腕くらべ 10
御用猫達は、ラバ車に揺られ、ゆったりとした速度で田ノ上道場に辿り着いた。フィオーレ達の馬も、ロシナン子に合わせて移動したため、心なしか元気そうに見える。
道場の敷居を跨ぐと、彼等を出迎えたのは、腕を組んで満面の笑みを浮かべるサクラであった。
「ゴヨウさん! 待っていましたよ! 必ず来ると、私は信じていましたからね! ほら、みなさい、リチャード! 言ったでしょう、私の言った通りだったでしょう! 」
ふんこふんこ、と、鼻息荒く、この少女は大興奮の様子である、奥からは、何やら微妙な表情のリチャード少年が、申し訳無さそうに頭を下げるのだ。
御用猫はフィオーレと顔を見合せ、取り敢えずは、田ノ上老に挨拶をしようかと、母屋に上がる。
「はぁ? はあぁぁーっ!?」
母屋の柱が震えるほどに、サクラの叫びが響き渡った。
どうしたものか、早速に稽古だと張り切るサクラを宥めながら、田ノ上老に、これまでの経緯などを説明し、田ノ上念流の名に泥を塗ってしまったと詫びをいれる。
今は、すっかり丸くなったとはいえ、鬼の田ノ上の事である、反対側の腕をもぎ取られるのでは、と、内心、恐れてもいたのだが、その点について責められる事は無かった。
しかし、それで、どうするのか、という問いに。
「いや、別に、どうもしないけど」
と、答えた瞬間の、サクラの叫びである。
「何を言っているのですか? 道場に来たのは、もう一度ダラーン伯爵に挑むためでは無いのですか? 大先生なら、きっと、何か凄い技を教えてくれるはずです、やりましょう、えぇそうしましょう、昨夜、お父様から聞いたのです、ダラーン伯しゃ、いえ、もう構いません、ダラーンの奴めが卑怯な手を使い、ゴヨウさんに恥をかかせたと、許せません、言語道断です、何が「三スター」ですか、あのような卑劣漢に、もしもリリアドネ様が嫁ぐような事になったらと思うと、あぁ、いけない、いけません、想像するだけで、くらくらします、ちょっとだけ、少しだけ思うところはありますが、あんな奴に渡すくらいなら、ゴヨウさんに奪って貰うのが、まだ、いいに決まっています、やりましょう! 離して! やーるーのー! 」
途中から、リチャードとフィオーレに抱えられ、道場に連行されるサクラの声が遠ざかってゆく。
「何だありゃ、ひょっとして、朝からああだったのか? 」
「まぁ、そう言うでない、あれでも、随分と、お前を気遣っておったのだぞ」
それは、有難いな、と、少し温めの焙じ茶を啜りながら、目の前の豆大福を、隣の少女の皿に乗せてやる。
愛おしそうに大福を両手で摘み、もっもっ、と、栗鼠のように頬を膨らませた黒雀は、御用猫に頭を擦り付けて、喜びを表現していた。
「それで、どうするかよ」
「……さっきから言ってるだろ、どうもしないよ」
ふうむ、と、顎を掻き、どこと無く、ばつの悪そうな顔で、田ノ上老は口を開く。
「女での間違いは、誰にでもあるものよ、ましてや、それが惚れた女なら、一度や二度、筋を違えたとて、誰も責めはせぬのだがのう」
「惚れてはないが……ん? なんだ、おやじ、何か隠して無いか? 」
突然に目を逸らし、茶を啜る姿は、まるで悪さをした子供のように、非常にわざとらしいのだが。
「……良いけどさ、サクラに、嫌われても知らねぇぞ」
「まぁ、それは、置いての」
御用猫は、黒雀に遊んで来いと、部屋から出し、居住まいを正す。
田ノ上老の雰囲気が変わったのを感じたからだ。
「猫よ、儂は、そのダラーンとやらの事は知らぬ、お前から見て、リリィアドーネが勝つと思うか」
「勝つさ、呪いは確かに強力だったが、それでも、まともにやってリリィに勝てる奴は、そうは居ないだろ」
御用猫の目から見ても、リリィアドーネは恐ろしく腕を上げている、話を聞いた限りでは、正式な騎士の手合い、それも御前試合だというのだから、まっとうな勝負になるだろう、そうなれば、例え「雷帝」のビュレッフェだとて、彼女には一歩届くまい。
彼女は勝つ、そうに違いないのだ。
「……そうかえ、儂は、そうは思わぬ」
ぐい、と、身を乗り出し、田ノ上老は断じる。
「儂は、ダラーンは知らぬ、だが、リリィアドーネならば、良く知っておるよ、あれは、素直で、良い娘じゃ……だがの、それだけよ、剣筋が良すぎる、綺麗な心が、剣に良く出ておるのぅ……猫よ、正直に言うてごらん……あの娘が賞金首であったとして、お前ならば、簡単に、仕事に出来るじゃろう? 」
御用猫は、言葉に詰まる。
「……だからといって、口は差せない、仮に、もし、代わりに戦ったとしても、俺じゃ、ダラーンには勝てない」
「まともに、やらねば良いではないか」
(何て、じじぃだ)
御用猫は、内心で呆れていた。これでは、ケインと発想が同じではないか、手段を選ばず、ダラーンを闇討ちしてしまえ、と、言っているのだ。
「ほれ、あの黒娘でも良いのだ、ちょいと頼めば、前日に足の腱でも斬ってこよう」
子供におつかいでも頼む調子で、気軽にそんな事を言うのだ、これ以上は、話す気にもならない。
「あぁ、やめだやめ、この話はお仕舞いだ、俺は何もしない、リリィが婚約しようが結婚しようが、俺の知った事か」
「ふむ……まぁ、それも良いか」
湯呑みを空にすると、田ノ上老は立ち上がり。
「どうした、ゆくぞ、珍しく稽古に来たのは、本当であろ? 」
何か見透かした様に、にやにや、と笑うのだ。
「畜生、この仕返しは痛いからな」
御用猫も、焙じ茶を飲み干し立ち上がる。この、もやもやは、リチャード辺りで発散するとしよう、などと考えながら。
「しかしの、良い女とは、世界中探しても、そうそう居らぬものよ……多少欲張って囲うても、ばち、は当たらぬと、儂は、そう思うがの」
言い聞かせるように、諭すように、柔らかな表情の田ノ上老であったが、御用猫は、今、見抜いた。
「……そうか、女か」
返事は無かった。
この世に生を受け、五十五年、不敗不逃の「石火」のヒョーエ。
その足が、おそらく、生涯初の、逃げを打っていたのだった。