お姫様は警戒中
老婆は森の奥へ奥へと進んでいく。姫君はまたどこからか魔物が出てくるのではないかと辺りを警戒してみたが、初めて歩く森の中では、どう注意すればいいのかなどわからない。とりあえず、なにがあってもいいようにと気を引きしめて歩いた。
白い獣は老婆の隣を大人しくついていく。真っ直ぐに前を向いた姿は気高さをも感じさせるほど美しい。長いたてがみが風にさらさらと揺れている。
メルキゼデクは支えられているだけでも痛みがひどいようで呼吸が荒い。イザもノワールもなるべくメルキゼデクの体を揺らさないようにそっと歩いていて歩みが遅い。
老婆には、そんな背後の状況は見えていないだろうに、三人にあわせるようにゆっくりと歩いていく。先を急ごうとするハンナに「もうちょっとのんびり歩こうかね」などと声をかけながら。
「はい、ついたよ」
木々が急に開けてぽっかりと丸い野原が現れた。空を見上げると夕焼けて赤く、気楽そうな雲が浮いている。
その野原の真ん中に木組みの小さな建物がある。ハギルの街の建物とは趣が違う。全体的に四角で構成されている。屋根も平たく、正面から見ると正方形だ。見える範囲に窓はない。いやに扉が大きいと思ったら、ドアを開けた老婆が小屋の中に白い獣を招き入れた。
「ほら、あんたたちも、おいで」
ハンナを中に通しながら老婆が言う。メルキゼデクをなんとか運び込み、姫君がドアを閉めた。
小屋の天井から多種多様な乾燥した植物が吊り下げられている。四方の壁には棚が取り付けられ、数多くの瓶や壺が並んでいる。部屋の隅に藁が敷かれ、白い獣はそこに行って座り込み、毛づくろいを始めた。
「怪我人をこちらへ」
老婆が部屋の隅に置いてある寝台にメルキゼデクを招いた。イザとノワールがメルキゼデクを寝台に抱え上げて寝かせる。唸り声をあげたメルキゼデクに老婆が近づき、体のあちらこちらを撫でまわした。
「ふむ。骨が折れてるね。あばらと左腿か」
老婆はメルキゼデクの胸に手を置くと思いきり体重をかけた。
「ぎいやあああ!」
メルキゼデクが絶叫する。イザが慌てて老婆を遠ざけようとしたが、腕を引いてもビクともしない。メルキゼデクは叫び続けていたが、急に静かになるとガクリと首が垂れた。
「メルキゼデク!」
ノワールがメルキゼデクの両頬を包み大声で呼ばわる。それでもメルキゼデクは意識を取り戻すことはない。
「なにをするんだ! 手を放せ!」
イザが老婆に向けて怒鳴ったが老婆は知らぬふりで腕を振った。イザは軽々と振り払われて尻もちをつく。
「次は腿だね」
独り言を言いながらメルキゼデクの体を触り続ける老婆に再び躍りかかろうとしたイザの前に、ハンナが飛び出して両手を大きく開いて、とおせんぼをした。
「大丈夫だから、おばあちゃんにまかせて。ちょっと乱暴だけど、名医なの」
老婆はメルキゼデクの左腿にも全体重をかけたが、メルキゼデクは気を失ったおかげで無言だった。
「はいよ。これでおしまい」
姫君は目の前で行われた荒行に目を丸くしていたが、満足げな老婆に尋ねた。
「メルキゼデクの治療が終わったのですか?」
「ええ、そう。もう治ったよ」
優しい声音にイザもノワールも気勢をそがれてぽかんとした表情で立ち尽くしている。
「あとは痛み止めを飲ませた方がいいねえ」
老婆は立ち上がり、てきぱきと天井から数種の植物を取り、瓶から何かの種子を取り出し、薬缶に入れて甕から水を注いで部屋の真ん中に燃えている炉の火にかけた。
「これを飲めば痛みも消える。すぐに歩けるよ」
イザはいぶかしげな顔で老婆を見据える。
「折れた骨をどうやって一瞬で元どおりにしたのか説明願いたい」
老婆は開いているのかいないのかわからない細い目をこすりながら炉の側に座った。
「あんたたちも座ったらどうかね。そこの娘さんは荷物を置いて」
姫君は言われた通り荷物を壁際に置いて老婆の対面に座った。イザとノワールが姫君を守ろうとするかのように左右に腰かける。ハンナが老婆の隣にぴたりとくっついて座り、皆に笑いかけた。
「おばあちゃんはすごいの。病気もケガもあっという間に治しちゃうんだから」
老婆はハンナの肩を抱き、揺すってやりながら、しかし怖い顔をしてみせた。
「だめだろう、ハンナ。魔物が出るんだから森に入っちゃいけないよ」
「でも、おばあちゃん。薬草がいるの」
老婆はハンナの頭を撫でる。
「あんたは商売熱心だね。それは悪いことじゃない。けどね、自分の命を大切にするのが一番なんだよ。金をもうけたって、自分が死んだらなんにもならない」
イザが右手をあげて老婆の言葉を止める。
「ちょっといいだろうか。商売とはなんのことだろうか」
「ハンナの商売はね、薬草を……」
「おばあちゃん! しーーーっ!」
ハンナが口の前に指をたててみせるが、老婆は気にせず話し続ける。
「調合して売るのさ。死んだ母親の後をついで薬師をしてる。小さいのにえらいもんだよ」
「母親は亡くなっているのか?」
ハンナが気まずそうに俯く。老婆はひょうひょうと答えた。
「ああ。三年前にね。急なことだったけど、隣町の薬師がハンナに仕事を教えてくれたそうだよ。ねえ、ハンナ」
話を振られてハンナは俯いたまま、小さく「うん」と頷いた。
「ハンナ、薬草はもうこの森じゃ無理だ。魔物がどんどん増えている。もう来たらいけない」
「でも、おばあちゃんは森に住んでるじゃない」
「ああ、そうそう。あんたたちは何をしに来たんだね」
ハンナの言葉をまるっと無視して、老婆は姫君に聞いた。
「魔物と話をしに来たのです。なんとか仲良くなってハギルの王に会ってもらいたいのです」
老婆は細い目で、じっと姫君を見つめた。
「できると思うかね?」