お姫様は眼病中
辛いことを考え続けて、どんどん元気がなくなっていく姫君を見たレアとラケルの提案で、姫君はきざんだ玉ねぎの臭いを嗅ぐことになった。
鼻がツンとして目が痛くなって、涙はいくらでも出た。鼻を真っ赤にしたお姫様を、ノワールは心配そうに見つめる。ただ、猫の嗅覚のせいでお姫様のそばには近づくことさえ出来ずに、歯噛みした。
城門にいた貧民街の住民をみんな正気に戻したころには、姫君の目は真っ赤に腫れていた。メルキゼデクが、ありあわせのもので腫れが引くよう、目を覆い冷やす布を作ってくれたが、なかなか効きそうにもない。
「一度、うちへ戻った方がよさそうだね」
メルキゼデクが言うと、姫君がそっと痛む目を開いた。
「大樹は大丈夫かしら」
「なに、心配はいらないよ。大樹からは元気だよという信号をずっと受けとっている」
姫君は腫れた目をさらに細くして微笑んだ。
「良かった。燃えなかったのね」
メルキゼデクも目を細めて答える。
「ミーアががんばってくれたからね。さあ、行こうか」
城門をくぐって街を歩くと、あちらこちらに、ぼんやりと宙を見つめる人がいた。そのたびに姫君は、近しいものに名前を呼んでもらい、腫れた目からさらに涙をこぼした。
ノワールは見ていられなくて姫君を人々から遠ざけようと足を踏み出したが、メルキゼデクに押しとどめられた。
「ノワール。これは彼女にしかできない事で、彼女が望んだ仕事なんだよ。辛いだろうが、見守ってあげよう」
「辛いとか、そんなことじゃない。なんでお姫様は、関係ないやつのことを気にするんだよ。知らない奴なんてほっとけばいいだろ」
メルキゼデクは黙ったまま、じっとノワールを見つめた。ノワールはいたたまれなくなって目を反らす。
「君が好きなお姫様は、目を腫らしてでも人を助けたいと思う女性なのだろう」
「わかってるよ、そんなこと。でも、他人のためにあんなに苦労しなくても……」
ノワールは姫君がてきぱきと動き続ける姿を悔しそうに唇を噛んで見ていた。
いつの間にかメルキゼデクを慕って多くの人が集まっていた。人々は口々に最近のポートモリスの情勢を語って聞かせた。メルキゼデクは耳がいくつもあるかのように、どの人の話も聞き取り、公平に返事をしている。
ノワールは耳をそばだててみたが、どう聞いても群衆のざわめきとしか聞こえず、言葉の意味を汲み取ることは諦めた。その様子を見ていた姫君はくすくすと笑う。
「ノワールもすっかり人らしくなってしまったわね」
姫君の手を引いているノワールは不思議そうに尋ねた。
「人らしくって、どういうこと?」
「人のことを気にかけてくれて、でも、諦めが早くなったわ」
ノワールはムッと眉を顰めた。
「それって、昔の俺が諦めが悪くて、非人情だったって言ってるみたいに聞こえるんだけど」
「あら。だってノワールは猫なんだもの。非人情なのは当たり前だわ」
姫君が笑顔で言うのをノワールは難しい顔をして聞いた。
「お姫様、俺はお姫様が幸せになるためだったら、なんだってする。人情をわかれって言われたら勉強するし、人のことを心配しろって言われたら、走っていって助けるよ」
姫君は優しい笑顔を浮かべてノワールの腕にぎゅっと抱きついた。
「ありがとう、ノワール。大好きよ」
ノワールは複雑な表情で、姫君を見つめていた。
メルキゼデクの家は、なにごともなかったかのように、そのままの姿でそこにあった。火矢をかけられて燃えたことなどなかったとしか思えない。
「メルキゼデク、これも精霊術なのか?」
ぽかんと口を開けていたノワールが尋ねると、メルキゼデクは首を横に振った。
「いいや。これは草たちと約束していることなんだよ。人は草を刈るが、私は刈らない。その代わり、ここになにがあっても、また丈高く伸びておくれとね」
姫君がにこりと笑う。
「まあ、草ともお話ができるのね」
メルキゼデクは髭を撫でながら草を分けて進んでいく。
「どんな生き物にも言葉がある。わかりあえるものもいれば、相いれないものもある。人は草と相性がいいものだよ」
ノワールが草の穂を撫でながら尋ねる。
「猫と草は、どう?」
「もちろん、とても相性がいい。ノワールくんも覚えがあるだろう。草の間でものをもよおすと……」
「ちょーーーーーっ! メルキゼデク! なに言ってるの!」
ノワールがメルキゼデクに駆けよって口をふさいだ。メルキゼデクは目を細めてくぐもった声で笑う。姫君はほとんど開かない腫れた目で、二人の仲の良い様をにこにこと見つめた。
大樹は焦げることもなく、青々と伸び栄えていた。ただ、階段状に突き出ていた瘤は姿を消している。メルキゼデクは大樹の根元を、コンコンとノックする。そこにドアノブのような形の瘤が、ぽこりと飛び出した。メルキゼデクは、その瘤を握って回す。
大樹の幹に切れ込みが入り、引っぱると、ギイっと重い音をたてて開いた。