姫君は蜘蛛と会話中
「まあ、蜘蛛だわ。こんにちは」
「……なんだ、この大きな動物」
かすかに聞こえる声は子どものようだった。小さな子蜘蛛に姫君は尋ねる。
「黒き魔女の宝物庫を知らない?」
「……なに言ってんだ、この動物」
「ここに、私たちみたいな動物が来たことはない?」
「……知らん。俺、生まれたばかりだから」
「まあ、そうなの。お父さんか、お母さんはいるかしら」
「……どこかにいるよ」
姫君はあたりをキョロキョロ見回してみた。よく見ると、苔のところどころに小さな虫がついていることがある。
次はどの虫に話しかけようかと思った瞬間、大人の蜘蛛が虫に飛び掛かり、捕まえて噛みついた。小さな虫は悲鳴を上げるヒマすらなく食べられてしまった。
「蜘蛛のお父さん、それともお母さんかしら」
大人の蜘蛛は口の周りの掃除をしながら姫君を見上げる。
「……お母さんよ」
「こんにちは、お母さん。黒き魔女の宝物庫を知らない?」
「……時々やってくる真っ黒な靄が入っていくやつのことかな」
「黒い靄! それだわ、間違いない! どこにあるの?」
蜘蛛は一本の足で岩場の隅の一角を指し示した。
「……あのへん」
「なにもないように見えるわ」
「……私にもそう見える。けど、あいつは入っていくよ」
「ありがとう、お母さん。もっとよく探してみるわ」
姫君が立ち上がると、三人が近くに寄ってきていた。姫君は蜘蛛が差した方へ歩き出す。
「こっちの隅だそうよ。蜘蛛のお母さんが黒い靄が入っていくのを見たそうなの」
姫君は岩棚の端、ギリギリまで歩くと振りかえり、両手を広げてそこから岩場の中心に向かって歩いていく。後の三人も姫君と横並びになって両手を広げる。
少しずつ位置を変えて二往復したが、なんの手ごたえもない。
「なにもないよ、お姫様」
「なにもないわね」
「やはり、地下なのだろうか」
三人で地面を見つめていると、メルキゼデクが、ぽんと手を打った。
「ノワールくん、出番だよ」
メルキゼデクに肩を叩かれて、ノワールは首をかしげる。
「俺になにをさせるつもり?」
「黒い靄だよ。入っていったのは人の姿をした魔女ではなく、黒い靄だったのだろう」
姫君の顔が、ぱっと明るくなった。
「ええ、蜘蛛は確かにそう言っていたわ。ノワールに黒い靄で探してもらうのね」
お姫様に見つめられたノワールは嬉しそうに微笑むと、口を開けて靄を細く吐き出す。靄は蛇のようにうねりながら辺りを這いまわる。 なにもないように見えるところで、靄は行く手をふさがれ進めなくなった。
ノワールが見えない障害に沿って靄を縦横に走らせる。黒い靄によって、見えない壁がみるみる姿を現す。その壁の一部に、ノワールは扉を見つけた。
靄を使って見えないドアを開ける。見えないドアの向こうには、小さな部屋があった。
「あったわ!」
ノワールが靄を引き戻すと、空中にぽかりと四角いドアの絵が飾られているかのように見えた。
「行きましょう」
ずんずんと歩き出した姫君の腕をイザが取り、引き留める。
「待て、罠があるかもしれない。私が先に行く」
姫君が見上げると、イザは力強く頷いてみせた。姫君も頷き返し、足を止める。イザは慎重に歩を進め、見えないドアに向かっていく。
ドアまであと三歩というあたりで立ち止まり、あたりの様子を調べる。しゃがんで地面を丹念に観察し、触ってみる。見上げて妙な動きがないか確認する。そうやってドアの前までやってきて、外套を腕に巻き、見えない壁に押し付けてみた。
そこには確かに先ほどまでなかった硬いものがある。ドアの周囲をぐるりと触ってみると、一か所になにか引っかかるものを見つけた。
「ノワール、ここになにかある。靄で囲んで形を見ることはできないか」
「ちょっと、どいてろ」
イザが後ずさるとノワールは黒い靄を吐き出して、イザが指し示したあたり、扉の真上、その真ん中に触れさせた。見えないなにかを薄く覆った靄の形は、なにかを引っかける鉤のように見えた。
「ランプ掛けのようだなあ」
髭を撫でながらメルキゼデクが呟く。
「ランプ掛け?」
姫君が尋ねると、メルキゼデクは手にランプを提げたような様子をしてみせた。
「そう。ドアの上にランプを引っかけてね。ちょっとやってみようか」
メルキゼデクは荷物の中から携帯用のランプを引っ張り出すと、イザに手渡した。イザは慎重に手を伸ばして鉤にランプの持ち手を掛ける。ノワールが靄を飲み込むと、ランプは空中に浮かんでいるように見えた。
「うむ。位置的に、ランプ掛けで間違いなさそうだね。さて、火を灯すかどうするか」
「灯してみましょう。黒き魔女は靄になって中に入るのだから、ランプなんて必要ないはずだわ。それなのにランプ掛けがあるのには、なにか意味があるのだと思うわ」
イザは頷くと、一度ランプを下ろした。荷物から火口箱を取り出して種火をつける。ろうそくにその火を移してランプに入れ、ランプ掛けに戻した。
ランプの灯りが作った影が見えない壁にかかると、見る間にその影が広がっていく。
木でできた壁、平たい屋根、全体的に四角で構成されている。正面から見ると正方形だ。見える範囲に窓はない。
「この家……、どこかで見たことはないか」
イザがぽつりと言うと、姫君が答えた。
「ナーナの家よ。なんでこんなところにあるのかしら。魔物の森から引っ越したのかしら」
「お姫様、引っ越しっていうのは人が移動することで、家は移動しないんだよ」
「あら、そうなのね」
メルキゼデクが腕を伸ばして人差し指を立てた。その爪先にランプから火が移ってくる。メルキゼデクはその火を部屋の中に投げ入れる仕草をした。火は空中を滑るようにすうっと部屋に入っていき、隅々を見分する。
「ふむ。火が入れるならいけるかもしれんな」
「私が行こう」
メルキゼデクは火を手許に戻して、イザに場所を譲った。