、やっぱり、イスミちゃんは、イスミちゃんだね……だから、私ね、嬉しいの……とっても、嬉しいの」
にこにこ、と笑う彼女に、イスミは曖昧な返事をする。花吹団の見習い時分から、お目付役として一緒に過ごし、もう四年は付き合っている彼女なのだが、未だに、こうして分からぬ時があるのだ。
(特に、舞台の前には、こうなるのよね……緊張して、昂ぶってるのかな)
まぁ、分かる話ではあるだろうと、イスミは気にするのをやめた。今は、明日の本番だけに集中したい、帰ったならば、ベッドに潜り込んで、眠りに落ちるまで震えなければならないのだから。
少女は、前だけを向く事に決めた。
今までもそうであるし、今回もそうなのだ。
自分に期待してくれる人達がいるならば、それに応えたい。
自分を支えてくれる人達がいるならば、それに返したい。
戦いの相手は、自分自身であった。