お姫様は翻訳中
ナーナから分けてもらった薬草を抱えて家へ帰るハンナを見送って、一行はヨキの館へ向かう。
やはり通りに人は少ないが、それでも人目はある。ハギルの人々は足を止めて目をみはり、コルバンを見ている。中には後ずさり、あからさまに恐怖の表情を見せるものもいる。
「みんな、あんなに恐れなくてもいいのに。コルバンはとっても優しいのに」
姫君が言うと、コルバンは鼻面を姫君に近づけてから言った。
「ありがとう、そう言ってもらって嬉しいよ。でもいいんだ、慣れてるから。だって、私はどう見たって魔物だもん」
姫君は黙ったままじっとコルバンを見つめる。コルバンは視線をそらす。
「鹿にもなれなくて魔物にも追いかけられて、私の居場所ってどこにもないんだ」
「それで、ヨキのところに行ってくれるの?」
「そう。私にとって、どこでも変わらない。変わらずに一人ぼっちで生きていくしかないんだ」
「でも、ナーナのところなら居心地が良かったんじゃないかしら」
「そりゃね。でも、あの森にいたら私が魔物をひきつけちゃうから、ナーナに迷惑ばっかりかけてたし。私はいない方がいいんだ」
「ナーナはそんなふうに思っていないわ、絶対に」
コルバンは小さな声で「そんなことわかんないよ」と言ったまま黙ってしまった。寂しさからナーナを突き放すようなことを言っているのだろうと姫君は思い、そっとコルバンの首を撫でた。
姫君たちの歩みよりも噂が伝わる方が早かったようで、ヨキが館の前で待ち構えていた。姫君はコルバンを連れてヨキの前に進み出る。コルバンは堂々と首を伸ばしてヨキの前に立った。
「約束通り、この子を連れてきました」
「これは、狩りの最中に逃がしてしまったやつだな。お前はこいつが『魔物じゃない』と証言したと思うが。今は、これが魔物だと言うのか?」
姫君は黙り込み、ただ静かにヨキを見つめた。ヨキはコルバンの周りをぐるりと一周して、その純白の毛並みを確かめた。
「いいだろう。魔物だろうが変わった獣だろうが、俺はこいつが気に入った。俺が飼うとしよう」
コルバンがいななき、姫君が翻訳する。
「一緒に暮らしてあげるけど、飼われるつもりはないよ。縄なんかかけたら承知しない。窮屈な檻も必要ない。私は賢いから逃げ出したりしない」
「そいつが、そう言ってるのか?」
コルバンはまた鳴いた。
「私の名前はコルバン。そう呼んでちょうだい」
「コルバンか。いい名前だな」
「ありがとう、自分でつけたの。私、あんたのこと気に入ったわ。もし良かったらずっと一緒にいてあげてもいい」
「わかった。今日からよろしく頼む、コルバン」
コルバンの首筋を軽くたたきながら、ヨキは快活に笑った。
日も傾いてきていた。コルバンを連れてきた功績を認められ、姫君たちはヨキの館に招かれた。最初に連れていかれたものとは違う建物で、こちらは居室らしく、大きな暖炉がある広い部屋が一つと、いくつかの小部屋でできている。
そのうちの一つをあてがわれて、姫君は腰を落ち着けた。木製の寝台に薄い敷布と毛布があるだけだが、外套にくるまって仮眠をとるだけという夜を数日過ごした姫君には、これ以上に嬉しいものはなかった。
嬉しくて毛布を撫でていると、戸を叩く音がした。出てみると、ヨキが立っている。
「部屋はどうだ。なにか問題はないか」
「とても快適です。ご親切に感謝します」
ヨキは親密な者にするような、くだけた様子で笑顔を見せた。
「お前は少し態度が硬いな。いつもそうなのか?」
「一国の王を前に、失礼があってはなりませんから」
「俺がそんなことを気にするようなやつに見えるか?」
「見えません」
「じゃあ、もう少し愛想よくしろ」
愛想よくと言われても、どうすればいいのか分からない姫君は黙って頷いた。ヨキは「硬いな」と呟いて姫君の手を取った。
「一つ、提案がある」
「なんでしょう」
「俺の嫁になれ」
「なれません。私には婚約者がいます」
即答した姫君の言葉にヨキはまるで怯まない。
「ほう。一緒にいる若い男のどちらかか」
「いいえ、彼らは友人です。婚約者は、黒き魔女に心を囚われてしまっています」
「そんなだらしない男は放っておけ」
ヨキは見も知らない姫君の婚約者を軽蔑するようなそぶりを見せた。姫君は、婚約者を侮辱されたというのに腹をたてない自分に戸惑って口を閉じる。
「婚約者を愛しているのか?」
姫君は俯いて首を横に振った。
「わかりません。一度しか会ったことがないのです」
「俺は二度会っているから、俺の方が優勢だな。まあ、考えておいてくれ。俺はしばらく忙しくなる。その間に俺か婚約者か選んでおけよ」
ヨキは握っている姫君の手の甲に唇をつけた。
「お前のために戦はかならず阻止する。誓おう」
「なぜ私を嫁にと言うのですか?」
心底、不思議そうにしている姫君にヨキは真面目に答える。
「動物の言葉がわかる、物おじしない、そしてなにより美しい。笑顔の中に汚いところがなにもない。よほど愛されて育ってきたのだろう」
「はい。それだけは自信を持って言えます」
「俺も自信を持って言おう。俺の嫁になれば、これからもその笑顔は消えない」
そう言って、ヨキは去って行った。