お姫様は帰郷の途中
アスレイトと国交が開けたとは言え、ヨキの陣屋から進める山間の国境線は未だ開かれていない。 海路を取って真っ直ぐアスレイトに向かうか、ポートモリスから山越えをしていくか。
どちらにするか迷ったのだが、もし海上で黒き魔女が襲ってきたら逃げ場がない。まだ通り慣れた山の中の方がいいだろうとメルキゼデクは判断した。
姫君たちはヨキの軍の者と間違われないように、ぐるりと山を一つ迂回して、ポートモリスへ南の方から入り、貧民街をかすめて西へ向かう進路を取った。ノワールは騎馬にも慣れ、かなり速く進めるようになっている。夕方近くには貧民街が見えてきた。
一行は近づくにつれ、なにやら違和感を覚えた。以前、見た時のようなゴミゴミした感じが薄れている。
「テントが減っておるなあ」
手を額にかざして、目を凝らしていたメルキゼデクが言う。姫君もできるだけ首を伸ばしてみた。
「本当だわ。みんなどこかへ引っ越したのかしら」
「街の中に入れたのかな」
ノワールが言うと、メルキゼデクは低く「いや」と言葉をこぼした。
「街に入れるのは税金を払えるものだけだ。このあたりのものたちは、あまりに貧しい」
話しているうちにも街は近づいてきて、よりはっきりと現状が見通せた。
テントは確かに減っていて、ぽつぽつと歯抜けのように空き地が見えている。そこにいるのは女性と子ども、老齢の人々ばかりで、若い男性の姿が見えない。
メルキゼデクは貧民街の端で馬を止め、道のすぐ側のテントにいる老婆に尋ねた。
「男どもはどうしたんだね」
「徴兵されたよ」
老婆は大したことではないと思っているようで、淡々と答えた。
「戦いの真ん中に立たされるのはいつも貧民だよ。私の夫もそれで死んだ。今度もたくさん人が死ぬだろう」
「大丈夫です。戦争にはなりません。アスレイトは戦ったりしないから」
姫君の言葉を、老婆は鼻で笑った。
「相手が無抵抗でも侵略するだろうさ。なにせ、黒き魔女が作った軍隊なんだから」
「黒き魔女が、ここにいるのですか?」
老婆は溜息を吐く。
「そんなこと、私が知るわけないだろう。お城の兵士にでも聞いてみたらどうかね」
話し疲れたのか、老婆はごろりと横になり、姫君に背中を向けた。
「街の中に入りましょう。黒き魔女が、ここにいるのか確かめないと」
メルキゼデクは頷いて馬の首を城門の方へ向けた。
三人は城門に人だかりができていることに気づいた。人だかりというよりは、大勢の人が非常にゆっくりとしたスピードで右往左往しているようだ。
さらに近づくと、それらが鎧を身に着けた兵士だということがわかった。なにをしているのか、ただ、ふらふらと歩き回っている。
メルキゼデクが馬を降り、静かに兵士に近づいていく。
「街に入りたいのですが、できますかのう」
メルキゼデクが話しかけても、だれも反応を示さず、ただ歩き続けるだけだ。メルキゼデクは一人の若い男の肩をつかんで歩みを止めた。
「恐れ入りますが、ちょっと話を聞いてもらえませんかのう」
男は足を止めはしたが、ふらふらと体を揺らして、その目はどこを見ているのかわからなかった。
「大丈夫か? 気分でも悪いのじゃないか?」
真面目な顔つきになったメルキゼデクが尋ねても、男はなにも答えない。
「おかしいわ。どうしたのかしら」
「呪いだよ、お姫様。こいつら、みんな呪われてる臭いがする。呪いのせいで正気じゃないんだ」
姫君の表情が険しくなる。
「黒き魔女に呪われたのね。助けましょう」
ノワールの腕の中から抜け出して馬の背から滑り降り、姫君は兵士の列に近づく。
「お姫様、危ないよ!」
馬から飛び降りたノワールが姫君の腕を取る。
「それに、助けるって簡単に言うけど、どうするんだよ」
「この人たちは、お城から一番遠くにいるわ。それって、このあたりに住んでいた人たちだということでしょう? だったら、この人たちの名前を知っている人が城門の外にいるはずよ」
二人の元に戻ってきたメルキゼデクが頷く。
「なるほど、教えてもらった方法で呪いを解くのだね」
「ええ。みんなに呪いのことを説明して、助けてもらいましょう。愛するものが心を込めて名前を呼べば呪いはとけると昔のナーナが言っていたでしょう」
メルキゼデクは貧民街の人たちにも薬を分けていたために、知り合いが何人もいた。その人たちに手伝ってもらって、貧民街に残っているうちの、かなりの人数を集めることができた。
姫君は集まった女性や老人、子どもたちに語りかける。
「徴兵された人たちは、今、とても苦しんでいます」
皆はなにごとが始まったのかと、いぶかし気な表情だ。
「彼らは呪われてしまったのです。黒き魔女が、彼らに呪いをかけました」
人々は顔を見交わし、ざわめきが生まれた。「黒き魔女」という呟きがあちらこちらから聞こえる。人々が静まるまで、姫君はしばらく待った。
「黒き魔女に魅了されて、彼女の言うとおりに動くようにさせられています。このままだと、みんなの家族が戦に駆り出されてしまうのです」
最前列にいる幼い女の子が、おずおずと口を開いた。
「にいちゃんは、どこに行くの?」
「戦争のただなかに行ってしまうわ。帰ってこられないかもしれない」
女の子の目にみるみる涙がたまる。そばにいた姉らしい子どもが幼子の肩を抱いた。女の子は涙ながらに訴える。
「にいちゃん、帰ってこないといやだ」
姫君は力強く頷く。
「呪いを解きましょう。そして、家族を取り戻しましょう」
恰幅の良い中年の女性が眉を顰める。
「呪いだなんだって、そんなの信用できないよ。第一、黒き魔女は封印されてるんじゃないか」
「封印は解かれました。黒き魔女は復活し、アスレイト王国を襲いました。私も呪われていましたが、呪いを解くことができました」
女性はますます険しい表情になる。
「呪われていました、だなんて、口で言われて納得できるもんか。本当に呪われていたって証拠はあるのかい?」
ノワールが胸を張る。
「俺が証拠だ」
楽し気な笑顔を浮かべて一歩進み出る。
「見せてやるよ。これが、呪いだ」
ノワールの口から黒い靄が吹きだす。人々の目前まで近づき、ぎりぎりで止まる。人の波は裂け、泡を食って後じさる。黒い靄は天に向けて竜巻のように突きあげる。みんなは恐れて、あるものはしゃがみこみ、あるものは真っ青になって立ち尽くした。
「これが、黒き魔女の呪いです」
ノワールが黒い靄を小さくまとめて自分の体の下に隠す。そこに現れた黒猫を、みんなは茫然と見つめた。