お姫様は登山中
一つ目の峰に到着したのは日が完全に昇り、影が濃くなったころだった。姫君も目を覚まし、ノワールの背から下りると言い張った。
「ノワール、私、歩けるわ」
「お姫様は歩かなくていいよ。俺がずっと守るから」
じわりと浮いたノワールの額の汗を、メルキゼデクが取り出した手巾で拭いてやりながら優しく語る。
「ノワールくん。守るというのは抱え込み、隠すことだけではないよ。君も母に守られ、そこから巣立ったのだから知っているだろう」
ノワールは唇を噛み、俯いた。姫君は優しくノワールにささやく。
「ねえ、ノワール。私は変わりたいの。みんなに守ってもらって何も知らなかった幼い私ではなくて、みんなと一緒にどこまでも歩いて行けるようになりたいのよ」
姫君はノワールの背をぎゅっと抱きしめる。
「だから、ノワール。一緒に歩いて、どこまでも一緒に行ってくれる?」
ノワールはゆるゆると顔を動かして肩越しに姫君と視線を合わせた。
「俺も一緒でいいの?」
「もちろんよ」
「口汚いし、イザみたいに力もない。ただの猫だよ」
「ただの猫なんかじゃないわ。ずっと一緒に過ごしてきた私の大切なお友達よ。私を守ってくれる頼もしい人よ」
ノワールは足を止めて、じっと姫君を見つめた。姫君は力が抜けたノワールの手からするりと抜け出す。
「ありがとう、すごく元気が出たわ。ノワールのおかげよ」
姫君は手を伸ばしてノワールの手を握る。
「行きましょう」
しっかりした声を出せるようになった姫君の元気な目を見て、ノワールは微笑んで頷いた。
イザが持っていた荷物をノワールが半分受け取るときに、姫君も荷物を持つと言い張った。だが、イザはかたくなに首を横に振る。
「女性に重いものを持たせるなど……」
「うだうだ言うなよ」
ノワールはイザの手から荷物をすべて奪い取ると、一番小さな包みを姫君に、その次に大きなものをメルキゼデクに手渡した。メルキゼデクはにっこりと笑う。
「イザくん。私たちはポートモリスを出る時に家族になったじゃないかね。家族はみんなで助けあうものだよ」
年長のメルキゼデクに言われて、疲労を感じていたイザはためらいながらも頷いた。
姫君はノワールに手伝ってもらって布包みを背にかつぎ、元気よく前を向く。
「お待たせしました。行きましょう!」
四人は明るい日の光のもと、尾根にそって歩いていく。日はぽかぽかと照り、暑いほどだ。丸い外套を脱いで畳み、小脇に抱える。高い山の上、吹く風は爽やかだが、見渡す一面が岩だらけでピクニック気分とはいかなかった。
それでも青空と白い雲の下を元気に歩けるのは嬉しいことだと、姫君は上機嫌の笑顔を浮かべていた。
「なにか楽しいことがあったのだろうか」
姫君の表情に気づいたイザが尋ねる。
「お天気が良くて、みんな元気で。これならきっと私たち、黒き魔女になんか負けないわと思ったの」
イザはふっと表情をゆるめる。
「のんきなことだ」
「あら、いけないかしら」
きょとんとする姫君の表情が幼子のようにあどけなく、イザは思わず微笑んだ。
「いや、心強い。きっと黒き魔女の企みを止めよう」
二人が微笑みあっている真ん中にノワールが割りこむ。
「鳶が歌ってるぜ」
耳を澄ますと、確かに遠くの峰から鳶が鳴いている声が聞こえた。
「人間がいる、警戒しろと言っているわね」
姫君が鳶の言葉を翻訳すると、イザが遠くの鳶を観察しながら尋ねる。
「人間とは私たちのことだろうか」
メルキゼデクが手庇で陽光を遮り、鳶を眺めながら答えた。
「いや、違うだろうね。鳶の視線は峰の向こうに向かっているようだよ」
ノワールが鳴き続ける鳶の声に耳を傾けながら言う。
「尾根の向こうに人がいるんだろう。ハギルの人間だよな。敵か、味方か。このまま行くしかないのかな。それとも、山を下りて姿を隠すか?」
メルキゼデクは腕組みして「ふーむ」と考え込んだ。視線は尾根をたどって動いていく。
ポートモリスとハギルの国境線になっているこの山脈は、ハギル側に向かうほど標高の高い山が増えていく。一行が登り切った一つ目の尾根は、山脈の中で一番低い山だ。
鳶が飛んでいる辺りはもうハギル側に入っている高い山で、見える限りでは最も標高が高そうだった。
「このまま進むと見つかる恐れはある。だが、一度下山してまた登り直すのは時間の無駄だろうなあ。鳶が逃げないうちは進むとしようか」
メルキゼデクの判断に従って、尾根を歩き続けることに決まった。