花吹雪 14
「はぁ……」
花吹団の浴場を貸し切りに、リチャード少年は息を漏らす。しかしこれは、最近頓に増えるばかりの溜息では無く、かけ湯にて汗を流した、いわば至福の吐息であった。
体温と温水によって、少しばかり色づいた肌は薄桃にて、見るからにきめ細やかであり、玉の滴を浮かべたその姿は、確かに、女性と見紛う事もあるやも知れぬ。しかし、なんたることか、手拭いで自らを吹きあげる少年の胸には、僅かな膨らみが見受けられるのだ。
これは、彼の呪いによる偽装であったのだが、そこは、未だ女性と肌を重ねた事のない少年である。女の全身を再現するなどと、はなから不可能な話なのだ。
念の為にと、かけた呪いではあるのだが、じっと眺める者があれば、やはり、不自然な身体つきに見えるだろうか。
(まさかに、この様な呪いを使う事が有ろうとは……やはり、何事も経験でしょうか、一度くらいは……)
しばし、動きを止めた少年であったのだが、ふと、脳内で思い描いた情景に、慌ててかぶりを振る。顔中をさらに赤くした彼が、果たして、何者を思い浮かべたのかは、知る由も無いのだ。
(あぁ、いけない、早く上がってしまおう、イスミさんを待たせてしまっているのだから)
今度こそ溜息を吐き、リチャード少年が立ち上がろうとした刹那、背後から、がらり、と引き戸を転がす音がする。
(しまった、長居し過ぎた)
きつく目を閉じ、肩を動かさずに浅く呼吸する。自らの、しくじり、を責めるのは後回しに、少年は対策を思い浮かべるのだ。
(出来るだけ、不自然にならぬように、視線は送らず、ゆっくり動いて、簡単に挨拶だけを……)
「……チャーリー、さん」
背後から投げられた、聞き覚えのある声に、少年は混乱するのだ。
声の正体は、クラリッサであった。
「少し、お話が……」
緊張しているものか、少しだけ、彼女の声は震えていた。その姿を確認した訳ではないのだが、足音と衣擦れ音から判断するに、全裸であるのは間違いないだろう。
「クラリッサさん、お話ならば、後で伺いますので、外に行きましょう、僕は振り返りませんので、どうか先に……」
「あの! イスミちゃんの事で……他の人には、聞かれたく、ないの」
リチャード少年は、振り返らずに頷くと、彼女に先を促す。風呂場に現れた時には、少しばかり動揺したが、彼は、瞬時に頭の中を整理した。
「その、脅迫状の事は、聞きました……それで、あの……リチャードさんからも、イスミちゃんを、説得して欲しいのです」
「説得、ですか? 」
聞き返す少年に、クラリッサは小さく答えを返す、そして、ゆっくりと話し始めたのだ。
「サルバット公爵様は、今回の事で、お心を痛めておいでです……もう、彼女に、この様な真似はさせたくないと……女優など辞めて、夜会にも参加して欲しいのです、イスミちゃ……ミディア様の知名度ならば、もう、どのような名家であろうとも、輿入れが叶うはずなのですから」
「なるほど……良く分かる話です、しかし、彼女の意志は、どうするのですか? イスミさんは本気です、本気で、この仕事に取り組んでいるのです、目を見れば分かります……それは、どうなるのですか? 」
リチャード少年は、しかし、明確に拒否はしなかった。もう少し、彼女の話を聞かなければならないと判断したのだ。
「むしろ、本気でなければ……ミディア様に、才能が無ければ……こんなに人気が出なければ、何も問題ありませんでした、でも、これは行き過ぎです、おかしな者に目を付けられ、怪我まで負って……先日の事故も、あの程度で済んだのが、不思議なくらいなのですよ? ……ただただ、心配なのでしょう、公爵様のお気持ち、理解しては、くださいませんか……お礼ならば……」
無言のままに、クラリッサは、少年の肩に手を触れ、そのまま、彼に肌を合わせてきたのだ。柔らかな、ふたつの感触を背中に覚えたリチャード少年であったのだが。
「不要です」
しかし、きっぱりと、言い放つ。
「ですが、公爵様のお考え、充分に理解いたしました、僕の口からも、それとなく話を通してみます……もちろん、貴女や公爵様の名前は出さずに、です、雇い主からの意向であるならば、それに従うのが、筋でしょう」
背中には、安堵の溜息を感じるのだが、リチャード少年は、しかし、違和感を覚えたのであった。
「ふぅん、成る程ねぇ……すこぅし、話も見えてきたかな? 」
相変わらずの辛島ジュートは、左手で顎をさすりながら、目の前のアナゴの白焼きを摘まみ上げる。トウタの目利きは大したもので、随分と型も良い、酒蒸ししてから、串に刺して、ちりちり、と皮を焼かれたそれは、御用猫の口内に唾液を溢れさせるのだ。
「何ですか! その話は、そんな理不尽な事がありましょうか! イスミさんは花吹団の次代を担う人物なのですよ、それに、私達は彼女の身を守り、この事件を解決する事を依頼されているのです、かような話は到底もがむぐ」
隣で憤慨する啄木鳥の、ぱくぱく、と良く開く小さなくちばしに、摘まみ上げた白焼きが詰め込まれる。言葉を遮られたサクラは、当然に御用猫の肩を叩いて猛抗議を始めるのだが。
「すまんすまん、しかしな、怒ったサクラも、これがまた、実に魅力的なのだ、ついつい、見たくなったとしても、これは、もう仕方のない事だろう? 」
などと、適当な言葉に、簡単にあしらわれてしまうのだ。頬を膨らませて、もごもご、と口を動かしてはいるのだが、これは、仕様のない人ですね、などと言っているのだろう。
「でも、確かに、分かる話では、あるんだよねー、お爺様は、最初から心配してたし、逆の立場だったら、アタシだって、ほら、同じ事言いそうだし……ていうか、ほんと、日替わりなの? どうなの? 子供じゃなくてもいいの? いや、サクラもちっこいかー、ちょっと、ねぇってばー」
「若先生、どうなさいますか? とりあえず、今の話は内密という事にしても、このまま話を合わせる、という手もありますが……しかし、それでは相手が動きを控えてしまう可能性もあります、当初の予定通り、釣り出すならば……」
びっ、と手を突き出し、リチャードの言を遮ると、もぐり、とアナゴを飲み込んだサクラは、その顔に自慢げな笑みを浮かべたのだ。
「ふふん、残念でしたねリチャード、この勝負は私の勝ちのようです、私達は、イスミさんをつけ狙う、不逞の輩に関する、重要な情報を……」
「あ、それはティーナが来てから話してくれ、二度手間になるから」
「ふがっ!?」
何でですか何でですか、と御用猫の右の袖を、サクラが引回す。いつの間に隣に移動してきたものか、ねーねー、とイスミも左の肩口を引っ張るのだ。
ぐらぐら、と頭を左右に振りながら、御用猫は、呆れたように溜息を吐くリチャード少年に問いかける。
「……ところでリチャードよ、お前、その話は何処で聞いたんだ? 稽古場の間取りは俺も確認してるが、どうにも、状況的に、二人で話せるような場所が、思い付かないのだが」
「え、それは……」
ぴたり、と少年の口が固まる。何か辻褄の合う話を作らねば、とは考えたものの、風呂から上がったイスミが、何処に居たのか分からないのだ、迂闊な言い訳はできないであろう。流石のリチャード少年とて、そう簡単に言葉を紡げない様子である。
「……風呂場、だろう? 」
「わ、若先生! 」
なんたる事か、リチャード少年の敬愛してやまぬ、この野良猫は、顔中に嫌らしい笑いを貼り付けていたのだ。恐らくは、最初から彼を揶揄うために、このような質問を投げかけたのだろう。
御用猫は、このような悪戯に関して、なんとも知恵の回る、察しの良い男であったのだ。
野良猫の両手は、すぐに自由になった。左右から揺すられ、助けを求めるような、非難するような少年の視線を肴に、彼は猪口を持ち上げる。
少年の溜息は、もうすぐ悲鳴に変わりそうであった。