お姫様は説得中
ノワールもメルキゼデクも、もうなにも話す気力もなかった。ナーナに頼まれて、約束を守れず森に入ったハンナを家まで送り届けた。
馬を返すために、とぼとぼとヨキの館に行ってみると、街の者たちはほとんどが出兵していると教えられた。ハギルの町にいるのは、みんな腕の立つ戦士ばかりだという話だった。戦士ではない国民は遊牧や行商、わずかに開けた土地で穀物や豆を作っているらしい。
姫君にあててヨキからの伝言があると手紙を渡された。羊皮紙にしたためられた文字を、姫君が読み上げる。
「ポートモリス軍は籠城した。アスレイトとは国交を開けた。望むなら海沿いにアスレイトへ送っていくことができる。とにかく我が軍に合流しろ」
「ふむ。黒き魔女はどちらの国にいるだろうかね」
メルキゼデクが言うと、ノワールが答えた。
「ポートモリスじゃないの? 黒き魔女を守るために籠城したんだろ」
「いいえ」
姫君がきりりと顔を上げて言う。
「彼女はアスレイトにいくはずだわ、魔力を取り戻すために。急ぎましょう、早く追いつかなければ」
姫君は再び馬を借りようとヨキの執事に申し込んだが、馬を休ませる必要があると説得され、出発は日が昇ってからということになった。
執事が部屋を用意してくれて、姫君たちも休息をとる。だが、姫君はイザのことを考えて眠ることができないでいた。
姫君に誓ったはずの忠誠を、黒き魔女に捧げたイザ。もちろん、呪いのために操られていることはわかっている。だが、どうしても不安を拭い去ることができなかった。
呪いが解けずにイザが戻って来なかったらどうしよう。
幼いころから一番近くにいてくれたイザ。自分をいつも見守ってくれた瞳が、自分を憎いもののように睨み続ける。
そう思うと、足元が揺らぐような不安を感じるのだった。
翌朝、空はよく晴れていたが、風は春とは思えないほど冷たかった。外套をきつく体に巻きつけて、三人はハギル軍と合流するため出発した。
ヨキの軍が通った道は開けていて馬は軽快に進む。今通っているのは普通の街道ではなく、進軍のために急ごしらえで草をなぎ倒しただけの獣道に近いものだった。それでも幅は広く、なだらかだ。ハギルの軍が恐れられる所以は、この進軍力にあるのかもしれなかった。
ポートモリスとアスレイトの国境を横から突くと言っていた通り、ハギル軍は両国の間に立つ石塀の側に陣を設営していた。
関所を見下ろす急斜面に器用に陣幕を張っている。斜面は山の獣でさえも通らないであろうという荒れようだ。まさかここから他国の軍が現れて居座ろうとはポートモリスもアスレイトも考えなかっただろう。
「おう、来たか。遅かったな」
陣幕の中にいるというのに、くつろいでお茶を飲んでいるヨキが三人を出迎えて笑いかけた。
「で、首尾はどうだったんだ」
姫君はヨキの前に進み出て微笑みかけた。
「黒き魔女に奪われていた名前を取り戻しました。私はイーリア・シエン・アフェクシオン。アスレイト国王の娘です」
ヨキは楽し気に頷く。
「へえ、お前がイーリア姫だったか。噂にたがわぬ美しさだ。さすが俺の婚約者だな」
ノワールが驚いて声を上げた。
「婚約ってなんだよ!」
「結婚の約束をすることだ。そんなことも知らないのか?」
馬鹿にしたようなヨキの言葉に食ってかかろうとするノワールを、姫君は押しとどめた。
「婚約はしていないわ。申し入れがあっただけ」
そう言って、姫君はしっかりとヨキの目を見据えた。
「お気持ちはありがたいのですが、お話を受けることは出来ません。私は黒き魔女を止めなければならないのです」
「お前がそんなことをしなくても、俺が黒き魔女を倒してしまえば済む話だ」
姫君は静かに首を横に振った。
「私の友、イザが黒き魔女にとらわれてしまったのです。彼を取り戻します」
「それくらい、気をつけてやらんでもないぞ。あの男を生かしたまま黒き魔女を倒せばいいのだろう」
姫君はまた首を横に振る。
「黒き魔女と話をしたいのです」
ヨキは身を乗りだした。
「なにを話すんだ?」
「呪いを解いてくれるように、戦争を起こさないでくれるように」
「それを黒き魔女が聞くと思うのか? 昔、魔物を従えて人間を滅ぼそうとしたというのを知らぬわけではないだろう。その時、黒き魔女を封印したのはお前の父親と母親だ」
ヨキの強い視線を、姫君は真っ直ぐに受けてみせる。
「知っています。黒き魔女の魔力を取り上げたのも、アスレイト国王です」
「魔力がなくなったとはいえ、たった数十年で黒き魔女が改心したとは思えんがな」
姫君の瞳は透明に澄んで、固い決意を感じさせた。
「それでも、私は話しに行きます。どうか、黒き魔女のことは私にまかせてください」
ヨキは、にやりと笑う。
「やはり、俺が見込んだ通り、お前はいい女だ。わかった。必要なものがあれば言ってくれ。なんでも手配しよう」
「もう少しの間、馬を貸していていただけますか? それ以上必要なものはありません」
「もちろん、いくらでも貸そう。ただし、条件がある」
「なんでしょう」
ヨキの顔から笑みが消えた。真っ直ぐに姫君を見つめて、落ち着いた声で言う。
「必ず、生きて帰ってこい」
姫君は黙ったまま、しっかりと頷いた。