花吹雪 10
「はわっ! すっごい! 全然、痛くない! 」
公演翌日、マルティエの店を貸し切りに、いつもより小規模ながら、新年の宴会が行われていた。しかし、もしもこの光景を目にしたものがあったならば、大枚を叩いてでも、参加したいと声を上げていただろう。
なぜなら、店の中央で飛び跳ねるのは、現在の花組で、一二を争う人気女優達であったのだから。
「イスミ、やめなさい、本当に足が治ったのだとしても、お前はしばらく安静にしているんだ」
「ええー……でも、うぅ、はい、分かりました……はぁー、仕方ないか……ありがとね、チャムたん、あ、ハム食べる? 美味しいよー」
マルティエ作の燻製肉をぶら下げると、卑しいエルフは、彼女の指ごと、それに食らいついた。
中央のテーブルには、花組の三人と、サクラを始めとした女性陣。どうやらマルティエの従業員達も、花吹団の、特にファング女史の愛好家であったようだ、両手を組んで、まるで恋する乙女のように、熱っぽい視線を送るばかりである。
奥のテーブルには、特製の大皿料理を、まるで競うように、一心不乱に貪る、黒雀と大雀の姿も見える。大雀は、マルティエで宴会があると聞いて、昨夜は柱にかじりつき、どうやっても離れようとしなかったのだ。
なので、階段横の、いつもの専用席に着いているのは、御用猫とリチャード少年、そして。
「なるほどね、それで私が呼ばれたって訳だ」
「新年早々、面倒をかけて悪いが、何とか頼むよ、少々雲行きが怪しくなってな、サクラの面倒までは、見れそうにないんだ」
けらけら、と機嫌良さそうに笑うティーナに酌をしながら、御用猫はリチャード少年の報告を思い出していた。彼の記憶力は、まことに大したもので、たった今、ティーナと田ノ上老に話していた事柄は、御用猫が昨日聞いたものと、一言一句、寸分違わぬ内容だったのだ。
(しかし、そうなると、俺の予想は外れてしまったのかな)
事件が起こったのは、公演の後である。今年の初舞台も、大盛況のうちに幕を下ろし、興奮冷めやらぬ観客達は、仲良い者とそのまま街に繰り出して、酒を飲みながら、今回の演者や演出について、深く熱く語り合うのだ。ある意味、最も楽しく盛り上がるのは、これからであろうか。
「……それで、またイスミは舞台の上かい? 」
「はい、イスミちゃんったら、ああなると、梃子でも動かないんですから」
クラリッサからの報告を受けたファング女史は、呆れたような、しかし、優しげな表情を浮かべているのだ。二人ともに湯浴みをしたばかりであった為、化粧も無く、公演の終わった脱力からか、少々、乱れた服装と雰囲気を醸し出している。
若く美しい女性達の、少しばかり上気した肌色と、艶っぽい吐息には、流石のリチャード少年も、落ち着きを隠せない様子であり、せわしなく視線を彷徨わせて、居心地悪そうに身体を揺する他にはない。
(あぁ、若先生はまだでしょうか……頼って欲しいとは言いましたが、まさか、このような仕事だとは)
仕事の終わったイスミは、明かりの無い舞台の上を占領し、ひとり、何かに取り憑かれたかの様に、自らの演技を振り返り、時には歌い踊り始めるのだ。本番さながらの集中力を見せる彼女には、声をかける事も出来ず、放置しておくしか無いのだという。
「もうすぐ、お腹を空かせて戻ってくるさ……それよりも、リチャード君、君の芸名は「チャーリー」だ、明日からの稽古にも、当然に参加してもらうから、そのつもりで」
「うっ……はい、しばらく、お世話になります……」
リチャード少年の扱いは、ファング女史が直々に勧誘してきた見習い、という扱いになりそうである。いくら美少年だといえど、ホノクラちゃんとは方向性が違うのだ、流石に化粧無しで、女のふりをするのは苦しいだろうが。
「しかし、男役志望の少女として見てしまえば、まるで違和感はないね……素晴らしい、素晴らしい逸材だが、実に惜しい……いや、待てよ、心が乙女、という設定ならば、どうだろう? 花吹団に新しい風を……」
何やら、恐るべき目付きにて、ファング女史は、脳内で少年の売り出し方法を計算し始めたのだ。慌てたリチャード少年が、思わず立ち上がり、拒否しようとしたのと、扉が勢い良く開いたのは、しかし、全くに同時であったのだ。
「た、大変です! ファングさん! イスミさんが、階段から! 」
「……なんだ? どうしたというのだ、詳しく報告なさい」
転げそうな勢いで駆け込んできた、裏方の女性に、ファング女史は振り向いて尋ねる。
一気に目の覚めたリチャード少年は、頭の中で幾つもの対応を用意するのだが、しかし何故か、その片隅で、微かな違和感を覚えるのだ。
「若先生、申し訳ありません、僕は、心の何処かで、浮ついておりました……役目を、軽くみておりました、イスミさんが一人になったと聞いたならば、何を置いても、確認にゆくべきだったのです……」
「あぁ、それはもう忘れろ、気持ちを切り替えねば、挽回も出来ぬのだからな……本当に気にするな、お前は良くやってくれてるよ」
もう、何度目かも分からぬ謝罪を繰り返す少年の頭に、軽く手を載せると、御用猫は考える。
「しかし、お前の勘働らきは、当てに出来る……その違和感の在り処、その正体、頭の隅で、いつも探しておけよ」
「はい、心して」
ぐい、と口を一文字に結ぶ少年の表情に、御用猫はその口元を、逆に緩めるのだ。
(ふふ、相変わらず、真面目な奴だ……しかし、あの女には、俺も、なにか引っかかるものが、確かにあるのだ)
だが、今もイスミを気遣うファング女史が、彼女に危害を加えようなどと、果たして有り得るだろうか。彼女の瞳の奥には、なにか、ただならぬものを感じていた御用猫なのであるが、それが単純な悪意だとも思えぬのだ、むしろ、才能情熱ある演者には、誰しも少なからず、そういった所があるものだろう。
「それは、イスミもそうだしな……うぅん、とりあえずは、様子見か……そうだな、問題は先送りだ、時間が解決してくれるかも、知れないしなぁ」
「……早めに、謝っておいた方が、良いんじゃない? 」
不意に投げられたティーナの言葉に、御用猫は短く息を漏らす。どうやら、こちらの方は、先送りという訳にもいかないようだ。
「あの……親父殿? 良い加減に、機嫌を直しては、貰えませんかね? 」
「機嫌を直せとは、何の事やら、儂は、ちぃーとも、気にしてはおらんよ……今まで、目をかけてやった弟子どもが、新年の挨拶も無く、何やら楽しそうに演劇鑑賞をしておった、ただ、それだけの事よのぅ」
(気にしてるじゃねーか)
御用猫とて、決して忘れていた訳では無いのだ。事実、新年早々に乱入者が無ければ、リチャード少年を連れて田ノ上老に挨拶に行った筈であったし、ゆっこに伝言させた約束があった為に、そちらを優先しただけで、後回しにはなれど道場に向かう事も出来たのだ。
そして、この、面倒な依頼である。
これは、決して逃げられるものでは無かったのだ、運命なのだ。そもそもに、良い歳をして、この程度の事で臍を曲げるなどと、まるで子供の様である、これでは「石火」の名が泣くのでは無いのだろうか。
などと、御用猫は内心にて、言い訳と文句を並べていたのだが、しかし、確かに、田ノ上老にしてみれば、随分な不義理ではあろう。
(仕方ない、ここは素直に謝ろう、親父殿とて、事情はもう知っているのだ、気持ち良く許してくれるだろう、これから、ティーナにも協力してもらわなければ、ならないのだからな)
「おぉ、そう言えば、アドルパスの奴めには、挨拶に行ったのだったな……ふぅん、そうかえ、リリィアドーネも可哀想にのぅ、野良猫は剣姫様の方がお好みであったか、家族三人、いや、四人かの? さぞ、楽しかったであろうなぁ……豪勢であったろうなぁ……田舎の草臥れた道場では、大したもてなしも、出来ぬしなぁ、すまなんだなぁ」
「あぁ鬱陶しい! 悪かったよ! はいはい、私が悪うございましたぁ! こっちだって気を遣ってたんだよ、その分ティーナとよろしくやってたんだろが、子供が出来たら年始の小遣いは弾んでやりますからね! あぁ楽しみだ! これで道場も安泰だぜ! 」
大人気ない大人二人は、ついに掴み合いを始めたのだが、ティーナといえば、頬に手をやり、身体をよじるばかりであったし、他の面々は人気女優達にかかりきりで、こちらに目を向ける事さえ無いのだ。
「わ、若先生! 大先生も、やめてください! お互いに事情もありました、めでたい新年なのですし、穏便に、どうか穏便に」
目の前で争う師匠二人を、何とか抑えようと奮闘する少年であったのだが。
「……おぉ、そういえば、リチャードや、もう決めたのかえ? お前も成人であろう、サクラにするのか、ゆっこにするのか……儂を選ぶのか……それともアドルパスか」
「親父、こいつは最近、フィオーレとも良い感じなんだよ、いっちょまえに、色気づきやがって」
「あら、やっぱり? 最近、なーんか仲良いと思ってたのよね……あの娘は、まだ初なだけでさ、恋しちゃったと自覚したら、一直線だと思うわよぉ? リチャード君、たーいへんだ、美男子は辛いわね」
ほんの一瞬前までは、殺し合いでも始めそうな雰囲気であったはずなのだが。
(……喧嘩が収まったのです、これは、必要な犠牲……そうです、そう、思わなければ)
少年は、目の前の清酒をひと息に呷る。
もう、成人なのだ、遠慮する事は、無いだろう。