老剣 木枯らし 17
打ち捨てられた神殿の端に、甚助老の折れた長巻を突き立てると、遠くから鐘の音が響いてきた。
年明けの鐘である。
気付けば、東の稜線から、光が射し始めていた。
(なんと、野良猫に相応しい初日の出だな)
旭光に晒された御用猫は、思わず苦笑するのだ。こうまで血生臭い年越しでは、この荘厳な光も、まるで、血のように赤い気もしてくるだろう。
彼はしゃがみ込むと、眼を閉じて、墓とも呼べぬそれに手を合わせる。
こぉん、こぉん、と年明けの鐘は次第にその数を増やし、街中に鳴り響くのだ。シャイニングロードの祈りの塔では、国王の代わりに、シャルロッテ王女が、国民の安寧を願い、神に祈りを捧げているのだろう。
日の出とともに、彼女の鳴らした最初の鐘を皮切りに、街中の神殿教会が鐘を鳴らし始めるのが、クロスロードの年始の儀式なのだ。彼女の祈りが終わるまで、一時間ほど鐘は鳴らされ続ける。
「……まぁ、俺は姫さんとは違うんでね、このくらいで勘弁してくれ」
御用猫は立ち上がると、こきこき、と首を鳴らしてから、神殿跡に背を向けた。
「あ、猫の先生、もう、またいのやですか? リチャード君、まだお部屋ですよ……あと、今年も一年、よろしくお願いしますね」
「うん、そこは、先に挨拶が欲しかったね……今年もよろしくな、マルティエ」
従業員親娘とも挨拶を交わすと、朝食は断り、御用猫は階段を上がる。先程まで死闘を演じていたとは、到底思えぬ切り替えの早さである。
野良猫は、忘れて生きるのだ。
「……若先生! 」
「おう、リチャード、今年もよろしくな」
そうでなくては、生きられぬ。
返される畏まった挨拶を半ば聞き流し、少々乱雑に、戦闘服を椅子の上に脱ぎ捨てると、リチャード少年はそれを拾い上げ、一度叩いてから衣紋掛けに吊り下げた。相変わらず、気の利く少年である。
「流石に早起きだな、それとも寝てなかったのか? 悪いが俺は寝させてもらうからな」
「……若先生、少し、お話があるのですが」
何か、一昨日にも聞いたような台詞であったが、それは置いておく事にして、御用猫はベッドに潜り込んだ。今は、眠りたいのも、また確かなのだから。
「何だ? いま、ちょいと眠いんだが……それとも、お前も一緒に寝るか」
「はい、喜んで」
冗談のつもりで毛布を捲ったのだが、リチャード少年は、御用猫の隣に、するり、と滑り込む。その、余りの迷いのなさに、少々、背筋が寒くなったような気がする。
「リチャード君や、勘違いされると困るから、冗談と本気の区別はつけようね? 」
「もちろん、分かっています」
一体、何が分かっているというのか、なんとも屈託の無い、彼の笑顔を見ると、少しだけ不安になる御用猫であった。
「……若先生、僕は今、十五になりました」
ふと、真面目な調子で、少年は告げる。クロスロードにも、誕生日の概念はあるのだが、正式に年齢が加算されるのは、新年を迎えると同時であるのだ。
「そうか、そうだな、お前も成人かぁ……早いものだなぁ……」
「……僕は、待ちわびておりました」
ほう、と御用猫は片眉を上げ、驚きを表現するのだ、この少年は、もう、騎士になるのは希望していないと言っていた筈だが、何か心境の変化でもあったのだろうか。まさか、遊廓に行ってみたいなどと、言い出すはずもなかろうが。
「……若先生、今年からは、僕の事も、少しは頼って欲しいのです、今回のような荒事にも、お力になれるだけの力は、付いてきたと、自負もしております」
少なくとも、隠さないで欲しい、と少年は、そう締めくくり、じっ、と御用猫の眼を見据えるのだ。
「……そうか……うん、そうだな、お前も、男だものな」
「ええ、少なくとも、呪いに関しては、お役に立ってみせます……ですが、剣術の方は、もう少々、お時間をいただきたく」
御用猫は、途中から少しだけ声の調子を落とした少年の頭をかき混ぜる。いや、もう少年と呼ぶのは失礼だろうか、リチャードは、彼の知らぬところで、日々成長していたのだ、今も、そうなのだろう。
(うん、こいつには未来がある、俺とは違う……やはり、少々妬ましいな、爺さんも、こういった気持ちであったのか)
薄汚れた野良猫には、なんとも眩しく、羨ましい程の光であるが、しかし。
「ふふ、これは、気持ちの良い新年だ……ようし、なんか気合いが入ってきた! 一眠りしたら道場に行くか」
「はい! もちろん、お供します」
「田ノ上の親父も誘って、いのやに行こう……そうだな、やはり、づるこかな? あいつならリチャードの相手にも申し分ないだろうか、いや、顔見知りは気まずいか、ならばクロスルージュに……」
「……若先生? 」
リチャードの予想とは、少々違う方向に進む、御用猫の新年の計画に、少年の眉根が寄り始める。
「お前、胸はどっちが良い? ん? そういや、リリィが好みだとか言ってたよな? 薄い方か、誰か居たかな……ケインとウォルレンに聞いて、おう、この際、ビュレッフェとクロンも呼ぶか……どうしよう、なんだか楽しくなってきたな! 」
「わ、若先生! やめてください! 僕は、まだ、そういうのは、良いですから! 」
慌てて拒否するリチャードを、御用猫は押さえつけ、大丈夫だから、最初はみんなそう言うんだよ、と説得していたところで、部屋の扉が跳ね開けられる。
「ゴヨウさん! 一体、何をしているのですか! え……嘘……いや……ふけつ……」
「ね、サクラ、ね、言ったでしょう? わたくしの言った通りになりましたわ、ええ、そうですわ、殿方は不潔なのですとも、これで分かったでしょう? 」
「……猫よ……私は、か、かんような、おんなだと、自負している、うん、大丈夫だから、これは浮気じゃないものね、男同士だもの、わたし、だいじょうぶだよ」
「あいたー」
どうやら、出口の無い未来に捕捉されたようで、御用猫は額に手を当てたのだが、しかし、今はこれも心地良いかも知れぬ。
この未来に、決して血の匂いは、しないのだから。
折れた杖つきひとり旅
猫の小判が渡し賃
別れ涙が三途の河よ
向こうで会うはいつの日か
御用、御用の、御用猫