お姫様は挨拶中
ぼんやりと口を開いて、目は宙を見ているような、見ていないような、まどろんでいるかのような状態だった。
「国王陛下。お久しゅうございます。メルキゼデクでございます」
メルキゼデクが呼びかけても、反応はない。
「うむ。完全に呪われているな」
「お姫様、呪いを解いてあげる?」
ノワールに尋ねられて、姫君は首を横に振った。意外な答えにノワールが目を丸くする。
「放っておくの?」
「私は、ポートモリス王の名前を知らないの。それに、知っていても、愛を持って名前を呼ぶことは出来ないと思うわ」
「じゃあ、お妃さまに呼んでもらわないと」
ノワールにメルキゼデクが首を振ってみせる。
「王妃陛下は昨年、お亡くなりになったよ」
「え、じゃあ」
ノワールは、通ってきた廊下の先を見透かすように見やる。
「あのトンチキな王子様になんとかしてもらうしかないってこと?」
姫君は難しい表情で頷く。
「国王陛下にもっとも近しいのは、ヘンリー王子に間違いないわ。でも、心から愛しているかと言われると……。どうかしら、わからないわね」
一同が黙って国王を見つめていると、廊下から足音がした。駆けてきたその足音の主が立ち止まり、「メルキゼデク様!」と呼びかけた。
地味なドレス姿の若い女性だ。目に涙をためている。
「リベカ殿、ご無事でしたか」
リベカは何度も頷きつつも、カタカタと震えていた。
「陛下が……、陛下が……」
言葉にならないようで、唇を噛んで、ただ、国王を見つめた。
「大丈夫、呪いは解くことができますからな。ただ、ヘンリー王子の力が必要です。呼んできてくださるか」
「はい、かしこまりました」
リベカは身をひるがえすと、足早に部屋を出て行った。
「彼女とお知り合いなのね」
「リベカ殿は国王付きの侍女でね。その地位に驕らず、だれにでも丁寧で、優しい」
「すてきな方なのね。国王陛下のことも心から心配していたみたい」
ノワールが国王のぼんやりとした顔を見て、そっとため息を吐いた。
「王様を心配してくれる人がいて、良かったよ。こんな状態で放っておかれるのはかわいそうだ」
姫君は国王の正面にまわり、しとやかにお辞儀をした。
「お久しぶりでございます。アスレイト国王の娘、イーリア・シエン・アフェクシオンでございます。またお目にかかれて嬉しく存じます」
国王は姫君に気づくこともなく、ぼんやりしたままだ。ノワールが姫君と国王の間に立ってひらひらと手を振っても、なんの反応もない。
「だめよ、ノワール。失礼なことをしては」
「うん。でもなんか、少しでも変わらないかなと思って」
メルキゼデクも国王の前に出てひらひらと顔の前で手を振る。やはり、視線すら動かない。
「陛下には、特段の指示はないのだろうかねえ。兵士たちは戦に出る支度をしていたようだが」
ノワールが脇に避けながら言う。
「もしかしたら、出兵の命令を出しちゃって、その後の仕事がないのかもしれないよ。お役御免っていうやつ」
「ふうむ」
廊下の先の方から、ヘンリー王子とリベカの声が聞こえてきた。
「離せ! 私は絶対安静なんだ! 歩いたりしては傷に障るだろう!」
「それだけお元気ならば大丈夫です! どうか、陛下の御前に!」
「私が行ったって、なんの役にもたちはしない、離せってば!」
姫君は廊下に出てみた。リベカがヘンリー王子の右腕をがっしりと掴んで引っ張っている。ヘンリー王子は抵抗しているというのに、まったくかなわず、ずるずると引きずられてくる。
「まあ、リベカさんはとても力持ちなのね」
「すごいな。もしかしたら、軽々と肩にかつげるんじゃないか」
ノワールも感嘆して見つめる。ヘンリー王子はほどなく応接室に引き入れられた。
「メルキゼデク様、王子にお越しいただきました」
「お越しいただきました、ではない! 無理やり拉致したんだろうが!」
いきり立つヘンリー王子に、メルキゼデクが「傷が開きますぞ」と忠告すると、王子は静かになった。
「国王陛下の呪いを解けるのは、ヘンリー王子殿下だけなのです。どうぞ、ご協力ください」
ヘンリー王子はぶすっとした表情ではあったが、国王の顔をちらりと見て軽くうなずいた。
「なにをさせるつもりだ」
「愛情を込めて国王陛下の名前を呼んでください」
ヘンリー王子はヒキガエルでも見るかのような目でメルキゼデクを見た。
「愛情など、持ち合わせていない。気持ち悪いことを言うな」
「先ほどは黒き魔女への愛情を、滔々とうたっておられたように覚えますがな」
「美しい方への愛情を惜しむ男などいないだろう」
姫君は、ずいっと一歩前に出る。
「父王への愛情は惜しむとおっしゃるのですか」
ヘンリー王子はばつが悪そうな顔をして視線をそむけた。
「そんなことは言っていないでしょう」
「では、名前を」
毅然とした姫君の態度におびえるような様子を見せながら、ヘンリー王子はぽつりと呟く。
「父王、ダニエル陛下」
国王はまったく動かず、なんの変化もない。
「殿下、もう一度」
腕を離さないままのリベカが王子を揺さぶった。ヘンリー王子はがくがくと頭を揺らしながら叫ぶ。
「ダニエル陛下!」
しかし、まったく効果は表れない。だんだんと悲しくなってきた姫君は小さな声で呟いた。
「ヘンリー様。本当に父上のことを愛していらっしゃらないのですか?」
「仕方ないでしょう、父と会うことなど週に一度もない。子どもの頃など一か月に一度、顔を見れば良い方だった」
姫君の目に涙が浮かんだ。
「それは、お寂しいですね」
「いや、まったくそうは思いません。好きに生きてこられて良かったと思っていますよ」
「自由と引き換えに愛情を失ったのか。かわいそうなやつだな、王子様は」
ノワールの言葉にヘンリー王子はカッとなったが、猫の細い目と目があうと、青くなって視線をそらした。