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お姫様は黒の中

 谷間の朝は遅い。高い峰に遮られていた朝日が差しこんできたときには、姫君はすっかり準備をすませ、封印の塔の前に立っていた。

 王冠を両手で捧げ持ち、凛々しく顔を上げている。


『おはよう、みなさま。さあ、お姫様、お話ししましょう』


 朝日を覆い影を差すかのような冷たい声が塔の入り口から漏れ聞こえ、扉がひとりでに開く。歩き出した姫君に付き従おうとしたイザを、振り返った姫君は首を横に振って止めた。


「私は黒き魔女と二人だけで話したいと思うの」


『いいわ、お姫様。その覚悟、すてきよ。さあ、どうぞ入ってきて』


 姫君が塔に足を踏み入れようとすると、その先を行こうとハギルの兵が二人、駆け出した。二人が塔に入ろうとした瞬間、扉の中から黒い靄が吹きだして、二人の姿を完全に覆い、塔の外に弾きだした。地面に叩きつけられた兵たちはぐったりとしている。

 居並ぶ兵士たちは声を上げることも出来ず、動きを止めた。その広場に姫君の凛とした声が響く。


「みんな、下がっていてください。私は一人で行きます」


 姫君がきっぱりと言うと、もう反対できるものは一人もいなかった。アスレイト国王でさえ、姫君の清冽な魂に触れて痺れてしまったかのように、口を開くこともできない。


 姫君が塔に入ると、高い音をたてて金属の扉が勢いよく閉まった。塔の中は真っ暗だ。外の音も完全に聞こえない。


 姫君は王冠を腕にかけて両手を空けた。一度だけ見た塔の内部を思い出しながら手探りで階段を探す。扉に向かって右側、壁に沿って螺旋階段が上に続いていたはずだ。

 壁を触りながら進むと、こつんと足に段が当たった感触を得た。慎重に、一段の高さを調べながら足をかける。両足を揃えて、次の段を探る。


 片手は決して壁から離さず、姫君は慎重にゆっくりと上っていった。

 塔の中には本当に音がなかった。姫君の靴音も、衣擦れの音も、暗闇に吸い込まれていくかのように消えてしまう。


 この感覚には覚えがあった。初めて黒き魔女を見た時、あの黒い靄に包まれた時だ。

 そう思った瞬間、足元の硬い感触がなくなった。前も後ろも、右も左もわからない。自分の体も、自分の声もなにもかも、黒く染められてしまった。

 黒い。自分自身も黒くなり、この世界のすべてが黒くなり、自と他の区別もなく、なにもかも、ただ黒いだけだ。


 自分の体も、五感も、心も、感情も黒く、ただ黒い。存在しているのか消失しているのかもわからない。なにもかも黒くて区別できない。


 だが、たった一つだけ、姫君がしっかりと持っているものがあった。

 イーリア・シエン・アフェクシオン。生まれてきたことを祝われ、愛された証。

 皆が優しく、時には厳しく呼んでくれる名前。自分のものであるのに、他の人のために用意されたもの。他の人に呼んでもらうためだけに存在するもの。


 姫君はしっかりと自分の名前を抱きしめた。これを呼んでくれる人を探そう。きっと、どこかにいるはずだ。

 その人に、この名前を手渡そう。そう思った途端、黒一色のこの場所に、なにか意思のようなものを感じた。


 もう、手探りする必要もない。ここには天も地もない。体も重さもない。ただ、感じるままに意識をそちらに向けた。

 黒に紛れてわからなかったが、闇が、そこにあった。暖かくなにかを包みこんでいる。黒に染まってしまわぬようにと、懸命になにかを守っていた。


 姫君はその闇に触れた。

 闇のなかに最初に戻ってきたのは、姫君の瞳だった。闇と対をなす光をはらんだ姫君の瞳は、闇に包まれた幼子を見た。


 次に光ったのは姫君の真っ白な右手だった。その手を伸ばし、おびえる幼子の髪に触れた。


「怖くないわ」


 姫君の声が、体が、足が、戻ってきた。闇が姫君の光のために居場所を開けてくれたのだ。


「怖くないわ。闇は優しくあなたを眠らせてくれる。子守歌のように親しいものよ」


 幼子が顔をあげた。真っ赤な目をした小さな女の子だ。寒さに震えているのか、一人きりの時間に震えているのか。姫君は幼子の隣に座り込む。


 幼子の長く伸びた髪を、姫君が指で梳いてやる。びくびくと逃げ出しそうに見えた幼子は、次第に落ち着き、指をしゃぶりだした。


「あなたは、だあれ?」


 姫君が尋ねると幼子は不思議そうな顔をする。


「私のことを知らないの?」


 幼子の問いに、姫君は、そっと頷く。幼子は咥えていた指を放し、膝を抱えた。


「みんなは私を神様だって言うよ」


 姫君が頷いても、幼子は見ていないかのように反応を示さない。


「神様、世界をすべて私たちのものにしてください。神様、私たちを富み栄えさせてください。神様、あの国を滅ぼしてください。神様、永遠の命をください。神様……」


「あなたは、だあれ?」


 姫君はもう一度、尋ねた。


「私は、神様」


「あなたは、だあれ?」


「私は……、みんなの神様」


「あなたは、だあれ?」


「私は……、私は……」


 幼子は泣き出した。深く俯いて嗚咽をもらす。幼子らしくない感情を抑えたような泣き声。姫君は問う。


「あなたは、だあれ?」


「私は……」


 顔を上げたのは少女だった。幼さはどこかへ消えて理知的な瞳が美しい、真っ白な肌の少女。


「私は、だれ? みんなは私が神様だって言うの。でも私はそんな立派なものじゃない。みんなが世界を手中に収めろっていうの。でも私はそんなことしたくない」


 姫君は、少女の頬にこぼれ続ける涙を、指先でそっと拭った。


「あなたは、なにが好き?」


 少女は初めて姫君の顔を真っ直ぐに見つめた。しばらく見つめあっていると、少女はゆっくりと瞬きをした。


「お花」


 少女はそこに花が見えるかのように、宙を見つめて微笑んだ。


「香りの良いお花が好き」


「あなたは、なにをしたい?」


「糸つむぎ。あのくるくる回る糸車に触ってみたい」


「あなたは、なにが嫌い?」


 少女はぴたりと口をつぐんだ。真っ赤な瞳に強い感情が生まれた。


「幸せな女の子。だいっきらい」


 姫君は黙って頷く。少女は宙を睨む。


「なにも知らない、なにもかも与えられる、ただ座っているだけで幸せな女の子。だいっきらい」


 少女は爪をギリギリと噛む。


「幸せな女の子にプレゼントを贈る人もきらい。幸せな女の子を愛す人もきらい。幸せな女の子が生きているこの世界が、だいっきらい」


 少女は髪をばさりと払って立ち上がる。


「この世界をめちゃくちゃにしてやる。幸せな女の子なんて、みんないなくなればいい」


 姫君も静かに立ち上がる。少女は真っ直ぐに腕を伸ばす。その先に憎い女の子の姿を見ているように睨み据える。


「あなたは、なにになりたい?」


「この世界を破壊しつくす神に」


「あなたは、なにになりたい?」


「人を傷つける刃に」


「あなたは、なにになりたい?」


「だれかに蹴られるだけの道端の小石に」


「あなたは、なにになりたい?」


 少女は大人びた大きなため息を吐いた。その溜め息は黒く、真っ黒く、少女の体を布のように覆う。


「私は、あなたになりたい。あなたみたいな、幸せな女の子になりたい」


「でも、あなたは幸せな女の子がきらいだわ」


 少女がまたため息を吐く。そのたび少女は年をとる。


「うそなの。本当はうらやましくて仕方ないの。だれからも愛される女の子がうらやましいの。なり替わりたくてしかたないの」


 少女の黒いため息は、すっかり少女を包みこみ、黒いドレスとなって少女の白い肌を締めつける。


「私はだれにも愛されない。だれも私を必要としない。だれも私のことを見ない。だれもかれもが見ているのはただ、己の欲望だけ」


 少女の黒い髪がどこまでも伸びる。


「私はなにも持つことができない。だれも私に与えてくれないから。私はここに立ち、欲望のままに貪られ、枯れていく」


 その言葉のままに、少女は水分を吸い取られた植物のように萎びていく。まるで数十年、数百年を一気に年老いていくかのように。

 姫君は、細い枝のようになった少女の手を握る。少女はその手にすがるような目を向けた。


「あなたに渡したいものがあるの。私の名前よ」


「なまえ……?」


 掠れた声で少女は呟く。


「私はイーリア・シエン・アフェクシオン。私が持っているのはこの名前、たったそれだけ。受け取ってくれる? そして、私の名前を呼んでくれる?」


「イーリア……」


 少女の口元に潤いが戻る。


「イーリア・シエン・アフェクシオン」


 少女の手が温かくなる。


「イーリア、イーリア、それはあなたのもの。私にくれることはできない」


 少女は姫君の手を振りほどいた。その瞳に憎悪が宿り、真っ赤に燃える。


「幸せなお姫様! だれからも愛されて、だれからも奪われない! それが当然だと思っている、それが世界だと思っている!」


 少女はきつく姫君を睨みつける。


「イーリア、だいっきらいよ! ほろんでしまえばいい!」


 その言葉は強大な呪いとなって、姫君に襲いかかった。姫君は忽然と、消えた。

 少女は茫然と闇の中にたたずんでいた。たった今まで、暖かな腕がここにあった。優しい指が、美しい声が、自分が呼ぶべき名前を教えてくれた。


「イーリア……」


 少女はよろよろと闇の先に手を伸ばす。


「イーリア、どこ? どこへ行ってしまったの」


 少女が黒をつかむ。そこには黒しかない。だが、黒の中にはすべてがあった。


「イーリア・シエン・アフェクシオン! 私の名前を呼んで!」


 黒がささやく。


『あなたは、だあれ?』


「私はデュー・レフレクスィオン! 恐れられる黒き魔女! 失われた黒き神の神子!」


 黒い靄が巻き上がり、少女の体を包みこむ。少女の足を、腹を、乳房を、腕を、顔を、髪を、真っ赤な瞳を包みこむ。

 靄が霧散して消えた時、そこに立っていたのは姫君だった。


「私は、だあれ?」


 黒の中から声がする。


『あなたはデュー・レフレクスィオン』


「うそ。私はデュー・レフレクスィオンじゃないわ。ほら、見て。この金の髪を、緑色の瞳を、バラ色の頬を。私はイーリア。イーリア・シエン・アフェクシオン」


『探し物は意外なところにあるものだ。たとえば竈門の灰の中、たとえば井戸の水の中、たとえば裏木戸開けたとこ』


 黒い歌声がする。


『危険はそこにあるものだ。たとえば砂地の草の陰、たとえば夜道の先の先、たとえば人のくしゃみの声に』


 黒く、ただ黒い。そこには恐怖も痛みもない。


『灯りはどこにあるもんだ。たとえば空の雲の上、たとえば暖炉の薪の側、そしてそうして大切な』


 黒く、懐かしい。


『お前の瞳のそのなかに、灯りがいつもあるように』


 イーリアは思い出した。この黒はいつか見た世界。この世に産まれ出る前に見つめていた安寧。


「デュー・レフレクスィオン。あなたにあげるものがあるわ」


 イーリアはイーリアと向き合った。一人は右手を上げ、一人は左手を上げ、鏡に写った姿のように、手を合わせた。


「デュー」


「デュー」

 

 二人のイーリアがささやき合う。


「私の名前をあなたにあげる」


「私の愛をあなたにあげる」


「私のすべてをあなたにあげる」


「デュー・レフレクスィオン。幸せな女の子。あなたは、なにもかも持っていない。けれど、たったひとつだけ、あなたにあげられるものがある」


「私の名前」


「私のすべて」


「私が愛をあげる」


「私から奪う人はもういない」


 イーリアの一人が鏡のように砕けて散った。光るかけらの中に、黒い髪の少女がきらきらと輝いている。


「デュー。私があなたを愛すわ」


 闇が広がり、なにもない黒の世界を、どこまでも暖かく包みこんだ。


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