お姫様は尋問中
山はよほど急峻に見えていたが、道は思いのほかゆるやかに下っていく。頂上付近には大きな岩が多かったが、人の手が入った道からは岩が除かれていて足元は安定している。時折現れる大きな段差を下りる時に手を借りる程度で、姫君は自分の力で歩き続けた。
ハギルを目の前にした高い山は気温が低く、一行は外套をきつく体に巻き付けていた。夕方になり、山を下っているとさらに気温は下がっていく。ハギルに春が来るのはアスレイトに比べるとずいぶん遅いのだとメルキゼデクが言う。
「今は森の木々にやっと若芽が付きはじめた頃だろうね」
「では、熊はまだ出ないだろうか」
「そうだねえ。もっと暖かくなってからだろうね」
針葉樹の森に入る直前にイザとメルキゼデクがそんなような会話をしていたが、姫君は自分の足元に集中していてよく聞いていなかった。森の奥の方で数頭の犬が吠える声を聞いた時にも、のんびりしたものだった。
「あら、猟犬みたいよ。獲物を追えって言っているわ」
立ち止まり、息を整えながら言う姫君にイザが緊迫した表情で尋ねる。
「獲物はなんだと言っている?」
「なんとも言っていないみたい。追え、追えって、それだけだわ」
メルキゼデクがぐるりと首をめぐらす。
「隠れられそうなところはなし、木に上っても熊ならば意味はなし、そうではないことを祈るしかないねえ」
そんな話をしているうちにも、猟犬の吠え声はどんどんと近づいてきていた。
「とにかく、できるだけここを離れようかね」
メルキゼデクに指示されて木の陰をたどるようにしながら方向を変える。だが、運悪く獲物も方向を変えていたようで、一本の木の陰から一匹の獣が飛び出してきた。危うくぶつかりそうになったノワールが飛び退る。
「なんだ!」
現れたのは鹿に似た生き物だった。ただ、色は真っ白で長いたてがみを持ち、目は燃えるような真っ赤だ。
「魔物か!」
イザが叫び、すかさず短剣を抜いた。
「やめて! 私は魔物じゃない!」
それがいななき、叫んだ。姫君は思わずイザとその生き物の間に駆け込んだ。
「なにをしているんだ! 魔物に近づくな!」
「この子は魔物じゃないって言っているわ。助けを求めているのよ」
その隙をついて、未知の生き物は首をめぐらすと駆け出した。山の上へと向かい、あっという間に見えなくなった。
と、思う間もなく、猟犬が一行の真ん中に躍り出た。木々の合間を縫って次々と駆け寄ってくる。ぐるりと姫君たちを取り囲むと、激しく吠えたてた。
「怪しいやつ! 俺たちの獲物をどこへやった!」
「どこへもやっていないわ。お願い、あの子を追うのはもうやめて」
姫君が語りかけると犬たちはぴたりと吠えやんだ。
「俺たちの言葉がわかるのか。獣使いか。だが、残念だな。俺たちには主がいる。主に忠誠を誓っている。獣使いの言うことには耳を貸せん」
そう言って辺りの臭いをかぎ、獲物の行方を探っている犬たちに姫君は語り続ける。
「あなたたちの飼い主はどこ? その人と話をするわ」
「主なら、もう来たぞ」
犬が頭を上げ、森の奥からやってくる騎馬の人物に目をやる。毛皮の胴衣を身に着けた大柄な男だった。弓矢をこちらに向けている。男は姫君たちに目をとめると、一瞬、動きを止めたがすぐに弓矢を構えなおし、大声を上げた。
「なにものだ! どこからこの森に入った!」
メルキゼデクが妙に弱々しく答える。
「旅のものです。山脈で迷いに迷ってここまで来てしまいましたが、いったいここがどこなのかも分かっておらんのです。いったい、ここはハギル国のどのあたりでしょうか」
男は警戒は解かないものの、やや語調をゆるめた。
「ここは西の王領だ、勝手に踏み入っていい場所ではない。お前たち、そのまま動くな。妙な真似をしたら女を射る」
ノワールが牙を剥きだしたのを見てメルキゼデクが止める。
「やめなさい、ノワールくん。我らは図らずも侵入者になってしまったのだ。裁きを受けねばならない。あの方は王領の方だ。動きさえしなければ矢を射ることはなさらんよ」
ノワールは眼光はするどいながらも、力を抜いた。男はイザが持っている短剣を顎で示した。
「その剣を地面に捨てろ」
イザは言われたとおりに短剣を放り投げた。姫君は自分に向けられた矢じりをじっと見つめている。ヒリヒリするような緊張感がそこから生まれているのを感じる。目には見えない気合いのようなものが矢を通して自分に向けて放たれている。動くなと言われなくとも、体を動かすことは難しい。まるで見えないロープで縛られてしまったかのようだった。
犬たちがピタリと動きを止め、耳をそばだてた。遠くから馬が駆ける音と、人の話し声が聞こえてきた。しばらくすると、兵士と見える服装の男が二人、姿を見せた。
「なんだ、その者たちは。森番、なにがあった?」
弓を構えたままの男は姫君たちから目をそらさずに答える。
「はい。侵入者です。旅人と申しましたが、それ以上はまだ聞いておりません」
「わかった、弓を下ろせ」
矢じりが自分から遠ざけられて、姫君はほっと息を吐いた。命の危険にさらされることなど考え及びもしなかった姫君には強烈すぎる体験で、頭が朦朧として倒れそうになっていた。
兵士たちは馬から降りると、イザが放った短剣を拾い上げて腰にさした。いつでも抜けるように長剣の柄に手を添えたまま尋ねる。
「なにものだ。身分を証せ」
メルキゼデクが泣きそうな声をあげる。
「私たちは旅人です。故郷を持たず彷徨い歩くだけのもの。道に迷っただけなのです」
「故郷を持たぬ? まさかビャクシンか」
「はい、さようでございます」
兵士の表情が少しだけやわらいだ気がして、姫君は呼吸が楽になるように感じた。
「証明できるか」
「はい。では」
メルキゼデクは両手を大きく広げると、深く息を吸い、はるか天を見上げた。目には見えないなにかが空から降ってくるのを姫君は感じた。それはノワールにもわかるらしく、不思議そうに空を見上げている。
「こちらへ向かう馬が六頭。三人は貴人、三人はあなた方と同じ服装ですな。この森を抜けるとまだ多くの馬が控えていますな」
「遠見か」
「はい。さようでございます」
兵士は少し考えてから、もう一人に「連絡してこい」と命じた。馬が行ってしまうと兵士はイザに近寄り、短剣の鞘を受けとった。
短剣を鞘に納めてから腰に差しなおすと、メルキゼデクに近づいた。