お姫様は苦労中
山の頂上付近にはほとんど植物は生えていない。たまに枯草なのだろうかと思いたくなるような薄茶色の小さな草むらが岩陰に見えるくらいだ。
しばらく旋回をつづけていた鳶は急に無言になって降下していき、見えなくなった。
「どこへ行ってしまったのかしら」
「さあ、わからないがね。危険なことはないと判断したのだろうかねえ」
鳶がいなくなってしまうと、岩山には生き物の姿は見えなくなった。山の低い方を見ると、ぽつぽつと繁みがあるのがわかる。さらに下れば森もある。だが、尾根伝いには身を隠せそうなところはなく、遠見のものがいれば姿はしっかりと捉えられているだろう。
一行が向かうのは鳶が消えた方角。ハギルの国境のうちでも警備がゆるい場所だとメルキゼデクが言う。
「なにせ山は険しく峡谷は深く、通るのが一苦労でね。軍隊なんぞはとうてい通れない。だが超える価値はあるんだよ」
姫君は首をかしげる。
「なにか大事な場所があるのでしょうか」
「われらビャクシンの民がいるのだよ。遠見の天才が、きっと力を貸してくれるよ」
そう言ってメルキゼデクは行く手を眺めた。
それから一昼夜、一行は歩き続けた。山脈はあまりにも大きく、尾根は遠大だった。食事と仮眠のための休憩中、ノワールの肩に頭を預けて眠り込んでしまった姫君を見ながらイザがつぶやいた。
「女性にこのような苦しい旅程を歩かせることになるとは……。心苦しい」
メルキゼデクは慰めるでもなく、携行食料の堅パンを噛みしめながら言う。
「人はいつでも旅に出る可能性があるものだよ。男女は関係ない。年齢も関係ない。ただ、前に向かう魂だけが、足を進ませる。イザくん、騎士である君にとって女性は守るべきものだろう。だが、われわれビャクシンはそのようには考えないのだよ」
イザは眉間にしわを寄せる。
「では、女性をどう捉えているのだろうか」
メルキゼデクは手を伸ばしてイザの額に手を置き、ぐいぐいと揉みほぐした。
「ははは、固い、固い。もっと自由に生きてもいいのだよ。女性もそうだよ。守られることに縛られず、好きなところに自分の足で歩いていくことができる。それがビャクシンの生き方だ」
「しかし、世の中には様々な害悪があるものだ。それを女性に見せるのは良くないはずだ。女性はか細く繊細だ。醜悪な世間に耐えられるものではない」
黙って聞いていたノワールが盛大に噴きだした。
「お前、それ本気で言ってるのか? 城の女中たちの口汚さを聞かせてやりたいよ。そうでなくても城下町の酒場の女将だって、すごい剣幕で怒鳴り散らすんだって騎士団のやつが言ってたのを聞いたぜ」
イザの眉間のしわはますます深くなる。
「あの方も、繊細な心根をお持ちなのだ。ただ、日々に疲れて周囲に合わせてだな……」
「はいはい。イザにとっての女性の基準は、お姫様だもんな。そりゃあ純粋で守らなきゃならない存在だよな」
「そうだ」
イザは真剣な表情で自分の手を見つめる。
「絶対に私が守ってみせる」
「だれを?」
ノワールが意地悪い顔で笑う。
「お前はだれを守るって?」
イザの視線が揺れた。ちらりちらりと姫君に視線を動かしながらも、そこに長くとどまることはない。どこか虚空に幻を求めているようにも見える、ぼんやりとした視線だった。
「私の姫君を、必ず取り戻す」
口調もどこか力なく、夢にうなされている人のようだった。
翌日の昼には姫君の疲労は極限に達しようとしていた。それでも姫君は自分の足で歩いた。荷物も背負い、足のまめはまた潰れ、血を流していた。
尾根を辿っている間は、それでも足が動いていたが、山を下る段になり、姫君の膝はがくがくと震えて力が入らなくなっていた。
「お姫様、荷物だけでも下ろしてよ」
懇願するノワールに姫君は首を横に振ってみせた。
「大丈夫よ。私も頑張れるわ。黒き魔女に負けるわけにはいかないもの。歩かなければ」
メルキゼデクがぴたりと足を止めた。
「休憩にしましょうかな」
イザが首をかしげる。
「休憩なら、先ほどとったばかりだが」
「肉体の休憩はとったが、心の休憩はとれていなかったようだ。ちょっと立ち止まろうではないかね」
そう言って肩にかついでいる荷物を下ろした。姫君は立ち止まれたことで、ほうっと息を吐いた。メルキゼデクは荷物の中から、今朝食べ終えたパンを包んでいた布巾を取り出した。
「これはアーリン、ダニエルのおかみさんが一刺し一刺し縫ったものだよ。彼女にとって、今や裁縫は日常茶飯事だ。しかし、この布巾は彼女が娘時代に、まだ手許が定まらない時に縫ったものだ。ごらん」
メルキゼデクは布巾を姫君の方に差し出した。縫い目は荒く、ところどころほころびている。
「不器用だ。だが、おかみさんの一生懸命さが伝わるのではないかね?」
「はい。大切に縫っていらっしゃるのがわかります。とても愛おしいわ」
メルキゼデクは優しく微笑む。
「私達にとっては、あなたの拙さが愛おしいのだ。この布巾のように、懸命に生きているあなたを、私たちは守りたくなるのだよ。望むことはさせてあげたい。だが、危ない時には針を持つ手を止めることもある」
姫君はぱちくりと瞬きをした。
「私はこの針目ほどにも拙いのでしょうか」
ノワールがそっと言う。
「うん。子猫みたいなもんだよ」
姫君は、申し訳なさそうにしながらも毅然と胸を張った。
「では、なおさら頑張らなくては。子猫に必要なのは日々の努力ですもの」
ずんずんと歩いていく姫君の肩から、イザがひょいと荷物を取り上げる。
「子猫には重すぎる荷だ。まずは手ぶらで歩く練習をしたほうがいい」
姫君はぱちぱちと瞬きをして、ノワールとメルキゼデクに視線を送ったが、二人とも黙ったまま頷くので、諦めて歩き出した。
「私も役に立ちたいわ」
ぽつりと呟いた声はあまりにも小さくて、皆の耳には届かなかった。