お姫様は魔女の家の中
イザがそっとドアの中に手を差しこむ。なにも起こらないことを確認して足を踏み入れる。一歩一歩、足元を確かめながら周囲に視線を巡らせて警戒していたが、次第に困惑の表情を濃くしていく。
「大丈夫なようだ。だが、これは……」
イザに続いて、メルキゼデク、ノワール、姫君という順番で中に入る。みんな部屋を見回して、イザと同じような顔になった。
小屋の天井から多種多様な乾燥した植物が吊り下げられている。四方の壁には棚が取り付けられ、数多くの瓶や壺が並んでいる。雑然と置かれた糸巻き車や、馬の鞍、毛皮の帽子がかかった帽子掛け、古びたゆりかご、一抱えある大きな壺、壁にかけられた春の野原が織り込まれたタペストリー、絵本と便箋。どれも年代物だ。
端から端まで、ナーナの家とそっくりだった。
「本当に、あのばあさんの家みたいだな」
ノワールが言うと、姫君が首を横に振った。
「いいえ、ここにはコルバンの居場所がないわ」
ナーナの家ではコルバンのための寝藁があった場所を、この家では腰高の小ぶりなキャビネットが占めている。
「これが魔女の宝物庫だろうか?」
イザの言葉にメルキゼデクが答える。
「そうかもしれんね。開けてみようかね」
そう言うと、メルキゼデクはなんの警戒もせずにキャビネットの扉を開けた。中は空っぽだった。
「なにも入っていないな」
ノワールがキャビネットの中に頭を突っ込んで「あ!」と叫んだ。
「どうした?」
緊張した様子でイザが尋ねる。
「歌が聞こえる」
ノワールが首を引っ込めてイザに場所を譲る。イザもキャビネットに頭を入れて耳をすませた。姫君もイザとキャビネットの扉の隙間に頭を突っ込む。
「探し物は意外なところにあるものだ。たとえば竈門の灰の中、たとえば井戸の水の中、たとえば裏木戸開けたとこ」
「ナーナの声だわ、遠見のようなものかしら。いえ、でもなにか雰囲気が違うわ」
イザと姫君の背中を叩いてメルキゼデクが場所を開けるように要求した。キャビネットの歌声に耳を傾けたメルキゼデクは首を捻る。
「声に張りがある。まるで若い女性のようじゃないかね」
メルキゼデクにイザが首を横に振ってみせる。
「いや、あの老婆が若い頃というと何十年前になるか。老婆でも訓練すれば声に張りが出るものなのではないだろうか」
「あのばあさんが歌の稽古なんかするか?」
ノワールの言葉に姫君が口を挟む。
「あら、ナーナは老いてなお探求心を持った女性なのではないかしら。おばあさんだけれども、とても迫力があって……」
「あんたたち! さっきから聞いてりゃ、人のことをババア、ババアってうるさいんだよ!」
キャビネットの中から怒鳴り声がして、姫君は驚いて目を丸くした。
「せっかく気持ち良く歌ってたのに、台無しじゃないの! どこから入り込んだか知らないけど、とっとと出ていきなさい! ここは私の家よ!」
「やっぱり、ナーナなのね。でもどうして、キャビネットの中にいるの?」
「キャビネットの中? そうか、あんたたちは双子の家の方にいるんだね」
「双子の家?」
「この家はなぜかダブって存在してる。その気配は感じるのだけど。そっちがどこかは知らない。そちらとは違う家がある、ここはハギルだよ」
「知ってるわ。ナーナの家に行ったことがあるもの。でも、ナーナはおばあさんだったわ。なぜ若い声になってしまったの?」
しばらく声は途絶えた。それから深いため息が聞こえた。
「なるほど、ようやくわかったよ。全部、未来のこの子の仕業だったんだね」
なぜかナーナの声は低く沈んだ。姫君は気遣いながらも、そっと尋ねた。
「この子って?」
「私の娘だよ。今年で三つになる」
メルキゼデクがニコリと笑う。
「かわいい盛りですな」
「そうだね。ところで、あんたたちは、なにをしにこの家に来たんだい?」
「呪いを解くためです。ナーナがシャクティ―キーに来れば呪いの解き方がわかると教えてくれたのに、忘れてしまったの?」
「あんたたちと会ったのは、未来の私だろうよ。何十年も年を取ったおばあさんになった私だ」
姫君は小首をかしげた。
「では、今、私が話しているのは、昔々のナーナなの?」
「そうだね。私には未来のことは見えない。あんたはどんな呪いをもらったの?」
「名前を失くしてしまったんです。だれも私のことを覚えていません。それと、人間にされてしまった猫もいます。魅了されて操られている人や、そうだわ、人間が猫になってしまったことも……」
「ちょっと待っておくれ。そんなに一度きに言われても覚えきれないよ。最初が、名前を取られたということだったね」
「そうです。私は私がだれだか思い出さないといけないんです」
「それは簡単さ。取ったものはどこかに隠すものだ。木を隠すには森の中。あんたが属するものの中に隠してあるに違いないよ。それから、なんだっけ?」
「人間にされてしまった猫」
「変化の呪いの解き方は昔っから変わらない。とっても有名なものだよ。純潔の乙女のキスさ」
「まあ、おとぎ話みたい」
「それから?」
「魅了の呪い」
「魅了するってのも名前を盗むのと同じ仕組みだよ。だから、思い出させてやればいい。愛するものが心をこめて呼べば、答えるだろう」
お姫様は、ほうっと息を吐いた。
「そんなに簡単なことだったなんて。知っていればもっと早くみんなを助けられたのに」
若いナーナがキャビネットの向こうで笑っている声が聞こえる。
「なにごとにも順序がある。知るべきことは答えだけじゃない。その過程が大事なんだ。きっと、あんたたちは答えよりも、もっと大切なものを手に入れたことだろうよ」
姫君は今までの旅を思い返してみた。その間に姫君は、自分がなにも知らないのだと知り、知るべきことを知ったのだ。
「なんせ、未来の私が仕組んだことだ。無駄なことはひとつもないさ」
「ありがとう、ナーナ。おかげで私たち、黒き魔女を止めることができそうだわ」
「黒き魔女だって!」
突然、ナーナの声が厳しいものになった。
「あんたたちの時代には、黒き魔女がいるのかい?」
ナーナの焦りを含んだ声に驚きながらも、姫君は冷静に答える。
「ええ、そうよ。黒き魔女は呪いを撒き散らしながら、戦争を起こそうとしているの」
「なんてことだ。いいかい、さっさと名前を見つけて、そこから逃げな。黒き魔女はもう気付いているはず。すぐに帰って来るよ」
「たいへん!」
姫君はキャビネットから抜け出して、部屋を見回した。自分の名前が隠してあるものを一刻も早く探し出さなければならない。