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お姫様は幕屋の中

 姫があてがわれた幕屋に入ってしばらくすると、幕屋の前で人が言い合っている声が聞こえてきた。なんだろうと顔を出すと、警護のためについているアスレイトの兵士が、ノワールとにらみ合っていた。


「どうしたの、ノワール」


「お姫様に会いに来たんだ」


 姫君は首をかしげて兵士に尋ねる。


「なぜ、ノワールを立ち止まらせているの?」


「なにものも姫君の幕屋に近づけるなとの王からのお達しです」


 姫君はおかしそうに笑う。


「まあ、お父様ったら。心配性は変わらずなのね。いいわ、あなたたちはちゃんと言いつけを守って、幕屋にいてね。私が外へ出るから」


「いえ、姫君、それは……」


「大丈夫よ、ノワールは私の親友。だれよりも信頼できるわ。それに、すぐそこを散歩するだけ」


 ノワールが呪いを駆使して戦ったところを見ていた兵士は、危険はないものと納得し、姫君の願いを聞いて引き下がった。姫君はノワールの手を引いて、人気のなくなった広場に置きっぱなしになっているイスまで歩いていく。


 ノワールは黙ったまま、手を引かれるままについてくる。


「どうしたの、ノワール。なんだか元気がないわ」


 ノワールをイスに座らせて、姫君もその隣に腰を下ろす。ノワールは黙ったまま姫君の両手を取ると、顔を上げた。今まで見たこともないほど真剣な表情だった。夜の闇の中、丸い金の瞳のきらめきは、すべて姫君に注がれている。


「俺にもキスをしてくれないか」


「え?」


 ノワールは姫君の手を引き寄せて、ゆっくりと顔を近づける。姫君はナーナが教えてくれたことを思い出した。変化の魔法は乙女のキスで解ける。


「ノワール、猫に戻りたいのね」


 言い知れぬ寂しさが姫君の心に湧き上がった。猫の姿だろうが、人の姿だろうが、ノワールはノワールだと思っていたが、今はもう、人の姿のノワールを愛しく思うのだ。

 ノワールは俯いて、首を横に振る。何度も、苦しそうに。


「呪いのせいで、俺は苦しい」


 ぽつりと零された言葉が、姫君の胸に突き刺さる。


「猫のままだったら、こんな思いをせずにすんだんだ」


 姫君は意を決して、ノワールの呪いを解こうと、その頬を両手で包んで顔を上げさせた。ノワールは泣いていた。


「いやだ、お姫様。俺は猫に戻りたくはない。でも、お姫様のキスが欲しいんだ」


 姫君はノワールが欲しがっているものがわからず、戸惑って動けない。


「お姫様、イーリア。君をだれかに取られるのはいやだ。俺は一生、呪われたままでいい。だから、俺の側にずっといてほしい」


「ノワール?」


 姫君は自分の手にかかるノワールの涙の温かさに心を揺さぶられていた。


「イーリア、君が好きだ」


 ノワールは強く姫君を抱きすくめた。その広い胸はしっかりとたくましく、姫君を何ものからも守ってくれると信じられた。

 けれど、ノワールの二つの望みを同時に叶えてやることは姫君にはできない。ノワールが人のままで、姫君とキスをかわすことはできないのだ。


「ノワール、私、どうしたらいいの」


 ノワールはそっと姫君から身を離すと、寂しそうに笑った。


「イーリアは、いつものお姫様のままでいて。俺は、イーリアがどんなことをしても、どんな人を好きになっても、ずっと」


 ノワールは姫君の頬に口づける。


「君のことが好きだよ」


 ノワールはゆっくりと立ち上がり、去って行く。その後ろ姿を追いかけたい衝動に駆られたが、体は動いてくれなかった。

 自分の気持ちがわからない。猫のノワールと同じように、人のノワールとも変わらぬままでいられると思っていた。

 だが、自分の中の感情が、ノワールの思いが、すでに変わっていたことに気づいてしまった。


 どれくらいぼんやりしていたのか、夜露に濡れた寒さでふっと我に返り、幕屋にもどらなければと立ち上がった。


「どうした、眠れないのか」


 声をかけられて振り返ると、ヨキが近づいてきていた。


「お前の猫もふらふら歩いていたが、なにかあったか」


 すべてを見透かされているようで、姫君は不安な気持ちになった。けれど、見透かされているからこそ、すべてを話したくなって、きちんとヨキと向き合う。


「ヨキ様。どうして私に求婚されるのですか?」


「前も言っただろう。お前のすべてが得難いものだからだ」


 姫君はもっとわかりやすい答えが知りたくて、じっとヨキを見つめた。ヨキは幼い子どもに教えてやるように優しく語りかける。


「お前は、だれかを愛したことがあるのか?」


 姫君は目をそらさない。けれど、その瞳は揺れていた。


「わかりません。なにも、なにもわからないのです」


 ヨキはふと、微笑んだ。


「難しく考えることはない。心の赴くままに、したいようにすればいいだけだ。そうすれば本能が知らせてくれる、本当の伴侶を」


「本能……、動物だけでなく、人間にも本能があるのですか」


「お前は動物と話して、なにを知った? 動物と人間の違いは、なにかあったのか」


「いいえ、彼らも言葉を持ち、なにかを愛し、なにかを憎み、懸命に生きていました。人も動物もなにも変わりはありません」


「ならば、なにも不思議はないだろう」


 姫君は小首をかしげてヨキを見上げる。


「私はずっと、一生の伴侶は神が決めるのだと思っていました」


「ポートモリスの婚約者は、神が決めた相手だったか?」


「いいえ、違います」


「そういうことだ。そして、お前が心から望んだ相手でもなかったのだろう」


 姫君は申し訳なさそうに、ごく小さく頷く。


「俺の本能は、お前が俺の伴侶になるべきだと告げている」


 ヨキが大きく一歩を踏み出す。その目は姫君を強く射すくめた。姫君は恐れて後ずさる。だが、ヨキは逃げることを許さず、姫君の手を引き、抱き寄せた。

 顎に手を掛けられて上向けられる。近づいてくるヨキの真剣な瞳が恐ろしく、姫君は強く目をつぶった。

 額の真ん中を、トンと突かれた感触があり、そっと離れていくヨキの体温を感じた。


「騒動が片付いたら迎えに行く。その時には容赦しないぞ。もっといい女になっておけ」


 そう言い置いてヨキは背中を向けた。去って行くその後ろ姿を見送りながら、姫君は額に残ったちょっとだけ痛い優しさを、そっと撫でた。


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